続編2-1
ティアファナがそれに気付いたのは、ケニスが仕事から三日ぶりに帰って来たすぐの事だった。
体調でも悪いのかと尋ねても違うと首を振られる、疲れたのかと尋ねても同じ事だ。
しかし彼は何かを思案するようにやがて頷いて、一人にしてくれと書斎に篭ってしまった。
――それがすでに五日も前の事だ。
執事も困り果てたように首を傾げているばかりで、一向にケニスが元に戻る気配はない。
今朝も早くから仕事に出たケニスを見送って、ティアファナはふと心配げにしていた瞳をふらりと泳がせた。
本当に「元」に戻ってしまったのではないか――そんな思いが現実のようにティアファナを襲い、寒気を感じてぎゅっと己の身を抱き締める。
そう、ティアファナと想いを通じさせる前の「元」に。
思い当たる節はこの五日間で幾らでもあった、まずこの数ヶ月すでに当たり前のようになった抱擁も口付けもない。
それどころか寝室を共にすらしていないのだ。
まるであの頃の、ティアファナを突き放し避けて回っていたケニスのようだった。
「奥様、大奥様にご相談なされては……」
戸口で後ろからした声にはっと振り返り、ティアファナはセバスチャンに向かって緩く首を振る。
義母に心配は掛けられない、先日も義父との旅行先から待ち切れないとばかりの贈り物を送ってくれたのだ。
もしケニスの様子を尋ねでもしたら旅行を中断し飛んで帰って来るに違いない。
折角義母が久しぶりに夫との旅行を楽しんでいる中だ、邪魔したくはない。
言い知れない不安を抱きながら、努めてセバスチャンに笑顔を見せ「きっとお仕事がお忙しいのよ」と言うに留まる。
まだ言い募りそうなセバスチャンにお茶を頼むとティアファナは逃げるようにして自室へと戻った。
窓辺の椅子に腰掛けながら、どうした事だろうと自分に問い掛ける。
義母の事では疑いも掛けないというのに夫を信じられないなんて……。
そう思ってみてもティアファナの胸はそれこそ信じられないほどにキリキリと痛んだ。
少し前まではこれが当たり前の状態だったというのに、あの頃耐えられた事がすでに五日で耐えられなくなっている。
しかし知ってしまった今はもう無理だった。
口付けられる事も、囁かれる事も、触れられる事も覚えた今となっては、それなしにどうして生きて行っていいのか途方に暮れてしまう。
ティアファナはセバスチャン自ら持って来てくれたお茶を一口飲み、このところ反芻したものを整理しようと深呼吸を繰り返した。
今は仕事が忙しいだけだ、きっと疲れているのだ――。
繰り返しそう言い聞かせるが、視線も合わせてくれない夫の姿が脳裏にこびり付いて離れない。
知らずはらはらと涙を零していたティアファナは俯いていた顔を上げ、ぐっと拳を握り唇を薄く噛む。
泣いてばかりいてもどうしようもない、妻としてきちんと夫を支えなければ。
ティアファナは立ち上がって頷くと、厨房へと向かって歩き出した。
使用人達が何事かと驚く中、にっこり笑って言う。
「旦那様に精の付く物を作って差し上げたいの」
「奥様、それならば私達が」
それに首を振ってティアファナはさっさと支度を始めてしまう。
思いが通じてからこうして何度もティアファナの手料理をケニスに振る舞った。
とても美味しいと喜んでくれたケニスの笑顔を思い出しながら慌てている使用人達を尻目に食材を切り出す。
中でも特にケニスが気に入ってくれたポットパイだ。
スープと生地を作っておけば、ケニスが帰って来た時すぐに焼くだけにしておける。
あれから家には帰って来ているものの、やはり以前のように夜が遅い。
ただシャワーを使ったような香りがしない事がティアファナをある意味ほっとさせた。
女性と会っている訳ではない……なのに、どうして。
まるで蜘蛛の巣でも張ったようにもやもやとした思考を振り切るべく頭を振って、ティアファナは暫く無心でスープ作りに勤しんだ。
もっと細かく切った方がいいだろうか、疲れている人には味付けが濃い方がいいだろうか、――必死に何かを頭に詰め込んで忍び寄る不安から目を背ける。
