続編2-4
長い長い時間だった、逸る気持ちのまま御者を急かしてみてもこれ以上馬の速度は上がらない。
膝の上で握った拳は痛みすら麻痺して白く変色していく。
早く、早く、早く、繰り返されるのはそればかり。
どうしてと頭の隅がそんな己を嘲笑するのがわかった、けれどそれについての答えなど持ち合わせてはいない。
そして浮かんで来るティアファナの悲しげな顔に胸の奥が痛む。
今にも消えそうな佇まいに手を伸ばして抱き締めたくなる。
そうしてしまえばよかった、いっそ何も恐れずにそうしてしまえば、せめて彼女は今この手の中にいただろうに。
ぐっと奥歯を噛み締め、体を揺さぶる振動に耐える。
そうしていなければまた無意味に御者に向かって怒鳴り散らしそうだった。
全く以前の彼女を憶えていないのに、どうしてかそのぬくもりが恋しいと思う。
触れられないのがこんなにも嫌だ、無くす事は考えたくもない。
だから、――早く。
「だ、旦那様っ!」
やがてどれくらいの時を経て、漸く止まった馬車が完全に停止し切る前にケニスは扉を蹴り開けて外へと飛び出した。
目にした屋敷の扉に向かって駆け出し勢いよく拳を叩き付ける。
返答がないのに苛立って、何度も拳を振り上げた。
「どちら様で――ケニス様!?」
「ティアファナを出せ」
扉を開けた使用人らしき男に詰め寄ると、たじたじとケニスの迫力に使用人が後退りする。
焦りに突き動かされるままケニスが屋敷の中に入ろうとしたその時、足音と共に顔を見せたのはケニスも知っている男だ。
ディーン=アドルフ=クリフォードはケニスと並んで社交界では有名人だ。
ただケニスとは違ってディーンは何度か結婚経験があり、そしていずれも子供を残さず離婚している。
手当たり次第に手を付けるような好色でもないだけに、むしろケニスより女性方には人気があった。
恐ろしく整ったその今は険しい顔を久しぶりに見たなと思い、ケニスははっとした。
そうだ、この男には確か掌中の珠とも噂されているほど大事にしている妹がいたはずだ。
まさかという思いにしかし否定は出来ず、ケニスは内心舌打ちした。
昔の記憶が確かなら、この男とケニスは全くそりが合わない。
性格的なものもさる事ながら、恐らくは根本的なところで似ているものが同属嫌悪を引き起こさせるのだろう。
全く不本意ではあるが。
きりりと自分を睨み付けた眼光に怯まずケニスも前に出る。
考えたくない事ではあるが、ティアファナがこの男の妹であるに間違いはないだろう。
ケニスでさえも一度ディーンの妹が如何に素晴らしいかという彼の「洗礼」を浴び辟易としたものだったというのに、どうして「自分」はそんな男の妹になど手を出したのか。
……否、その答えは自分がここにいる事で出ている。
例えばティアファナが誰のものであろうとも、自分にとってそんなものは関係がなかったに違いない。
「ケニス=バークレー……よくものこのことこの屋敷に顔を出せたものだな、恥を知れ」
「久しいな、ディーン=アドルフ殿」
「貴様に名を呼ばれるのは吐き気がする」
数々の女性をその視線だけで蕩かしたという彼は、その女性達が見たら真っ青になるであろう嫌悪の表情を浮かべ吐き捨てた。
「ティアファナはどこだ」
「ティアは貴様の家を自ら出て来たのだ、教えてやる道理はないな」
ふんと鼻で嘲笑うディーンにかっとケニスの頭に血が上りかけるが、ここにティアファナがいると確信した。
ディーンを押し退けて奥へ行こうとするも、体格的にも同じほどの男に阻まれては思うように行かない。
「ちょっとした行き違いだ。通して貰おうか」
「行き違いだと?どうせ貴様の浮気癖がまた出たんだろう。だから私は言ったんだ、貴様のような男にティアは相応しくない」
「いい加減妹を理想化するのは止めたらどうだ?お前は昔から何も変わっていないな」
「貴様にだけは言われたくない」
ぎりぎりと睨み合い、押しつ押されつの時間だけが過ぎる。
とうとう苛立ちに耐えられなくなったケニスが強引に押し退けようとするとディーンの拳が寸前で避けたケニスの頬を掠めた。
