続編 後編
夫の今生の別れなど物ともせず、妻は意気揚々としたまま義母に連れられ別室へと向かっていた。
ティアファナがこういった場に出る回数が少なかったとはいえ、彼女はそれに物怖じする性質ではなかったし、昔から父と兄を筆頭に出会い頭から雨霰の賛辞を受けて育って来たので慣れているとさえいえる――彼女にとっては親族の贔屓目と社交辞令に他ならなかったが。
初めてと言ってもいい夫からの始終のエスコートを受け、ティアファナはむしろ上機嫌だった。
夫によればそうではなかったと言われるものの、やはり夫の横に妻として並び公の場に出る事は自分を認められるという事にもなる。
何より彼女には本日大変楽しみにしていた事があったのだ。
「我が息子ながら本当に浅はかなのだけれど、あの子の妻として貴女は堂々としていればそれでいいのよ。何せ私の自慢の娘なのですからね、ティアファナ」
どうやら成り上がりと言われるバークレーの名を嫌う古くからの貴族も少なからずいるようだとティアファナも先程理解した。
しかし代々続くというだけならティアファナの実家もそうであり、それを一緒になって名ばかりと称したかの人達は、ただとにかくこちらが気に食わないのだろうという事も。
夫と義母が自分はそんな口さがない中傷を受け傷付くのではないかと心配してるようだった、だから努めてティアファナは大丈夫だと笑顔を見せた。
実際その通り、ティアファナにそんな中傷の心配などは無意味だったからだ。
ティアファナは早くから父や兄が何故自分を隠すように育てていたのかを理解していた、大人が隠そうとするものほど子供は敏感に感じ取るものだ。
自分の家が周囲にどう言われ、早くに亡くなった母がどう思われ、そして娘を隠すように育てる父と兄……その娘もどう言われているかは実はこっそり聞いていた事もある。
早く大人になって父や兄を助けたかった、自分が子供であるが故に庇われる事しか出来ない事はわかっていたのだ。
そして愛する夫を得て殊更その思いは強くなった。
どうも誤解ではあったようだが、しかしティアファナは自身をまだ夫に相応しい女性だとは思わない。
今回の場に来ていた女性を見渡せば、多分に彼と関係があったであろうと思われる女性が幾人も自分を見、そしてうっとりとケニスに見入っていた。
夫が何と言おうとも、彼に選ばれた人なのであるのは間違いがない。
自分などよりもずっと大人で美しくて華やかで……ティアファナは自分なりにそれに近付くべく、彼女達の立ち振る舞いを勉強するつもりでやって来た。
勿論真似などでは意味がない、大人の男に相応しい大人の女性とはどうあるべきなのか、少しでも無知を埋めようと思ったのだ。
ケニスは三ヶ月前の一件以来人が変わったように優しくしてくれるようになったが、彼の言い分からすれば優しく出来なかったのはティアファナの幼さとそれを大事に思うが故だったのだ。
年齢はどうしても追い付けないが、せめて成人の年を迎えるまでに大人の女性としての教養と立ち振る舞いを覚えたいとティアファナは決意を新たにしている。
これを夫が聞いたら別の意味で嘆く事は請け合いだが、彼女はまだそれを察す事が出来ないほどにはまだ少女であると言えた。
「まあ、まあ!ティアファナ、遅いわよ。早くこっちへいらっしゃいな」
ご機嫌といった様子で部屋に入ったティアファナと義母を手招きしたのはこの屋敷の女主人だった。
先程の顔合わせで美しく愛らしい容姿に加え、頭の回転よく喋り気遣うティアファナをいたく気に入ったらしい。
義母の親しくしている相手にそう思われた事はティアファナにとっても嬉しい事だった。
少しの間はそれから夫人とその親しい人達の間だけで談笑は進んでいたが、それを予告もなく遮ったのは再三に渡り義母が毛嫌いしていたバーンズ夫人の一言だった。