やがてそれでも時間がまだあると、今度はデザートを作り始め、それを繰り返して結果五品もの食事を殆ど一人で作り上げてしまった。
いい加減に食事をしてくれと頭を下げられ、ティアファナは渋々いつの間にか暗くなった窓の外を見ながら食堂に行き、結局自分が作った食事を口に運ぼうとした。
その時外から馬車の音が零れ、椅子を倒す勢いで立ち上がったティアファナは玄関へと駆け出す。
いつもよりずっと早い帰宅に心も足取りも弾むのが押さえ切れなかった。
だが中央のフロアに出たところでティアファナは階段の下を見下ろしピタリと足を止める。
細かに震え出した足が折れそうになって、無意識に手摺を掴んだ。
細く長く息を吐き出し、階段を一段一段ゆっくりと降りて行く。
それに気付いた二人が顔を向けて来た。
「少々仕事の事で話しがあってね、彼女は……」
「奥様ですね、初めてお目にかかりますわ。私、ヴァレリー=ディーリアスと申します。ケニスにはいつもお世話になっておりますわ」
ケニスの言葉を遮り、これ以上はないと思うばかりの豊満で完璧なスタイルに妖艶な微笑みを向ける女性。
思わずそれに見入り、ティアファナは慌てて挨拶を返す。
ちらりと見上げた先の夫は妻の視線を避け、やって来たセバスチャンに上着を手渡した。
食事の用意の有無を尋ねると、ケニスはヴァレリーを優雅にエスコートして階段を上って行く。
ティアファナを置き去りにしたまま。
呆然とただそれを見上げた。
以前であっても家に女性を連れ帰って来た事など一度もないケニスだ。
ひたひたと背中から迫る何かから逃げて、ティアファナは壁と手摺伝いに二人の後を追う。
すでに食堂で席に着いていた二人は向かい合わせに座っていて、ティアファナはケニスの隣にそっと腰を下ろし、自分が作った食事が二人に運ばれて来るのを見守った。
食事を途中にしていた所為で退席も叶わず、ティアファナはただじっと二人が自分にはわからない話を進めて行くのを耳に流すだけとなる。
このところ自分とは目も合わせもしないケニスはヴァレリーに向かって微笑みかけ、彼女もそれに応えてあの悩ましげでさえある笑みを返す。
「奥様、本当に美味しいお食事ですわ。これをお作りになったなんて信じられない。素晴らしい奥様を持ってケニスは幸せ者ね?」
ふと話しの折りにヴァレリーがそう言うが、ケニスはただ曖昧に微笑むだけで何も答えはしなかった。
ケニスは何も言わなかった、ただそれだけの事なのにティアファナの微々たる食欲は一気に消え去る。
ティアファナは出来る限りのお礼を言い食事を再開した、しかし夫の為にと作った温かい食事はまるで砂か氷の塊のようにさえ感じられた。
徐々に指先が冷たくなり、感覚がなくなっていく手で必死にナイフとフォークを握り塊を飲み込む。
そっとヴァレリーを見詰めると、長い睫毛に縁取られた大きな黒い瞳は一心にケニスに注がれているようだった。
思いが通じてから最初に出た夜会の事をふと思い出す。
あの時はケニスに向けられる目がどこか誇らしくも感じたものだ。
それもこれもケニスが自分の隣にいて、確かにティアファナを愛し見守ってくれたからなのだと悟る。
これまではわからなかったのだ、実際夫婦になってからというもの、ケニスの隣に他の女性が並ぶのを目にした事はなかったのだから。
これが真の嫉妬というものかとティアファナは体の中にずっしりとした重い塊を感じた。
今すぐにでもケニスに抱き付き、どういう事なのかを問い詰めたくなる、その目を……その微笑みを強引に自分に向けさせてしまいたくなる。
隣で交わされる楽しげな会話とは裏腹にティアファナは冷たい海に沈んで行くような時間を味わった。
やがて食事を終えたヴァレリーが礼を言って立ち上がると、やはりケニスもまた当然のようにそれをエスコートして漸くティアファナを振り返る。
「下まで彼女を送って来るから、君はもう休んでいなさい」
それだけを告げ、あっさりケニスはティアファナに背を向けた。
それを見送り使用人達が皿を下げて行く中にも関わらず、ティアファナはとうとうテーブルに顔を伏せぐっと眉根を寄せる。
