第1章 別れのあと、静かな京都
鴨川の風は、今日も少し冷たかった。
会社帰り、コンビニで買った缶チューハイを片手に、橋の欄干にもたれる。
川面を流れる光が、ゆらゆらと滲んで見えた。
高梨美咲、三十歳。
彼氏がいなくなって、半年。
今夜も、ひとりで乾杯。
数日前、元恋人・山下孝太の結婚報告をSNSで見た。
投稿のトップには、彼の新しい妻の笑顔。
かつて、自分も同じように笑っていたことを思い出す。
――もう何も感じない。
そう思いたかった。
「結婚しました。幸せです。」
という文章のあとに並ぶ「おめでとう!」のコメント。
画面を閉じながら、美咲は心の中でつぶやく。
――よかったね。お幸せに。
それは祝福というより、
少し乾いた空気をまとった“区切りの言葉”だった。
⸻
明日は仕事。
しかも、よりによって孝太の会社が打ち合わせに来る日。
逃げられない。
でも、もう逃げない。
冷たい風を胸いっぱいに吸い込みながら、美咲は小さく笑った。
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翌朝。
オフィスの蛍光灯が、やけに白く眩しい。
「おはようございます」といつも通りに挨拶をして、
パソコンの電源を入れる。
隣の席の後輩が、スマートフォンを覗き込みながら言った。
「先輩、山下さん、昨日結婚されたんですね。」
「……そうなんだ。」
声のトーンを変えずに返すと、後輩は気まずそうに笑った。
その瞬間、ドアの向こうにスーツ姿の男性が現れる。
「お世話になります。○○商事の山下孝太です。」
――来た。
以前より少し痩せたように見える。
ネクタイも髪型もきっちり整っていて、
あの頃より“大人の男”になった気がした。
だが、その自信に満ちた笑顔は、何も変わっていない。
隣には新しい妻・千春の名刺。
広告代理店のロゴが、妙に眩しく見えた。
「お久しぶりです、美咲さん。」
「お世話になっております。」
美咲は表情を崩さず、事務的に頭を下げた。
胸の奥で小さな痛みが波紋のように広がる。
けれど、それも静かに飲み込んだ。
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少し離れた席からそのやり取りを見ていたのは、上司の村瀬一真。
三十三歳。
整った顔立ちに穏やかな声。
いつもは軽く冗談を交わす同僚たちも、
彼が本気で話すと自然に空気が締まる。
「大丈夫か?」と、帰り際に村瀬が声をかけた。
「ええ。全然平気です。」
「……そうか。でも、無理はするなよ。」
その一言が、不思議と心に沁みた。
まるで“強がりを見抜かれた”ような気がした。
⸻
その夜。
美咲は部屋の灯りを落とし、机の上の御朱印帳を開いた。
朱色の印が並ぶページの中に、
昨日訪れた上賀茂神社の印があった。
「縁結び」と墨で書かれた文字。
見つめていると、自然に口元がゆるむ。
――恋愛の縁じゃなくてもいい。
人との縁、場所との縁、そして自分との縁。
そのひとつひとつを、大切にしていけばいい。
夜風がカーテンをゆるやかに揺らす。
静かな京都の夜が、心の中を少しだけあたためてくれた。




