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続編2-2

 どうにもこれではいけないと、ケニスは昼食もそこそこに溜息を禁じ得なかった。


事実も、「妻」の事も、理屈は理解出来ているのにも関わらずだ。


自分はこんな人間だっただろうかと、何度も自身に対して投げかけた疑問を再び投げる事になる。 


 自分の中の事実や世界と目の前に広がるそれが合致しなかった事など、未だ嘗てあっただろうか。


この数日嫌になるほど反芻して、ケニスはただ戸惑うより他なかった。


こんな事は初めてで、全く解決の糸口が見付からない。


そうした自分自身にも戸惑うのだから、困惑は更に深くなるばかりだ。


 努めて冷静にこの事態を分析してみるものの、物事を順序立てて整理する事は出来るが、やはりその先の決定的な打開策は出て来ない。


恐らくきっかけは数日前の「あの日」の「あの出来事」だった、それはわかる。


だがそれから思ってもみない事態に直面し続け、自分が出来た事といえば逃げ出す事だけだったとケニスはすっかり自分に失望した。


「どうした、新婚サン。悩ましい溜息なんかつきやがってまた奥さんの事でも考えてたのか」


 からかう同僚の声にも反論する余裕さえない。


全く以ってこんな言葉を掛けられるという事もケニスを混乱の極地に追いやるのだ。


少なくとも以前はこんな風に冷やかされる事など皆無だった。


「俺は日頃、そんなに妻の事ばかり話していたか?」


 恐る恐ると聞いた言葉に同僚は食べていた昼食をもぐもぐとやってから大いに頷く。


「そりゃあもう。何かというと奥さん奥さん。あんまりにもお前が酷いから、今じゃお前に粉を掛けるような女性もいなくなったのがいい証拠じゃないか」


 呆れたように投げられた同僚の視線を追うと、どことなく冷めたような女性の視線に気付き、だがそれもすぐ逸らされてしまう。


ケニスは両手にじっとりと嫌な感じの汗をかく。


女性から温度のないものどころか、視線を逸らされる事など一度としてなかったというのに。


妙な焦燥感と孤独感を覚え、またしてもそんな自分に当惑してしまう。


出口のない迷路に放り出された鼠はこんな気分かとケニスは眉を寄せた。


 そんなケニスに同僚はふんと鼻を鳴らしティーカップを呷るように口にする。


同僚の行動にケニスの方も片眉を上げて見た。


自分が知る限り、目の前のこの男はそんな自棄にも似た行動は自ら控えていたはずだ。


ケニスの心情を察したのか、同僚は片目を眇めてみせる。


「お前のお蔭で目が覚めた女性が多いのさ。夢から覚めて現実の男と向き合う、ではそのお相手にはどういった男がよろしいでしょうか?」


「……ガイラーか」


「ご名答。全く、ある意味お前のお零れを与っていた連中にはなんとも確かに夢の終わりだよ」


 自分の所為ではないだろうと溜息をついて見せながら、ケニスは話題の人を思い出す。


ロビン=ワット=ガイラーは両親共名門の家柄で今社交界の若き花形だ、ケニスから多少色気を除き誠実さを加えるとああなるとは他の同僚曰く。


如何にも好青年といった美貌に反さず、先日一言二言交わしたケニスも彼を誠実な人間と受け取った。


確かに女性から見ればこれ以上ない物件だろう、遊びとしては一流の相手であったケニスが「使い物」にならないとわかれば、今度は堅実さを求めてしまうのもわからなくはない。


