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最後の激闘王 〜ロートル総合格闘家、ひと花を咲かす〜  作者: サウナが好きな人
第一章 ロートルと呼ばれた格闘家

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2023年5月21日 千葉県木更津市民プラザ①


 蛍光灯の光が、体育館の天井から滲んでいた。

 地方都市の古びた総合格闘技イベント。

 ポスターには派手な煽り文句が踊っているが、実際の客入りは寂しいものだった。


 観客席に並んだパイプ椅子は百脚ほど。

 そのうち埋まっているのは一割にも満たない。

 ほぼ選手の関係者しかいない。



 僕は控室の隅で、膝に肘を置き、黙ってグローブを眺めていた。

 このグローブはもう何年も使っている。

 縫い目が少しほつれて、汗と血が染み込んで、色がくすんでいた。

 新品のような光沢はもうないが、手に馴染む。

 手の中に入れた瞬間、指先が「戦う」という感覚を思い出す。



 だが――手が震えていた。

 緊張なのか、寒さなのか、年齢なのか、自分でもわからない。

 昔は、試合前の震えなんてなかった。

 対戦相手の映像を見ながら、「どうやって勝ってやろう」と笑っていた。

 今はただ、無心で呼吸を整えるしかできない。


 壁際の古い姿見に、自分の姿が映っていた。

 頬が少しこけ、顎のラインもぼやけている。

 40歳を過ぎて、筋肉の張りは昔ほどない。

 皮膚の下に、時間が沈んでいるような気がした。


 「赤コーナー、大内祐介選手、入場です!」

 リングアナの声がスピーカーを震わせる。


 立ち上がる。

 マットを踏む足音が、思ったより重かった。

 客席を見れば、子どもが数人、ポップコーンを食べながら僕を見ている。

 あの子たちはきっと、僕の名前なんて知らない。

 昔はこの町でも、僕の試合のチケットもすぐに売り切れた。

 だが今は――手売りの束が、ほとんど手元に残ったままだ。


 リングに上がる。

 キャンバスの中央に立つと、汗と消毒液の混じった匂いが鼻を刺した。

 目の前の相手は若い。二十代前半。

 腹筋が板のように割れ、目の奥に迷いがない。

 僕のことなんて、きっと名前すら知らないだろう。

 だがそれでいい。


 ――カーン。


 ゴングが鳴った瞬間、時間がゆがむ。


 相手が踏み込んできた。ジャブ、ロー、そしてタックル。

 動きが早い。

 受け止めるたびに、腕が軋む。

 その衝撃が、過去の記憶を呼び覚ます。



---



 ――アマチュア修斗ウェルター級無敗。

 あの頃の僕は、誰にも負ける気がしなかった。

 試合が終わるたびに歓声が爆発し、観客席から紙テープが飛んだ。

 勝って当然、負けるなんて考えたこともなかった。

 練習は苦しかったが、苦しいほど強くなれると思っていた。

 ジムの仲間たちが笑い、コーチが背中を叩く。

 僕はただ、自分の未来が輝いていく音を聞いていた。



 ――修斗7連勝。

 雑誌の表紙に名前が載った。

 スポンサーがつき、地元テレビの取材も来た。

 「次は世界だ」って、誰もが言った。

 両親も喜んでいた。特に父は、テレビの前で何度も録画を再生していた。

 その姿を思い出すたび、今も胸が熱くなる。



 ――PRIDE2007 ライト級GP内定。

 夢の舞台だった。

 格闘技を始めた頃から、PRIDEは神話だった。

 リングの白いロープ、ゴング、テーマ曲――。

 その全てが「世界」を象徴していた。

 でも、GPが始まる前にPRIDEは消えた。

 あっけなく、音もなく、幻のように。

 メール一通で、僕の夢は終わった。


 ――2度の階級変更。

 ライト級からフェザー級へ。

 それでも勝てず、バンタム級まで落とした。

 減量は地獄だった。

 鏡の中の自分が骨と皮だけになっていく。

 それでも勝ちたくて、食事を抜き、水を我慢し、走った。

 体重計の数字に一喜一憂する日々。

だが、数字が軽くなるほど、心が重くなっていった。


 ――The Ultimate Fighter 準優勝。

 あの時は、また夢を見た。

 英語もろくに話せず、慣れない食事に苦しみながら、必死に勝ち上がった。

 決勝で負けたけど、僕は笑っていた。

 ここまでやったから契約できるはず――


 番組のスタッフからはたった一言だけ

 「今回は契約を見送らせていただきます。」

 それだけだった。



 ――そして連敗。

 いつの間にか、名前の前に「ベテラン」「ロートル」という言葉がつくようになった。

 解説者がそう言うたびに、胸が締めつけられた。

 だが、その呼び名を否定するほどの結果も出せなかった。

 時間は残酷だ。



---



 現実に戻る。

 相手の右ストレートが顎をかすめた。

 世界が一瞬、白く弾ける。

 足がもつれ、リングの端に押し込まれる。


 若いセコンドが叫ぶ声が聞こえる。


 「詰めろ!そこだ、打ち抜け!」


 その声に合わせて、相手の拳が次々と飛んでくる。

 視界が狭くなっていく。

 痛い。でも、負けるわけにはいかない。


 拳が頬をかすめるたびに、記憶が閃光のように蘇る。

 若い自分。

 勝ち続けていた頃の笑顔。

 試合後に抱き合った仲間たち。

 もう連絡も取らなくなったトレーナーの顔。


 僕はガードを上げ、ただ耐えた。

 顎を引いて、息を吐く。

 この呼吸、このリズム。

 身体がまだ、戦い方を覚えている。


 それでも、腕が重い。

 肩が動かない。

 打ち返そうとした瞬間、拳が遅れる。

 歳を取るというのは、こういうことだ。

 体よりも先に、時間が動いていく。


 マウントを取られ、パウンドが落ちてくる。

 顔の横をキャンバスが滑る。

 汗が目に入り、世界が滲む。

 観客のざわめきが遠く聞こえる。


 ――もう、やめてもいい。

 そんな声が、頭の奥で響いた。

 だけど、僕はまだ、立っている。

 殴られても、まだリングの上にいる。


 その瞬間――


 カーン!


 ラウンド終了のゴングが鳴った。

 金属の音が、天井に反射して広がる。

 まるで誰かが僕を救ってくれたような音だった。


 レフェリーが間に入り、相手が離れる。

 僕は、膝に手をついて息を整えた。

 汗がポタポタとマットに落ちる。

 肺が焼けるように痛い。

 でも、生きている。まだ戦っている。


 セコンドがタオルで顔を拭きながら言う。

 「まだいける。焦るな、次は組んで崩せ。」

 僕はうなずいた。

 口の中に血の味が広がる。

 でも、その味は、懐かしい。


 僕は小さく笑った。

 そうだ。

 まだ、いける。

 それが錯覚でも、幻でも、構わない。


 ライトが照らすリングの中央で、僕は拳を握った。

 昔のように、胸を張って。

 何も掴めなくても、何も残らなくても――


 僕は、まだ、リングの上にいる。


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