どうしたらいいのかわからなかった。
こんな気持ちは初めての事でどう扱っていいか困惑し、自分自身を持て余すしかないのだ。
ただケニスは本当に仕事の話をしていただけで、不貞を働いた訳でもないのに自分の負の感情のまま詰る事は出来ない。
そもそもティアファナはそんな事が出来なかった。
これだけ愛する夫にどうしてそんな事が出来ようか。
むしろ例えばそうしてしまって呆れられ嫌悪される事の方が怖い。
どれだけ冷たくされようとも、縋り付きたいほどの愛はまだ確かにあるというのに。
幸福に浸された後、手を離される事に怯えてあの頃のように盲目にも振る舞えない。
自分はこうではなかったはずなのに、一体どうなってしまったのだろうとどこかティアファナは他人事のようにも感じる。
溜息を噛み殺し、心配そうに自分を見る使用人達にも下がるように言いつけ、そっと食堂を出て再び階段の上へと来た。
下を見下ろせばすでに部屋へ戻ったのか二人の姿はそこにない。
一瞬ぞっとしたものを覚え、ティアファナは無意識にケニスの書斎へと駆け出す。
「ケニス!」
ノックもそこそこにドアを開けた先で驚いたように目を見開くケニスの姿に堪らずほっと息を吐く。
――消えてしまったのかと思った。
「どうしたんだ?」
「あの……今晩も寝室ではお休みにならないのですか?」
ケニスはティアファナに一瞬何か口を開きかけ、しかし開いていた本の上に目を落としまたしても視線を逸らす。
それを追って歩み寄ると、僅かに距離さえとってケニスはティアファナから身を引いた。
鎖で引かれたようにティアファナの足が止まったが、それでもケニスは視線を動かさずにいる。
指先の冷たさが全身にまで回った気がした。
「仕事が忙しいんだ」
「でもそれではお疲れが取れないのでは……」
「いいんだ!」
突然の大声にびくりとティアファナは体を弾かせて後退りする。
驚愕に強張った顔は固まってしまい、何かを告げる事も叶わない。
ドクドクと鳴り響く自分の心臓だけがこの静寂に煩く音を立てているように思えた。
どれくらいそうしていたのか、やがて息をついたケニスがやはりティアファナには微妙に視線を背けたままで言う。
「……すまない。とにかく、俺の事は心配ない。いいから君は早く休みなさい」
それに頷いたのかどうか、何か答えたのかどうかわからないまま、ティアファナは気が付いた時には寝室にいてベッドの中で蹲っていた。
ぎゅっと膝を抱え込み猫のように丸くなって思った。
以前と似ているようでケニスの態度は少し違う。
あの頃のケニスの態度は本人がそう言っていたが、とにかくただ基本的に避けていたし、何か言う時も突き放したままだった。
――あんな風に謝ったりはしなかった。
少なくとも気遣われていた点は喜ぶべきだろうにティアファナはそれが出来ない。
何かが違ってしまっている、そんな漠然とした不安が大きくティアファナを揺るがした。
以前に戻ってしまったのならいい、それならば希望は持てる。
何せケニスはティアファナを思うがあまりに避けて通っていたのだから。
しかしケニスがあんな風に自身の態度に戸惑ったような瞳をするのが余計に不安を煽るのだ。
どうしてしまったのだろうと、いよいよ途方に暮れてティアファナは大きく息をつき無意識に緊張したままだった体から力を抜いた。
まるで、そう、「こう」なってしまっている事に戸惑いを覚えているかのようだ。
ケニスの姿を思い出し、ティアファナはきゅっと自分の頬を抓る。
夢ではない。
だとすれば、ほんの少し前までの「日常」が夢だったのだろうか?
様々な思考がぐるぐると頭の中で渦巻き頭痛すら覚えて来る。
以前とも違う、少し前までとも違う、全くわからないケニス。
このままでいたらどうなってしまうのだろうかとティアファナはぼんやり天井を見上げた。
急に夢から覚めて結婚が間違いだったと思っているのだろうか、あれだけティアファナに囁いた愛は真実ではないと気付いたのだろうか。
怯えがどうしても、何度でも蘇って来る。
愛してる、愛されていたい、――夢はもう終わってしまうのだろうか?