「何度言ったらわかる、ここは貴様のような男が来る所ではない、帰れ!」
「夫が妻を迎えに来て何が悪い。いいからそこをどいて貰おう」
睨み合ったまま、互いの手がそれぞれの胸倉に伸びようとした瞬間、悲鳴のような声に遮られた。
はっとその声の方へケニスが目を向けると、目が合ったと思った時にはティアファナが階段の上から駆け出すところだった。
「ティアファナ!」
縺れそうな足元に慌ててケニスが駆け寄り、最後の段を蹴ったティアファナを全身で抱き留める。
何故か途方もないほど世界を巡り歩いて、やっと辿り着いた場所のような気がした。
ぬくもりと柔らかさと香りと、そしてその存在をしっかりとこの手に確かめる。
「離れろ!」
鋭く上がったディーンの声にケニスは咄嗟にティアファナを抱き上げてディーンの手から遠ざけた。
視線を戻すと驚きに目を見開いたまま、困惑し切った「妻」がいた。
この人は自分の妻だとケニスは空いた自分の何かにすっぽり収まる如く、そう感じる。
髪も瞳も鼻も唇も、何もかもが愛しく愛らしい。
漸くこの手に触れられたと、ケニスは酷く安堵した。
「ケニス……?」
「いいドレスだね、よく似合っている。綺麗だ、ティアファナ」
頭のどこかでそんな場違いな台詞をと思うも、ケニスはそう思うより先に言っていた。
ただ本当によく似合っている、オレンジ色の花々はティアファナをより明るく見せた。
一瞬きょとんとケニスを見上げぱっと頬を染めて微笑んだティアファナは、しかしドレスの花も萎れてしまいそうなほどに美しい。
嘗て誰かにそう思った事があっただろうかとケニスは内心自嘲した。
ただ口にした事があるのは、自分がどう思ったかではなく、相手がどう思うかの言葉だけ。
その微笑みが向けられた事に嬉しくて心が震える。
「母様のドレスを仕立て直して頂いたんです」
「そうか……素敵だ」
「ありがとうございます……」
すぐ近くで見詰める瞳に、嘗ての自分も吸い込まれたのだろうとケニスは信じざるを得ない。
そうしているだけで、今も自分の全てが惹き付けられてしまっているのだから。
「騙されるんじゃないティアファナ!こいつがどうせ他の女に現を抜かしたのだろう」
すっかりディーンがいた事すら忘れていたケニスは、しかしティアファナを腕から離さずにディーンに向かってふんと鼻を鳴らした。
そしてティアファナに視線を戻し、伺いを立てるようにそっとティアファナの額に自分のそれを近付ける。
「ヴァレリーは従妹で、ただの仕事相手だよ。あれは結婚もして夫を尻に敷いている」
「嘘を言うな!」
「ディーン殿、少し黙ってて頂けないか」
「ケニス殿、久しいね」
苛々とディーンに向かって言ったケニスは聞き覚えのある声に顔を向け、そっとティアファナを下ろすと目の前の人物に頭を下げた。
「義父」としての彼に憶えはないが、しかし仕事相手としては何度か面識がある。
貴族でありながらその手腕はケニスの父も舌を巻くほどだ。
「ご無沙汰しております。突然の訪問になり申し訳ありません」
「いや構わないよ。丁度夕食だ、ケニス殿も一緒にどうかね?」
「父さん!」
「は、頂戴致します」
流石にティアファナとディーンの父親なだけあって、未だ隣を狙う妙齢の女性が後を耐えないという噂通りの笑顔をケニスにも惜しみなく与えたブレントにケニスも深く頭を下げた。
憤怒しているディーンに奪われる前にティアファナに向かって腕を差し出すと、恐る恐ると腕が取られる。
それに力が抜けそうなほど安堵を感じ、そして底から湧き上がるような熱いものを感じた。
ただ腕に触れられただけで、こんな気分を味わうとは思わなかった。
欲望以外に、優しい気持ちさえ感じる事が出来るなんて。
誰かに縛られる事を嫌悪してさえいた自分がどうだろう、小さな手に腕を繋がれている事が誇らしくて仕方がない。
なので、とりあえず斜め後ろから自分を突き殺そうという視線を送って来る義兄に見せ付けてみる。
突き殺そうから、刺し殺そうという視線に変わっただけだった。
食堂に通されティアファナの椅子を引くと戸惑ったような視線が見上げて来るのにケニスは微笑む。