 そうだとしても難易度はガイラーとて相当に高いだろうとケニスは他人事のまま思う。


ケニスとは違い生粋の貴族である彼はだからといって、最早低俗とも呼べるような貴族の遊びには興じないと有名だ。


むしろ今時どうかと言えなくもない高潔さすら持っている。


そんな人間の眼鏡にケニスから目移りしたような女性が果たして移るだろうか。


 そう例えば、彼のような実直な人間に相応しい女性は、若く美しく彼と同じ高潔で実直な――……。


「どうしたんだ、今度は顰めっ面して。頭痛か?」


「ある意味、な」


 またつきそうになった溜息をケニスは意図して噛み殺す。


 全く自分自身のあちこちが分離しているようで敵わない、ふと無意識になったとたんに理解の及ばない感情らしき感覚が湧き上がって来るのだ。


もどかしい事この上ない、それなりの人生経験もあるいい年の男が疼きを持て余してどうにも出来ないなどと。


自分の事ながら嘲笑ってやりたい気分だった。


 汗ばんだ手でぐしゃりと思考を潰すように髪を掻き回そうとしたその時、ほっそりとした手が横から伸び二人が挟んでいた丸いテーブルに置かれた。


「ヴァレリー」


「ええ、ケニス。お久しぶり。アンディも」


「やあヴァレリー。一緒にどうだい?」


「お邪魔しますわね。この機を逃したらいつになるかちっともわからないんですもの」


 ヴァレリー=ディーリアスはつんとケニスに向かって顎を逸らして見せそう言った。


アンディが引いた椅子に腰を下ろすヴァレリーから上着を受け取ってウェイターに手渡す。


艶やかな髪を揺らしていつもながら優雅な仕草で注文を済ませたヴァレリーにケニスは内心苦笑した。


 ヴァレリーはケニスの叔父の前妻との子で従妹だ、年が近い事から二人は幼い頃よく一緒に遊んだものだった。


しかしぱっと派手な外見の印象通り、やる事なす事大胆なヴァレリーにはケニスも散々手を焼かされた。


おまけに一方的にケニスをライバル視して来るのだから、年頃以降は取り付く島もない。


ケニスに遅れを取ったと再三周囲がもっと慎重になれと言い聞かせたにも関わらず、散々今までごねて逃げ回っていた結婚までしてしまった。


相手はガイラーとはまた違った意味での「お坊ちゃん」で、ケニスにはこの「アマゾネス」の尻に幾ら敷かれようとも不平を言うタイプに見えなかったが。


「今日こそきっちり話を進めさせて貰いますからね。貴方と来たらこの数ヶ月というもの何か言う前にさっさとご帰宅なんですもの。ええ、お逃げにならないように今日こそは招待して頂くわ。結婚式にも出れなかったのですものね、当然ですわ」


「それってケニスの結婚式の時君が熱を出して寝込んでいたからで、それに君は最近まで旅行を……ああいや何でもないとも」


 黒い目に射抜かれて口を噤んだアンディにケニスは同情の視線を流す。


ケニスの記憶にもある叔母にそっくりなヴァレリーには大抵誰も勝てない、母の血統の女性達は全く誰も彼も口が達者だと肩を落とした。


「結婚して女遊びを漸く止めたかと思ったら仕事仕事、それが終わったかと思ったら今度は奥様奥様って、全く貴方はちっとも変わっていないわね、ケニー坊や」


「そういう君も全く代わり映えがないな、黒薔薇のお嬢さん」


 一瞬かち合った二人の間でバチリと鳴った火花にアンディだけが背を反らす。


 だがケニスは昔馴染みに変わっていないと言われた事に内心苦笑する。


顧みてみれば思い当たらないでもない、ケニスは元々一つの事に凝る性質だ。


大体の事はそこそこの興味しか持たずとも器用にこなしてしまう分、どうも手を掛けるとなると行き過ぎて壊してしまった物も多々ある。


もっと若い頃は仕事に夢中になり過ぎて倒れた事すら覚えていなかった事もあった。


 だから理屈としてはわかる、「もし」そうであったのなら何も可笑しな事ではないとわかるのだ。


しかしそうは言っても理屈と感情は別物でなかなか合致しない。


 ただ目の前の瞳を爛々と輝かせた彼女を煙に巻くのは無理だろうと早々に悟った。















 とてもじゃないが目を合わせる事など出来ない、ヴァレリーを連れ家に帰ってケニスは何度目かそう思う。


きりきりと胸を締め付けるのは罪悪感と、そして――。


じっと自分に注がれる視線を何とか意識の外に追いやろうとして無駄に終わり、仕方なくヴァレリーを連れて物理的に逃げる。


 逃げる――このケニス=バークレーが女性から逃げる!


