2023年5月21日 千葉県木更津市民プラザ②
ラウンドの合間、椅子に腰を下ろすと、背中に氷のような冷気が走った。
セコンドが首筋にアイスパックを押し当てる。
その感触が心地よくて、思わず目を閉じた。
鼓動が耳の中で鳴っている。
ひとつ、ふたつ。
重たいドラムのように。
「いいぞ、まだ距離取れてる。焦るな」
セコンドの声が遠くから聞こえた。
言葉は頭に入ってこない。
ただ、相手の若い顔が、脳裏に焼き付いている。
あの目――。
何も恐れていない、勝つことを疑っていない。
かつての僕の目と同じだ。
僕は、思わず泣きそうになった。
若さってのは残酷だ。
無敵を信じられる時間があること自体が、どれほどの才能か。
でも、それに勝てるのが、僕の力だ。
今夜くらいは、まだそれを証明してみせたい。
カーン。
第2ラウンド開始。
立ち上がると、脚の筋肉がわずかに軋む。
だが、動ける。
呼吸は整っている。
痛みは、まだ「生きている証」だ。
相手は最初から圧をかけてきた。
ジャブ、ロー、フェイント。
距離を潰して、テイクダウンを狙う。
セオリー通りだ。若い選手の典型。
僕は軽くステップを刻む。
リングの端を意識しながら、あえて逃げない。
相手が距離を詰める。
その瞬間、左のローを返した。
「ベチッ」という音が響き、相手がわずかに体勢を崩す。
手応えがあった。
次の瞬間、相手がタックルに来た。
僕は膝を引き上げ、腹に突き刺す。
ミドル気味に入った膝が、相手の動きを止めた。
が、勢いのまま抱え込まれ、ケージに押し込まれる。
胸が圧迫される。息ができない。
でも、慌てない。
僕は脇を締め、顎を引いた。
昔、柔術のコーチに言われた言葉を思い出す。
「疲れたときこそ、目で勝つんだ」
僕は相手の瞳を見た。
その焦りに気づいた瞬間、腰を切る。
左のアンダーフックを差し、体を入れ替える。
相手の背中がフェンスにぶつかった。
――いける。
膝を突き上げ、右ストレートを放つ。
クリーンヒット。
相手の顔がわずかにのけぞった。
その隙にショートフックをもう一発。
手が勝手に動く。
昔のリズムが、身体の奥から蘇る。
観客がざわめいた。
少ない観客なのに、その声はやけに大きく聞こえる。
だが、相手はすぐに持ち直した。
若さがそうさせる。
すぐにローを返して距離を取る。
息を整えながら、また圧をかけてくる。
僕の左足に鈍い痛みが走る。
ローのダメージが蓄積している。
足が鉛のように重い。
動け、動け――心の中で叫ぶ。
それでも、逃げない。
ここで引いたら、もう二度と前に出られなくなる気がした。
相手が右のフェイントを入れ、飛び込んできた。
僕はそのタイミングを読んでいた。
カウンターの右を狙う――が、フェイントだった。
空を切る拳。
次の瞬間、相手の左フックが僕の頬を打ち抜いた。
視界が揺れる。
足がもつれる。
リングの端まで下がった。
セコンドの声が飛ぶ。
「下がるな!見ろ、見ろ、目を開けろ!」
僕は、見た。
目の前の若い拳が、光の中を飛んでくる。
その光景が、何かの既視感を呼び起こした。
――若い頃の自分だ。
相手の姿に、かつての僕が重なった。
あの頃の僕も、勝利しか信じていなかった。
相手がどれだけ倒れても、自分が倒れるなんて思ってもみなかった。
でも、時間は全ての人間を平等に叩く。
若さも栄光も、いずれ手からこぼれる。
その中で、それでも立ち続けること。
それだけが、今の僕に残された“勝ち方”だ。
僕は、前に出た。
拳を下げ、相手の目を見据える。
相手が一瞬、驚いた。
その刹那に、僕は踏み込んだ。
右ロー。
続けて、左ボディ。
痛みを押し殺して、流れを作る。
相手が反応してカウンターを狙う――その瞬間。
僕は左フェイントからの、右オーバーハンドを放った。
バシィッ!
音が響く。
拳が相手の顎を正確に捉えた。
相手の体が浮き、ゆっくりと後ろに崩れ落ちる。
時間が止まったようだった。
観客のざわめきも、レフェリーの声も、何も聞こえない。
ただ、自分の心臓の音だけが響いていた。
僕は、リングの中央で立ち尽くしていた。
拳を握ったまま、呼吸を忘れていた。
レフェリーが相手を確認し、試合を止めた。
KO
その言葉が、遠くから聞こえた。
セコンドがリングに駆け上がり、僕の肩を叩く。
歓声が少しずつ戻ってくる。
誰かが叫んだ。「やったぞ、大内!」
僕は笑った。
ロートル――そうだ、今の僕はそう呼ばれている。
だが、その言葉の響きが、今だけは少し誇らしく聞こえた。
ロープにもたれ、天井を見上げた。
蛍光灯の白い光が滲む。
あの日の修斗のリングのライトも、TUFのスタジオのライトも、みんな同じように白かった。
結局、どこにいても、僕は同じ光の下に立っていた。
観客席の子どもが、僕に手を振っていた。
誰かに言われて真似しているだけかもしれない。
それでも、僕はその手に軽く拳を掲げて応えた。
リングを降りるとき、足がまだ震えていた。
痛みも、息切れも、全部心地よかった。
――まだやれる。
そう思った瞬間、涙が込み上げた。
セコンドが肩を抱きながら笑った。
「やっぱり、お前は“あの頃のまま”だ」
僕は静かに首を振った。
心の中は妙に静かだった。
――もう一度、スポットライトを浴びたい。
過去の栄光でも、今の一勝でも、全部僕の人生だ。
僕は夜空を見上げて、ゆっくりと息を吐いた。
白い息が消えていくのを見ながら、
拳を、もう一度だけ、握りしめた。




