2023年5月21日 千葉県木更津市民プラザ③
試合が終わって、どれくらい時間が経っただろう。
控室に戻った僕は椅子に座ったまま、グローブを外せずにいた。
血の匂い。汗の匂い。マットの粉の匂い。
全部がまだ肌に張りついている。
さっきまでリングの上にいた実感が、ゆっくりと身体の中から抜けていく。
リングを降り、汗の冷え始めた身体で控え室に戻るころになって、ようやく胸の奥に静かな波が立つ。
控え室の蛍光灯は白すぎて、時間の感覚を奪う。ドクターがペンライトを持って近づき、僕の瞳に光を当てる。
瞬きをして、指を数える。
異常なし、と彼は短く言った。
血圧計の腕を締め付ける音が、やけに大きく聞こえる。包帯の匂い、消毒液の冷たさ。
ベンチの向かいで、トレーナーの永瀬さんがタオルを畳んでいる。
長い付き合いだ。
彼は僕の背中に手を置き、今日の試合の細かな修正点を、いつもの調子で話し始めた。
だが、言葉の端々に、別の話題が潜んでいるのが分かる。僕も同じことを考えていた。
「……あの」
言いかけて、喉で止まる。
引退、という二文字は、いつも重い。
勝ったあとだからこそ、余計に。
勝てなくなったら簡単だ。
だが、勝っているうちに終えることは、勇気がいる。
トレーナーは僕の視線を受け止め、少しだけ笑った。
「今日の動き、悪くなかった。最後の距離も、ちゃんと見えてた」
「でも、いつまでやれるかな」
ドクターがチェックを終え、カルテを閉じる音がする。「お疲れさまでした」と言って出ていった。控え室には、僕ら二人の静かな沈黙だけ残る。
「年齢の話か?」
トレーナーはタオルを置き、椅子に腰掛けた。
「それとも、あれか」
あれ、で通じる。
夢と消えた PRIDE ライト級グランプリ。
声もかからなかった RIZIN バンタム級トーナメント。
そして、叶わなかったUFC参戦。
名前を口にするたび、胸の奥が少しだけ痛む。出
たくても、出ることができなかった。
「大舞台に立てなかったこと、まだ引っかかってて」
トレーナーは頷いた。
「分かるよ。でもな、お前は別の場所で戦ってた。名前の残り方は一つじゃない」
僕はベンチの冷たさを感じながら、天井を見上げた。
遠征の車内、減量の夜、観客の少ない会場。
派手さはなかったが、確かに積み上げてきた時間がある。
勝ちも負けも、全部が今の僕を形作っている。
「次のステップ、考えてみろ」
トレーナーは静かに言った。
「指導でも、解説でもいい。リングの外にも、戦場はある」
次のステップ。その言葉は、怖くて、同時に温かい。戦うことだけが、僕の人生じゃないと、ようやく認めてもいい年齢なのかもしれない。
控え室の外から、撤収の音が聞こえる。
会場は、すでに日常へ戻りつつある。
僕は包帯を外し、深く息を吸った。身体は、まだ動く。
心も、まだ燃えている。ただ、その火の使い方が変わるだけだ。
「少し、考えるよ」
そう言うと、トレーナーは大げさに頷いた。「それでいい」
立ち上がり、扉に手をかける。
振り返ると、控え室はもう、ただの部屋だった。
夢や希望は、過去にあるんじゃない。
外は夜風が冷たい。地方の街灯が、やけに優しく光っている。
僕は一歩踏み出し、次のリングへ向かう準備を静かに始めた。