「ああら、何か毛色の違う者が紛れ込んでいると思ったら貴女でしたの、バークレー夫人」
毛色が違うとは、ティアファナも幼い頃こっそりと聞いた事のある、貴族がそうでない家や片方にでも一般人の血統を持った家に対しての差別的な言葉だ。
今では貴族だけで血を絶やさないでいられる家こそ少ないというのに、まるでそれが全てという物言いの夫人の言葉にはティアファナも如何ばかりの人間かを悟る。
これでは義母が毛嫌いする訳だと思うよりも先に、この屋敷の夫人が離れていたのをいい事に食って掛かって来たバーンズ夫人に対し義母も勿論黙っていられるはずもなかった。
ケニスに言われた事を守られていたのは実に最初だけである、周囲の人間が止めもせずまたかと苦笑さえしていたのを見て、ティアファナもこれはむしろ止めずにやりたいだけやらせた方がいいのだろうと判断してその場を離れた。
――そしてティアファナが待ちに待った瞬間がやって来たのだ。
男女の場では顔合わせやご機嫌窺いが多く、特にティアファナは今回初めて顔を合わせる人間が多かった事で近寄れなかったのか、漸く「彼女達」は複数連れ立ってティアファナに歩み寄って来た。
お互い初めましてと形式上の挨拶を交わした後、ティアファナは今日の為に思い描いて来た質問のどれからぶつけようかと思案する。
服や髪や香水一つとっても、ティアファナにとってケニスの好みを把握するのは難しかった。
何せ何を着ても何を付けても何をどうしようとも、ケニスは満面の笑みでティアファナを抱き締め愛を囁くばかりで……それが嫌とは勿論言わないが、ケニス好みの女性を目指すティアファナにとっては僅かに不満な事なのだ。
目の前に現れた女性達を見て、その服装と髪型やアクセサリーを瞬時にティアファナは記憶する。
名ばかりと言われているだろう妻が例え夫に伴われてこの場に来たとして、彼を思う多くの女性達はそれを物ともせず彼を誘惑しようとするだろうと踏んでいた。
そうなると彼女達が身に着けているものは彼好みのものだろうと推測されるという訳だ。
「何よ、本当にまだ子供じゃない。貴女、若さだけが取り柄なんだから、精々彼に捨てられないでいられるのは精々後数年よ。子供に飽きたら彼は私達の所へ戻って来るんですから、あまりいい気にならない事だわ」
真ん中に立っていた女性が艶やかな唇を曲げてそう言った。
「ええ、努力しようと思っています。私、彼に相応しい大人の女性になりたいんです」
ティアファナも笑顔でそう言った。
彼女自身何も可笑しな事は言っていないつもりだったのだが、その言葉に女性達の顔ががらりと変わる。
「だから、貴女が何をしようと無駄なのよ。彼は貴女が物珍しいから手に入れただけ。貴女の名ばかりの家と周りにはいなかった若さにちょっと目移りがしただけなのよ」
「そうであっても、私が努力しようと思う事に変わりはありません。私を大事に思って下さる夫に応えるのは妻の義務ですし、私自身がそうしたいからです」
「っ……相当勘違いした田舎娘みたいね。ケニスも魔が差したにしてもこれじゃあ悪趣味だわ、こんな子供をあまつさえ妻にするだなんて」
きっと睨んだ女性に対し、今度はティアファナの顔がきりりとした。
ティアファナは母譲りの儚げで温和な容貌をしてはいるが、なまじ美しいだけにそれを引き結ぶと思ってもいない迫力が出る。
当人は知らぬ所だが、その硬質な雰囲気は周囲の空気も凍らせた。
「な、なによ……っ彼に言い付けでもする気?残念だけど、貴女のような世間知らずの子供の言う事なんて彼は耳も貸さないと――」
「残念です」
「……え?」
凛とした声が、少し離れた所で未だ諍いを続けていた義母とバークレー夫人の動きさえ止めた。
――そして協力に協力を重ね、漸く入室を許されたケニスとその友人達の足も。
