ビッグマウスの努力家②
五島エリック麗矢がその名前を耳にしたのは、ジムのラウンジでプロテインを飲み干していた何気ない午後だった。
冷房の効いた空間に、トレーニング終わりの汗とゴムマットの匂いがまだ残っている。
彼の周囲には、いつものように数人の取り巻きが集まり、スマートフォンを片手に格闘技ニュースを肴に雑談をしていた。
「――でさ、信じられる? 大内祐介だよ、大内」
「40歳のロートル。もう引退寸前って言われてたやつ」
その名前が出た瞬間、五島は眉をわずかに動かした。視線はボトルの底に落ちたままだが、耳だけは確実にそちらを向いている。
「それがさ、判定不利からの三ラウンドKO。完全に大逆転」
「会場、ちょっとしたお祭り騒ぎだったらしいっすよ」
取り巻きの一人が、興奮気味に動画を見せ合っている。画面の中では、白髪が混じり始めた男が、満身創痍の体で拳を振り上げていた。
歓声に包まれながら、リング中央で崩れ落ちる相手。誰もが予想しなかった結末。
五島は鼻で笑った。
「40で奇跡? ただのまぐれだろ」
低く、はっきりとした声だった。
「若い頃に結果出せなかったやつが、たまたま当たっただけ。美談にするほどの話じゃねえ」
取り巻きたちは一瞬黙り込み、すぐに同調するように笑った。
「ですよね」「今さらですよ」
その反応を確認するように、五島はソファに深く腰を沈める。侮蔑は彼にとって自然な呼吸のようなものだった。老い、衰え、過去の栄光――彼が最も見下す対象だ。
だが、もう一度だけ、彼はスマートフォンの画面に目をやった。
大内祐介は、決して派手な選手ではなかった。体つきは丸みを帯び、動きもキレがあるとは言えない。それでも、倒れそうになりながら前に出続ける姿には、奇妙な粘りがあった。
打たれても、崩れても、諦めない。勝つ確率が限りなく低いことを、本人が一番理解しているはずなのに。
「……ダサいな」
そう呟きながら、五島の胸の奥に、説明のつかない感覚が生まれていた。嫌悪でも、尊敬でもない。ただ、無視できない何か。
40歳。
肉体のピークを過ぎ、若い才能に踏み潰される年齢。
それでもリングに立ち、勝利を掴む執念。
五島は思い出していた。高校時代、六冠を達成した直後、誰もが自分を持ち上げたあの空気。勝つのが当たり前になり、負ける未来を誰も語らなくなった瞬間。
――もし、すべてを失ったら?
――誰からも期待されなくなったら?
そんな仮定を、彼はこれまで一度も真剣に考えたことがなかった。
「でもさ」
五島は再び口を開く。
「40までしがみついて、やっと一勝。人生トータルで見たら、負け越しだろ」
言葉は冷たく、棘に満ちている。だが、その奥には微かな苛立ちが混じっていた。自分でも気づかぬうちに。
取り巻きの一人が恐る恐る言った。
「でも……ああいうの、嫌いじゃないファンも多いみたいっすよ。諦めない姿が――」
「ファン目線の話だろ」
五島は即座に切り捨てた。
「勝者の理屈じゃねえ」
そう言い切りながら、彼の脳裏には、大内が勝利の瞬間に見せた表情が焼き付いていた。
歓喜というより、安堵に近い顔。長い時間、報われなかった人間だけが浮かべる表情。
五島は立ち上がり、サンドバッグの前に向かう。取り巻きたちは空気を察し、距離を取った。
重い一発がバッグに叩き込まれる。
次も、その次も。
「……まだリングに立ってるだけ、マシか」
誰にも聞こえない声だった。
侮蔑の言葉の裏で、五島エリック麗矢は、ほんのわずかだが大内祐介に自分を重ねていた。
勝ち続ける者と、負け続けた末に勝った者。
交わるはずのない二つの道が、ほんの一瞬、彼の中で重なった。
その感覚を振り払うように、五島はさらに拳を振るった。
自分は違う。
そう言い聞かせるために。




