1995年4月20日 日本武道館
――VALE TUDO JAPAN OPEN 1995・中井祐樹 vs ジェラルド・ゴルドー戦
あの夜のことを、僕は今でも忘れない。
忘れられるわけがない。僕が「強さ」の意味を知った日だからだ。
1995年4月20日、VALE TUDO JAPAN OPEN 1995。
日本武道館の天井の高い構造が、歓声を吸い込んでは押し返す。まだ11歳の僕には、その音の渦すら恐ろしかった。父の隣で小さく身を縮めながら、ただ黙ってリングを見つめていた。
「……中井祐樹? 勝てるわけがない。相手はゴルドーだぞ」
後ろの席の男が、鼻で笑ったような声を漏らす。
ジェラルド・ゴルドー。
K-1、UFCを渡り歩いた、金網の荒鷲。体格は中井よりも二回りは大きく、手足も長い。格闘技経験者の父がぼそりと呟いた。
「──下手すりゃ、殺されるぞ」
僕は恐る恐るリングを見た。
青いコーナーに立つ中井は、176cm、70kg。体格では完全に劣る。だがその眼差しには、ひとつの揺らぎもなかった。ただ静かに、研ぎ澄まされた刀のように。
ゴングが鳴った。
ゴルドーが、前に出る。
リーチの差を活かし、伸びのあるジャブを打ち込む。ガードの上からでも衝撃が伝わるのがわかる。中井は無理に打ち合わず、距離を取りながら低く構えた。
瞬間、タックル。
中井が鋭く踏み込む。腰を落とし、低く、鋭く、まるで地を這うように。だがゴルドーはそれを読んでいた。ロープ際に詰められ、体を押し返す。膠着――だが、次の瞬間、異変が起きた。
ゴルドーの指が、中井の顔面に突き刺さった。
場内がざわめいた。
「今の……目潰しか?」
スローモーションのように、中井が目を押さえた。その右目から、涙ではない、血が滲んでいた。
レフェリーが間に入り、試合が一時中断される。だが ──中井は、首を振って立ち上がった。片目をつむり、構えを解かない。
「続行だ」
その言葉は、聞こえたわけではなかった。
でも、そう言ったに違いない。中井の立ち姿がそう語っていた。
ゴルドーは動揺していなかった。むしろ「潰した」とでも言わんばかりに余裕を見せていた。だが、中井は──怯まなかった。
そして再び組み合いに入る。
体格差。片目。痛み。それらをすべて抱えたまま、彼は食らいついた。
ゴルドーの足を取る。倒れない。今度は腰にしがみつく。打たれる。拳が、肘が、中井の顔面を打ち続ける。それでも離さない。肩に食らいつき、足をかけ、何度も何度もテイクダウンを狙う。
そして、ついに。
ゴルドーのバランスが崩れる。中井は体を回し、足を絡め取った。
そのまま足関節技──ヒールホールドへ。
観客席がどよめいた。
右足首を抱え、体をひねり、膝を破壊する方向へ関節を極める。技術と執念の結晶。ゴルドーの顔が歪む。手でマットを叩く──タップアウト。
勝った。
片目を潰されながら。
相手は規格外の打撃系ファイター。体重差は20kg以上。
それでも勝った。技術と心で。
リングに倒れ込んだ中井祐樹は、右目を閉じたまま、静かに天井を見上げていた。
彼のその姿を、僕は全身で焼きつけた。
──僕も、こんな風に強くなりたい。
本当に強いって、こういうことなんだ。
痛みを恐れず、ルールを守り、卑怯にも屈せず。
それでも勝利をもぎ取る者の姿が、
11歳の少年の心に、一生消えない火を灯した。
それが、僕の原点だった。