「彼が選んだ女性と会うのを楽しみにして来ました。その方達なら確かに私より夫をよく知っているでしょうし、何より彼が好む大人の女性としての着飾り方や立ち振る舞いを学ばせて頂こうと思ったからです。それなのに、とても残念です」
ティアファナは俯きもせず、じっと目の前の女性達を見やった。
「図らずしも想う男性に対してそんな事を言うなんて。貴女方が私より彼がどれほど素敵か知らないなんて思いませんでした――それに」
くるりとティアファナが後ろを振り向くと、まさに今こちらにやって来ようとしていた足を止めたままのケニスをそのままの表情で見やる。
「ケニス、貴方にも少し残念に思います。そういう事があると私もわからない訳じゃありません。でも少なからずお付き合いした女性にこんな事を言わせるお付き合いしかして来なかったのだと思うと、……残念です」
ふうとティアファナが息をついたとたん、弾かれたように駆け出したケニスがティアファナを強く抱き締め抱き上げた。
「ティア!違う、ティア!お付き合いなんかじゃないんだ、俺は君を知って、俺の初めては君だけだ!恋をしたのも愛したのも、自分が嫌で堪らなくなったのも情けなく思ったのも、それでも君に愛されるのならそれでもいいかと思ったのも!全部全部君が初めてだ。俺は知らなかったんだ、君を知るまで、女性が俺にどんな意味を持つのか。君が教えてくれたんだ。ああ、ティア、俺の妻、ティアファナ、どうか愚かな夫を許してはくれないか」
まるで泣き縋る子供のように懇願し始めたケニスにティアファナも慌てて首を縦に振った。
するとここがどこだかも忘れたようなキスが降って来る。
「ケ、ケニスッ……ちょっと離れて下さい」
「ティアファナ!」
「私は許しますから――……だから彼女達にもきちんと謝って下さい。あんな事を言わせたのは貴方のお付き合いのし方に問題があったと思います。貴方が幾ら付き合い方を知らなかったとはいえ、それに合わせようとして下さった女性の身になって考えたらわかるはずです。私が教えたと言って下さるのなら……私の旦那様なら、わかって下さるでしょう?」
今思えばケニスが自分に冷たく当たっていても決して彼を嫌いになどなれなかったのは、ケニスがきちんと大事にしてくれていた根底があったからだとティアファナは思った。
憮然とした顔ながらもケニスは深く頭を下げ「すまなかった」と心底棒読みで女性達に詫びた、すっかり蜘蛛の子を散らしたように遠巻きでこちらを窺っている周囲としては「それはどうか」と思うような態度ではあったが、彼の妻はそれに大きく頷いたところを見るとまあまず合格点らしい。
そしてティアファナは同じように今度は女性達に向き直り、「私の夫を侮辱した事を、夫に謝って下さい」と告げた。
そのティアファナの堂々たる態度なのか、それとも妻の後ろでこれでもかと「断ったらお前の家は子々孫々呪われるぞ」と意いたげな視線を送って来るその夫の所為なのか、とにかく彼女達も気圧されるようにしてケニスと同様おざなりながらも頭を下げたかと思うと逃げるようにその場を出て行った。
「ああっ、違うじゃないか!彼女達はティアファナにこそ謝らなければならないのに」
「いいです。私が至らないのは私自身充分わかっています。本当の事を言われて腹は立ちません」
「何を言う。君のような素晴らしい女性に、分不相応なのはむしろ俺の方だというのに」
「同じ気持ちでいて下さったんですね。とても嬉しいです。でもケニスに謝って頂いたのですから、私に謝って頂いたのと同じ事ですよ」
「……君は本当に俺には勿体無い妻だ」
感嘆とした夫の呟きと共にその腕がティアファナに伸ばされるより先に、周囲から叫ぶような歓声が上がり、思わずティアファナは耳を塞いでしまうところだった。
「ティアファナ!ああ、素晴らしい私の娘!そこの愚息が捕まえたのなんて信じられないわ。いいことティアファナ、愚息がこれから何をしようと貴女が愛想を尽かす事になっても貴女は私の娘よ」