まるで酷い喜劇でも自ら演じているようで、道化に成り下がった気分だった。


しかし皮膚の下から今にも突き破って出て来そうな何かを抑えるのに精一杯で、どこにも自分が知る「ケニス」は見当たらない。


ヴァレリーとの仕事の話に集中し、ティアファナが作ったという食事も味わう間もなく舌に乗せたとたんに飲み込む。


例えば賛辞の一つでもしようものなら、自分が何を言ってしまうのかわからなかった。


 糸で操られた道化師を演じた苦痛とも呼べる時間は恐ろしく長く、そして自身の中の「何か」との孤独な戦いであった。


興味を隠そうともせず「妻」に視線を注ぎ話題を振るヴァレリーにいっそ怒鳴りたい気分だったが、しかしその衝動も隣にいる存在自身によって凍結させられる。


 ティアファナが傷付いているのはわかっている、そしてそれに対し理不尽にも痛む自分の心も。


だがすっかり言葉を失い、ケニスはティアファナを前にするとどうしても舌がもつれてしまうのを自覚した。


何を言っていいか、どう説明したものか、そんな考えだけが頭を空回りし言葉となって出ては来ない。


こんな状態のまま何かを言えば言うほどティアファナを傷付けてしまうような気がして、そしてそんな自分が酷く嫌に感じた。


堂々巡りをここ数日喚き出したくなるほど繰り返している。


 そんなケニスを知ってか知らずか、首尾よく仕事の話を推し進めたヴァレリーだけは満足げだ。


内心忌々しい思いでヴァレリーを連れ出し、ケニスの頭には一刻も早くティアファナから離れる事しか頭にはなかった。


自分がそうさせていながら、これ以上ティアファナの落ち込んだ気配を感じていたくない。


 文字通りまたしても逃げ出したケニスにヴァレリーが階段を下り切った所で綺麗に整えられた片眉を上げてみせる。


これはすっかりケニスの母にそっくりでケニスは最早辟易とした。


母に多少なり似ていると自覚があるケニスなだけに、鏡を見ているようでうんざりとする部分がある。


昔馴染みは察しがいい分、こんな時には非常に厄介だった。


「言い分は聞かせて頂きましょうか?」


「……話せる範囲にはない」


 盛大に溜息をついたケニスにヴァレリーが眉根を寄せる。


「なによ、溜息なんかついて。今更奥様に恋煩い?本当に貴方って昔からそうよね」


 気安くなって来るとすぐに口調が砕けるそっちもそっちだとケニスは内心ごちる。


違うと首を振って見せても、ケニスはその真の意味が自分でもわからなかった。


そうだ、全く何もかもがわからない、と途方に暮れてしまう。


「きちんと話し合いなさいな、まだ若いお嬢さんにあの態度はないわ。夫の機微を何でも察しろというのは酷よ。それに比べて私の夫は――」


「わかったわかった、君の下で潰れた可哀想なバート」


「まあ、この甲斐性なし!」


 威嚇した猫のような声を上げたヴァレリーを馬車に追いやって、ケニスは苦々しい思いを抱いたまま大股で書斎へ行く。


ぐしゃぐしゃと思う様掻き回した髪を適当に撫で付け、気を紛らわせようと一冊の本を手に取った。


頭に入っては来ない文字を目だけで追い掛け、少し取り戻したかと思われた平穏はしかしすぐさまドアを叩く音と切迫した声によって再び乱される。


 飛び込んで来たティアファナの姿にケニスは力任せに首を捻って顔ごと視線を逸らし距離を取った。


しかし全身全霊が勝手にティアファナに集中してしまう。


彼女の白い肌が青褪め、そのまま透けて消えてしまうのではという馬鹿馬鹿しい危惧を抱く。


 その姿にまた噴き出しそうな何かを己に感じ、ケニスはぐっと堪えて奥歯を噛む。


一瞬でも冷静にさえなれたのなら、こんな事をせずには済んだ。


自分自身への苛立ちのまま、今にも崩れ落ちてしまいそうな彼女に向かって怒鳴る事などはなかったはずだ。


ティアファナを傷付けたい訳じゃない――そう言い訳して言い繕ってみても、付け足しのような言葉はただ虚しいだけ。


 出て行く間際の涙も忘れたような衝撃を受けた彼女の顔が忘れられず、ケニスは体中の空気がなくなるほどの溜息を吐き出し続け一睡もしないまま夜を明かした。


予め言い渡しておいたセバスチャンも出て来ない中、たった一人支度を済ませ窓の外の白んだ空を見上げてから部屋を出る。