そして自分もその隣に腰を下ろし、談笑を(主に義父と)しながら夕食を囲んだ。
しかしティアファナに説明する隙というものがない。
表面上穏やかにしているブレントは、言葉巧みにティアファナを今夜は絶対に引き止めておこうというのが見え見えだ。
だがそれに丁度いいと乗り、ケニスはティアファナの部屋に泊まる事を承諾された。
ディーンは怒り狂って怒鳴り散らしてはいたが。
少々場所が場所であるが、だがケニスに今ここがどこかを気にしている余裕はない。
幾らティアファナが自分を拒否しなかったと言って、悔しいがディーンの言う通り、ティアファナが自ら屋敷を出て行った事実は変えられてはいないのだから。
用意された寝巻きに着替える頃にはケニスの緊張もピークに達していた。
シャワーを浴びたというのに嫌な汗をかき始め、どうにも落ち着かない。
恐らく初めて通されるであろうティアファナの実家の部屋に一人待たされている所為もあるかもしれないが。
当人がすでに嫁いでいるというのにすっかり整えられている部屋を見て、若干複雑な思いに駆られるケニスだ。
笑顔で無言のプレッシャーをかけて来た義父は、仕事であった時よりも数段大きな存在に見えた。
どうやら夫を庇ってくれたらしい娘の言う事を信じていると言いながらも、恐ろしいほど目が笑っていなかった。
一体自分はあんな父親と兄相手にどうやって娘を嫁がせる事を了承させたのかと思う。
まああらゆる手段を用いたであろうとは察せられた、何せ「今」ですら衝動に突き動かされるままこうしてここにいるのだから。
控えめなノックと共にドアが開かれた瞬間、ぱちんとケニスの中の何かが弾ける。
ふわふわとした裾の寝巻きを纏ったティアファナのその頼りなげな姿は、あれこれ渦巻いていたケニスの思考を全て真っ白にさせた。
「ティアファナ……」
手を差し出すと、一瞬ケニスの表情を窺ってティアファナはそろりと細い指先を乗せて来る。
思わずその感触に震えそうになる自分の手をケニスは必死に堪えた。
ゆっくりと導いて中央に置かれていた椅子へとティアファナを座らせる。
そして彼女の手を取ったまま許しを請う在任の如くその前に跪いた。
そう、まさしくこれは懺悔だ。
「どうか……聞いて欲しい。俺の話を」
擦れた声で訴えると、小さくティアファナの頭が縦に振られる。
それに安堵し僅かに息を吐いて、そしてケニスは大きく吸い込んだ。
「俺は、君に関する記憶を無くした」
「え……」
「恐らくは数日前ちょっとした事故に遭って――」
「事故!?」
声を上げて立ち上がり掛けるティアファナを制して、宥めるようにその手を擦る。
「大丈夫、殆ど無傷だよ。しかし頭に衝撃を受けた所為か、どうも君に会う以前の記憶しか持っていないんだ」
さっと血の気を引かせたティアファナの手を強く握った。
想像もつかない、もし逆の立場だったらと思うと、今でさえケニスには耐えられそうもない。
愛しい人が自分の事だけを忘れてしまっただなどと。
「ケニス……」
「ティアファナ、どうか――」
「頭に衝撃を受けたなんて!後になって痛み出したらどうするおつもりですかっ。私だけではなく、お義母様もお義父様の事もお忘れになってしまったらどうするおつもりですか!」
はっと気付いた時には大きく見開かれたティアファナの目からははらはらと大粒の涙が零れ出る。
慌てて手を伸ばし頬のそれを拭うも、後から後から切りもなく流れて来る。
「もう一度お医者様に診て頂きに行きましょう。痛みがないのは今だけかもしれません、痣などはありますか?眩暈は?ちゃんと眠れていますか?」
泣きながら矢継ぎ早に言うティアファナにケニスが面食らってしまう。
そっと手を両頬に宛がうと、涙に濡れた瞳がケニスを切なげに見上げた。
「どうして俺の事なんかをそう心配する?幾ら記憶がないとはいっても、君を避け続けて逃げた事は事実だ」
するとティアファナは何度も首を振り、流れ続ける涙がぱたぱたと散る。
それが酷く悲しく思えるのに、ケニスは場違いに綺麗だとも感じた。
