ビッグマウスの努力家③
大内祐介という名を耳にしてから、五島エリック麗矢の中には、微細だが確かなノイズが残り続けていた。ジムを出て夜風に当たりながらも、その感覚は消えない。40歳のロートル。奇跡の逆転勝利。侮蔑すべき対象のはずなのに、胸の奥に沈殿した何かが、静かに疼いていた。
――なぜ、気になる。
答えを探そうとした瞬間、彼の意識は不意に過去へと引き戻される。
---
高校三年の夏。インターハイ初戦。
五島エリック麗矢は、赤コーナーに立っていた。
会場は地方都市の古い体育館で、天井の高い空間に観客のざわめきが反響していた。全国高校ボクシング選手権六冠という肩書きは、すでに彼の背中に貼り付いていた。勝って当然。圧倒して当然。誰もがそう思っていたし、彼自身も疑っていなかった。
ゴングが鳴る。
相手は無名に近い選手で、派手さも迫力もない。ただ、動きが地味な分、無駄がなかった。
五島は慎重になりすぎていた。カウンターを狙い、距離を測り、完璧な一撃を待つ。だが、待つ時間が長すぎた。相手は小さなジャブを当て、当てては離れる。ダメージはない。だが、ポイントは確実に削られていく。
セコンドの声が聞こえる。
「手数! エリック、手数出せ!」
分かっている。分かっているのに、体が動かない。
負けるはずがない、という意識が、逆に彼の拳を鈍らせていた。
試合終了のゴング。
判定は、青コーナー。
一瞬、何が起きたのか理解できなかった。会場のざわめきが遠ざかり、視界が歪む。負けた? 自分が? 初戦で?
リングを降りた彼は、控室のモニターで次の試合を見た。
自分に勝った相手が、次戦で何もさせてもらえず、判定で惜敗する。圧倒され、翻弄され、最後は立っているだけだった。
――俺は、あいつ以下だったのか。
その事実が、拳で殴られるよりも強く、彼の心を打ち抜いた。
勝てた試合。
いや、勝たなければならなかった試合。
手数を出せなかった自分。
負ける未来を、どこかで恐れていた自分。
その日から、五島の中に小さな亀裂が生まれた。
---
さらに遡る。
中学時代。
五島エリック麗矢は、当時、野球部に所属していた。内野手。打撃よりも守備に定評があり、堅実な選手だと評価されていた。
県大会の予選。
終盤まで一点リード。あとアウト一つで勝利、という場面。
飛んできたのは、何でもないゴロだった。
いつも通りに捕って、いつも通りに投げれば終わる。
だが、その「いつも通り」が崩れた。
グラブの先に当たったボールは、不規則に跳ね、指先を弾く。ボールは転がり、ランナーが生還する。逆転。
ベンチの空気が凍りついた。
誰も何も言わない。ただ、視線だけが刺さる。
試合はそのまま終わった。
敗因は明確だった。
ロッカールームで、五島は一人、俯いていた。誰かが声をかけてくれることを、心のどこかで期待していた。だが、誰も来なかった。
それ以来、彼はチームメイトと距離を置くようになった。
時間が経ち、連絡先だけはスマートフォンに残っている。
夜、ふとした瞬間にLINEを開く。
未送信のメッセージ欄にカーソルが点滅する。
「……」
何を書けばいいのか分からない。
謝罪か。
言い訳か。
それとも、何事もなかったかのような一言か。
結局、彼は画面を閉じた。
胸に残ったしこりだけが、消えずにそこにあった。
---
現在。
五島エリック麗矢は、サンドバッグの前に立っていた。
過去の記憶が、音もなく背後に並ぶ。
高校三年の敗北。
中学時代の失策。
どちらも、共通している。
負けることへの恐怖。
失敗した自分と向き合えなかった弱さ。
彼は、それを直視しなかった。
代わりに選んだのは、努力だった。圧倒的な練習量。圧倒的な結果。
そして、自尊心という分厚い殻。
「俺は負けない」
何度も、何度も、そう言い聞かせてきた。
負けを恐れている自分を、認めないために。
拳がバッグに叩きつけられる。
鈍い音が、夜のジムに響く。
大内祐介の姿が、ふと脳裏をよぎる。
負け続け、年を重ね、それでもリングに立ち続けた男。
五島は顔を歪める。
シンパシーなど、認めたくない。
自分は違う。
違わなければならない。
だが、恐怖を隠すように振るう拳は、どこか必死だった。