嫌に響く足音でティアファナの眠りを妨げないかどうかが気になった。


恐らくそんな資格を今の自分は持っていないにも関わらず。


寝ても覚めても、確かにケニスは「妻」の事だけを考えていた。


 しかしどう接していいかわからない以上、闇雲にティアファナを傷付けたくなければ顔を合わせないより他に行動が取れない。


そう言い訳しているのかどうかとケニスが自嘲し、屋敷の中央階段の手摺に手を掛けたところで足が止まった。


階段の下で蹲るようにして膝を抱えていたティアファナに胸が斬り付けられる痛みを覚える。


「いつまでそうしているおつもりですか?」


 ティアファナが振り向き立ち上がってそう言った声は、ケニスの思い違いでもなく何かに追い立てられているようだった。


いつまでも逃げ回ってはいられない、彼女は自分の「妻」なのだから。


幼いけれどもしっかりと根を生やし真っ直ぐに伸びる若木のようなその心に目を奪われてしまう。


「最初」に見た時ともまた違う美しさだった。


「私、……私は、貴方の妻です」


「……ああ、わかっている」


 絞り出したその声にケニスも全身が引き絞られる思いで告げた。


わかっている、頭でも理屈でもわかってはいるのだ。


しかし赤子のように闇雲に手を伸ばす事も叫び喚く事も出来ずただその場に佇む。


 どうしたらいい、どう言えばいい、そもそも自分でわからない事を説明など出来ない。


「どうかちゃんとお休みになって下さい。貴方に憂いがないよう、私は精一杯努めますから」


「いや……君は何もしなくていいんだ、そのままでいい。ちゃんと休む、約束するよ」


 ティアファナは悪くはないのだ、確かにそのままで素晴らしい人だとケニスでさえも思う。


顔を合わせる事がすっかりなくなったとしても、ケニスは彼女に対しての印象を違わないだろう。


朗らかで細やかで、そしてその全てが自分に対する愛情故だと妙な自信さえも湧いてしまうほどだ。


だからこそその光に晒された自分の後ろ暗さが際立ってしまう。


 ――きちんと考えなければいけない。


ケニスはじっと自分の背を見送るティアファナの視線を感じながら馬車に乗り込み、組んだ両手を強く額に押し付ける。


 悪戯に引き伸ばす事はティアファナを無駄に傷付け続けるだけだ。


深い傷を恐れて浅い傷を見逃し続ければ、やがて致命傷になった事もわからずにいる。


あれだけ愛情豊かな彼女を無視し続けている事も限界に近くなって来た。


 一つずつ説明しなければと、ケニスは何度も逃げ出そうとする自身の心に言い聞かせる。


例えばティアファナが泣く羽目になったとしてもだ、理由もわからず夫に避けられ続けていい気分のする妻など……少なくとも彼女はそうではない。


胸が痛かった。


あんな顔をさせた事、当たり前であろう言葉を言わせた事、そしてそれでも自分を気に掛けてくれる心が。


 ティアファナを信じるのだ、そして彼女が愛してくれた自分を。


ケニスは顔を上げぐっと拳を握り締める。


拙い言葉だろうと、自分自身でさえ嘲笑いたくなる気分であろうと、きっと彼女なら理解しようと努力してくれるだろう。


そして自分も向かい合う努力をしなくてはならない。


他でもない自分自身の事であり、そしてこれは現実だ。


 意を決し、ケニスは一度思考をクリアにしようと仕事に集中し切り、帰りの馬車に乗り込みながら頭に浮かんだ言葉を一つずつ整理し始める。


自分に起こった事と、そしてそれに伴う感情。


反芻すると如何に自分のそうした点がヴァレリーの言う通り変わっていないのかがわかる。


 恐らく本能に近い思いで彼女を大切にしているのだと悟った。


漸く、認める事が出来た。


だからこそ戸惑ったのだ、幼い日の自分をよく自覚しているからこそ。


 彼女は物ではない、まして自分を慈しみ愛してくれる人だ。


上手くやれないまま振り回し、壊してしまう事が怖かった。


彼女なしでは呼吸すらままならないと体が先に理解していた事に自嘲する。


訳のわからない高ぶった感情のまま言葉を吐きその肌に触れ、そしてどうしてしまうかなどよくわかっていたから。


彼女が怯えて逃げ出す前にこちらから卑怯にも逃げ出した。


「手痛い言葉だったな」