結局一晩まんじりともせず、目を擦りながらティアファナは夜も明け切らぬ内に自室を出た。
階段の下に座り込み、膝を抱えてじっと時が過ぎるのを待つ。
やがて僅かな物音を立て、待ち人は来た。
止まった足音に振り向き見上げると、薄暗い中ケニスが複雑そうな表情で見下ろしている。
深呼吸をして、ティアファナは言った。
「いつまでそうしているおつもりですか?」
一瞬訝しげにティアファナを見たケニスだが、その意味を理解したのかそっと目を伏せる。
そしてティアファナの元まで下りて来ると漸く正面からその瞳を見た。
目の前にいる人は確かに以前とも五日前とも同じ人なのに、とティアファナは思う。
それでも、自分もあの頃よりは少し変われたのだと信じたい。
両脇に垂らした手をぎゅっと握った。
何度も何度も考えて、打ち消して、そして漸く決断した。
「私、……私は、貴方の妻です」
「……ああ、わかっている」
何かを耐えるようなその表情にティアファナは胸が引き絞られる思いがする。
ぐっと掌に爪が食い込むほど握り締め、必死に自分を奮い立たせた。
――そう、私はケニスの妻だ、そしてこの人を愛している。
だから夫の憂いになるものは、取り除くべきなのだ……例えそれが自分自身であっても。
「どうかちゃんとお休みになって下さい。貴方に憂いがないよう、私は精一杯努めますから」
「いや……君は何もしなくていいんだ、そのままでいい。ちゃんと休む、約束するよ」
その言葉に幾分かほっとして、しかし僅かに苦しげな何かを残した表情の夫を戸口まで付き添い見送った。
すでに待機していた馬車に乗り込み、その何もかもが見えなくなっても、車輪と蹄の音が聞こえなくなっても、暫くティアファナはその場に佇んでケニスから目を離さずにいる。
否、何もかもが針を止めた時計のように動かなくなった。
動けない、動きたくない――あの人が帰って来るまで。
ふとその思いに弾かれて、ティアファナは頭を振って口の端を努めて引き上げる。
ちゃんと言えた、その事に猛烈な安堵と寂しさが襲い掛かって来た。
細かに震え出した両手を組んで握り締め、ずるずるとその場に膝を折る。
唇を噛み締め泣き喚くのだけは堪えた。
これは誇っていい事なのだと必死に自分に言い聞かせて。
これから自分は妻としての役目を果たすのだ、愛する人の役に立てて何を嘆く事があるだろう。
いつも思っていた事だ、ケニスの妻として相応しい行動が出来るようになりたいと。
これが最後であろうとも、彼の役に立てるのだ。
「奥様!?」
珍しく声を上げて駆け寄って来たセバスチャンにティアファナは力なく笑みを返す。
「大丈夫、何でもないの。旦那様をお見送りしただけ。早起きしたから、眠くなったのかしら」
「奥様、お顔色が優れないようです。寝室へお戻り下さい。今誰かを呼んで――」
「いいの、一人で行けるから。少しだけ眠るわね。セバスチャン、昼には起こしてくれる?」
「かしこまりました」
納得のいっていない顔のセバスチャンに苦笑して、ティアファナは力の抜ける体に叱咤しながら気力を振り絞って立ち上がる。
やるべき事はまだある、少しだけ眠って一刻も早く支度をしなくてはならない。
足を引き摺るようにして寝室に戻りベッドを身を投げ出すと、ぼんやりした頭でこれからの事を考えた。
特に惜しい荷物はない、ケニスから贈られた手紙だけは持って行こう。
それくらいならば、きっと許されるに違いない。
兄に連絡をして、……その前に落ち合う場所を決めておかなければ。
一体何と言われるだろう、いやあの兄ならきっと妹の「里帰り」を喜んでくれるはずだ。
きっと、夫も――ケニスも、ほっとする。
「さあ、少し眠らなきゃ。元気を出して、しっかりするのよティア」
このところ一度も夫からは呼んで貰えない自分の名を呟いて、ティアファナはベッドの中へと潜り込んだ。
起きたら忙しくなる、いや忙しくしていよう。
体を丸めてティアファナはそうして意識を手放した。
侍女の泣きそうな顔を見て、ふとそれにティアファナは微笑みを零す。
そして手を伸ばしそっとその腕を擦った。
「そんな顔をしないで」
「ですがっ」
「これでいいのよ。そうするべきなの」
「そんな……」
俯いた侍女の頬を両手で包んで、ティアファナは有り難く思う。
そう言って貰えるのは申し訳ないながらもほっとする。
自分で決めた事なのに引き止めて貰えるような言葉が嬉しいなんてと、自分の浅ましさに自嘲して。
「さあ、セバスチャンが帰って来ない内に行きましょう」
「ティアファナ様、……私は、どこまでもお供致しますから」
強張った顔でそう言う侍女に漸く心からティアファナは微笑んで頷く。
「心強いわ。アナ、ありがとう」
「勿体無いお言葉ですわ」
二人で暫し見詰め合って、やがてやって来た馬車へ乗り込む。
ティアファナはじっと窓から屋敷を見詰めた。
例えばケニスと過ごした時間がどれほど夢のようであっても、もう夢だったとは思わない。
全て受け止めなければ、いつまでも少女の気分のままではいられないのだから。
確かに彼と夫婦として過ごした、苦しくて寂しくて嬉しくて切なくて愛しかった日々を――幻にはしない。
ずっと好きだった人、一目で心を奪って行った人、少し子供っぽくて意外と照れ屋で、愛しい貴方。
「さようなら」
貴方の憂いは、私が取り除いてあげる。