真っ先に駆け寄って来た義母がティアファナを抱き締めそう言うのに、その息子である例の愚息はとてつもなく苦い顔をした。
どうやら先の女性達には辟易としていたらしい他の女性達があっという間にティアファナを取り囲んでしまい、まだまだ続きそうなお喋りにティアファナは嬉しいような困ったような笑顔を返す。
取り残された夫といえば、次々に友人達から肩を叩かれていた。
「一躍ヒロインだな、お前の嫁さん」
「まあその、なんだ、……ファイト」
「お前、今後ティアファナさんを一瞬でも泣かそうものなら、今まで以上に男女から夜道の背後を狙われるんじゃないか?」
「えーと、……ファイト」
「……………………………………ご注進受け取っておく……」
かくして一夜で時の人となったティアファナはそれから毎日のように夜会へ引っ張りだこになったのだが、夫が渋い顔でなんだかんだと招待状を突き返すのが、バークレー家の新しい日課となった。
「またか!?」
家に帰るなりそう叫んだ主人に、セバスチャンは「またです」と顔に書きながら静かに礼をするに留まった。
ティアファナに対する態度を改めて以来努めてケニスは仕事を定時で終わらせ家に帰るようにしていたというのに、夜会のあれ以来今度は母に連れ回されティアファナの帰りが遅くなっていた。
母はあれから益々鼻高々となって、ティアファナを買い物に連れ出しあれやこれやと買い与える事が多くなった(といってもティアファナが大体をやんわり断るので散財というほどではないが)。
何せティアファナが事実上遣り込めた女性の中に、母がこれでもかと毛嫌いしているバーンズ家の娘もいたのだからさもありなん。
だが母の有頂天のお陰ですっかり夫の御鉢は奪われ、挙句の果てには何か言おうものなら母親自身が息子の過去の愚行を持ち出しては懇々と説教をして来る始末だった。
夕食の頃になって漸く戻って来た二人にケニスが渋い顔をすると、とたんに母が「あら、以前なら朝帰りするほど仕事が趣味だったのにねえ」などとのたまうものだから、流石にケニスは「至急母をどうにかされたし」と父に連絡を取る事を躊躇わなかった。
このままではティアファナが成人を迎える頃に予定している別居計画もなし崩しにされてしまう恐れがある。
ぶるりと身を震わせたケニスに、侍女から紅茶を受け取ったティアファナが心配そうな顔で歩み寄った。
「お風邪でも召されましたか?」
「いや、今後来るかもしれない恐怖に慄いた。だが俺は絶対に屈しない。素晴らしい妻の夫として俺は絶対に屈しないからな」
誰かが聞いたら「その状況で何を言う」と言われそうなものだが、彼の素晴らしい妻はにこりと笑った。
「旦那様がそう仰るのなら、私も絶対に屈しません」
「……夫婦は常に、いつまでも一緒だ」
「はい」
紅茶をテーブルに置かせたケニスが差し出す腕に、ティアファナは躊躇いもなくその身を預ける。
その度に早く全てを彼のものにしてしまいたいと思うが、自制心をもって大事にしてくれると知っている今は、ティアファナ自身が焦る事無く着実に成人と共にその日を迎えようと思うのだ。
尤も常日頃自制心を図らずしも強化され忍耐力を試され続けている彼にとっては、嬉しくもあり、嘆かわしい決意でもあるのだが。
「こう毎日付き合わされたのでは君も疲れるだろう。母上には俺が言って聞かせる、たまには家でのんびりしていなさい」
「そんな事はないです、お義母様とお出かけするのは今までなかった事ですし……実は少し母と出かけるという事にも憧れていたんです。でもケニスを出迎えたいと思うので、今日のように帰りが遅くならないようにしますね」
どこまでも自分に甘い台詞を吐いて来る妻に、ケニスは見も知らぬ誰かに笑ってやりたくなった。