 ヴァレリーの捨て台詞を思い出しケニスは苦笑する。


 慎重に説明すればいい、ゆっくりでもいいからもう何も隠さずに。


自分の恐れも怯えも何もかもを彼女にわかって貰えるまで、何度でも。


 ケニスは無意識に緊張していた体から力を抜き息を吐いて凭れる。


全く不甲斐ないと言うより他はなかった、避けて通れなかった事にしてももう少しどうにか出来なかったものかと愚かにも自分を恨みたくなる。


 ――仕事を終え三日ぶりに家に帰るという日、ちょっとした事故に遭った。


馬車を停めてどこかへ買い物をしに行こうとしていた途中、まさに立て付けをしている最中の店の看板がケニスの上に降って来たのだ。


そして大した怪我もなかった代わりに、恐らくはここ数年の記憶を無くした――もっと正確に言うならティアファナに関する事は全て。


 記憶を無くした事もわからなかった始末で、自ら馬車で病院に行ったりその事を仕事場に報告しに行ったりして漸く周囲の反応である程度の状況と自分が結婚した事を知ったのだ。


大事にはするまいと冗談でも言われた気分でその場は流し、家に帰って出迎えた「妻」を見たとたん冗談では済まなくなった。


見るからに自分より随分と年若いであろう彼女に数々の浮名を流したケニスが全く気の利いた言葉を発せなかったのがそもそもの始まりだったのかもしれない。


 女性を見て言葉に詰まり足が動かなくなるなどという体験をしたケニスは、その訳のわからない自身の感情と行動にすっかり戸惑ったという次第だ。


「打ち所が悪かったか」


 すっかり異常なしと診断した医者など当てにならないと自分を棚に上げ酷く信頼を下げたものだ。


常に新しい事が舞い込んで来る仕事や社交界事情などはどうにかなっても、「妻」を迎えていた自分の「家庭」は全く儘ならない。


記憶が抜けている事を打ち明け医者の首でも絞めておくべきだったと何度後悔した事か。


 それもこれも今まで例外もなかった「自分」の人生を過信していたからだろう。


その場限りの恋を楽しみ、根無し草のようにあちこちを自由に飛び回るそんな人生を疑いもしていなかった。


一人の女性を愛するのもさる事ながら、ああも一途に愛される事も考えた事はない。


 受け入れてしまえばぞっとする。


自分が逃げ回っている間に愛想を尽かされてしまったら、恐らく自分は取り返しもつかないものを自ら逃がしてしまう事になるのだ。


今この気持ちが愛と呼べるものなのかはわからない、しかしこれに名前を付けるべきは彼女のような気がした。


 最初に出迎えてくれて以来見た事のなかったティアファナの笑顔が見たいとケニスは思う。


全く憶えのない自分を夫と受け入れられなくとも、また新しく始めて貰えるよう何でもしたいと気持ちが急いた。


欲望を抑える事など何だというのだとケニスは鼻を鳴らす。


今までのようにただ相手の立場と出方を見て解放すべきものではない、彼女の心を思いやれば自ずと最善の行動出来るはずだ。


この数日、そうしてティアファナが支えてくれようとしたように。


確かに少し前までの「自分」はやってのけていたのだから。


 ケニスは何度も途中土産物を手にしたくなったが、一刻も早く屋敷に辿り着く事を優先した。


馬車が止まるのと同時に自ら飛び出す勢いで屋敷のドアを使用人よりも早く開け放つ。


だが待ち構えていたセバスチャンの顔色と言葉によって、ケニスの全ては遮られた。


「大変です、旦那様。奥様が屋敷をお出になられたまま未だお戻りになってはおらず――」


 ざっと体中から血の気が引く嫌な音がケニスには聞こえた。


「侍女によりますとお荷物が幾つかなくなっているそうで、馬車の行方を捜させましたが途中お降りになってからは行方が」


「っ実家だ!ティアファナの実家に馬車をっ!」


「はい!」


 ドッドッと痛いほどケニスの胸が脈打ち、視界に映る屋敷に彼女の存在がない事が想像以上にケニスを打ちのめす。


だがすぐにケニスは自分を奮い立たせた。


 例え遅くとも構わない、逃げられようとも何度でも追い掛ける。


彼女を愛した記憶があってもなくとも、これは多分二度目の――。


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