無意識にそっと近付いて唇で涙を受け止めれば、その温かさに信じられないほど自分の目頭も熱くなる。
「わたしっ言いました……わたしは、あなたの、つまだって、言いましたっ」
小さくしゃくり上げながら途切れ途切れにそう言ったティアファナの唇を衝動的に己のそれで塞ぐ。
ただ何も考えず心の赴くまま、深くこの甘やかな唇を味わおうと。
ケニスはティアファナに覆い被さるように上体を起こし、頤に指を掛け上を向かせるともっと深く唇を重ねる。
何度も角度を変え擦り合わせ啄ばみ、ただ唇で彼女のものを味わう。
いつしかお互いの唇がぼうっと熱を放つまで続けられた口付けを漸く止めると、ティアファナの開かれた唇から艶やかな吐息が零れてまたそれを奪いたくなる。
「ティアファナ……」
荒い呼吸を繰り返すティアファナを宥めるようにその頬を何度も優しく撫でる。
気付けば自分の呼吸も乱れていて、舌も使わない口付けでこれほど昂ぶった自分に少し信じられない思いを感じた。
そのまま抱き潰してしまわないかと、恐る恐る手を伸ばし細い体を抱き締める。
そっと背中に回された手に、泣きたくなった。
「君が愛しい。今、俺はそう思う」
「……私の事、憶えてはいないのに……?」
「ああ。そう、きっと、俺はまた君に恋をして、愛したんだ」
不思議だった、あれだけ怯えていたものがすっかり自分の中からは消え失せてしまっている事に。
「嬉しいです」
「君を憶えていなくとも?」
ティアファナはゆっくりと、だがしっかりと頷く。
「だって、私も貴方を愛しているから」
年相応のそんな言葉に更に強くティアファナを抱き締める。
この存在を失わずにすんでよかったと心底思った。
だがその思考にはっとケニスは顔を上げる。
「別れるなんて言わないだろう?記憶が戻るかどうかはわからないが、俺は君を失いたくない。もう一度、始めから俺とやり直してくれないか」
両肩を掴んで言ったケニスにティアファナは大きな目を瞬かせた。
「わ、別れるなんてそんな……」
「別れようと思ってここに帰って来たんじゃないのか?」
するとふるふるとティアファナが慌てて首を振る。
今度はケニスが目を瞬かせた。
「私はっ……ただ、私がいるとケニスが休めないようだったので、それで」
つまりケニスの体を案じるが故に家を出て来たと。
ただ逃げ回っていただけの自分に、あんな辛い顔をして、そんな決断をさせてしまった。
ケニスは再び目の前に跪き、ティアファナの両手を取る。
「ティアファナ、もう一度……いや何度でも俺は誓う。夫として、君を愛する男として、君を幸せにする。以前のようには出来ないかもしれない、それでも今の俺の精一杯で」
「――はい……はいっ」
再び涙を溢れさせたティアファナを抱き締めて、幾度もその頬に口付けを落した。
以前の自分も、きっと同じようにするしかなかったのではないかと、心のどこかでは思いながら。
「よかった、……君に愛想を尽かされたのかと思った」
「そんな事ないですっ。わ、私こそ、私がいつまでも子供だから、ケニスが呆れてしまったのかと」
「君がまだ十代だって聞いて驚いたくらいだよ。ああ、容姿の事ではなくね。あんまりしっかりしているものだから、益々俺は自分の不甲斐なさを思い知った」
少し首を傾けたティアファナは小さく笑ってケニスの首に腕を巻き付けて来る。
そんないっそ子供っぽい仕草にこれ以上なくケニスの鼓動が高鳴った。
「ティア……そう呼んでも?」
「勿論です」
笑顔で頷いたティアファナに胸が温かくなるのを感じながら、ケニスはティアファナを抱き上げようとその体に腕を回す。
ティアファナがそれに気付いて彼女自身も立ち上がりかけた瞬間だった。
ドレスの裾を自分で踏んでしまったらしい傾いた彼女の体を支えようとケニスが更に腕を伸ばす。
そして床に落ちる前にその体を腕に抱き止めた事でほっと息を吐き出した。
だがそれも束の間の事。
ケニスはティアファナの悲痛な叫び声にただ眉を寄せる。
上から見下ろす泣きそうな彼女の顔に、自分の心も泣きたくなったのを感じながら。