例えば多くの誰かが求めても、この妻が夫と呼ぶのはただ一人――自分だけなのだと。
そしてとたんに機嫌の良くなった夫に、やはり出迎えた方が嬉しかったのだと妻は思った。
「それに……家でゆっくりするのは、ケニスのお仕事がお休みの時がいいですから」
母が毛嫌いするバーンズのような代々の貴族は仕事を持っていない者がまだ多い、あまりに古いティアファナの実家はまだその習慣もなく……というより早くに亡くした妻の隙間を埋める為と残された幼い子供達の為にティアファナの父は未だケニスの父をも舌を巻かせる勢いで仕事をしている。
そんな訳で俗に言う趣味は母が言うように確かに仕事中毒な父とは違った意味で仕事しかなかったケニスだが、それほど仕事に追われなくてはならない事もない。
むしろ年の割りには出来る限りの出世をしてしまった方なので、いっそ頭の硬い連中には煙たがられてもいたのだから、その連中にとってもケニスが妻に入れ込み定時で帰るなどとは歓迎しきりだった。
すでに家族を養えるだけの財産は一人で蓄えているとはいえ、ケニスが仕事を辞めずにいるのもまたこの愛する妻の一言故だ。
あまり忙しそうにするのは体が心配だが、時折仕事の事を難しそうに、しかし楽しそうに話すケニスが好きなのだと、ティアファナのその一言のお陰で。
頭の硬い上司にとって変わられるよりケニスが辞表を出さなかった事は彼の会社でも大いに感謝をされ、ティアファナはある時会社名義で送られて来た大きな花束と山程のお菓子に首を傾げた事がある。
そうだというのにこんな事も言ってのける妻に夫は軽い眩暈がしそうだった。
一緒にいたいのだと言外に言われれば、だから仕事など今すぐ辞めてやるというのに。
「明日は休みだから、一緒にいよう。父上に連絡を取っておいたから、これからはそう毎日連れ出される事もなくなる」
出来るならばこう何時間も妻を拘束されるなど一生なくていいと思う夫だ。
「明日……ずっと一緒に?」
ぱっと顔を更に明るくしたティアファナは期待を込めて言い、そして長く深いキスで応えられた。
少し前からケニスに教わったキスを、自分から少し仕掛けてみる。
ケニスの唇が離れた瞬間にその隙間を舌でちろりと舐めると、ぐっとティアファナの頭の後ろに置かれていた手が強く彼女の顔を引き寄せ、待っていたのは更に深いキスだった。
教えられた通り唇の隙間で喘ぐようにするティアファナの息すら奪うようにケニスの唇が襲い掛かって来る。
浅く開いた唇を割るようにケニスの舌が差し込まれ、戸惑い彷徨うティアファナの舌の形を確かめるように舐め上げ吸い付かれた。
空気を求めて唇をずらすものの、それすら追って唇が擦られ食まれる。
何度も何度も、唇も舌も息も、奪われ――。
散々口内を蹂躙されて漸く解放される頃にはティアファナはケニスの胸に凭れ浅く呼吸を繰り返した。
宥めるようにケニスの手がティアファナの頭から背中にかけてを何度も撫で、気持ちのよさにうっとりとティアファナは目を閉じる。
すると突然ティアファナの額が小突かれ、彼女が目を上げると拗ねたようなケニスの顔があった。
以前からもだったが、ケニスはこうして時折子供そのもののような顔をする、ティアファナはそれがとても好きだった。
だから例え自分が大人になっても、ケニスが好きになってくれた時のままの自分も残しておきたいと思う。
難しい事かもしれないが、ケニスの為ならば遣り甲斐はあるとティアファナは思った。
「わかってて煽っているなら、今晩はお仕置きだな?」
「え?」
「もう少しで16になるからな。そろそろ大人のキス以上の事も教えようと思ってた」
「ええ?」
「うん、お仕置きだから。どんなにティアが恥かしいからもう止めてって言っても許さない」
「ええぇ」
「一つ一つじっくりたっぷり教えてあげるから、覚悟しなさい」
「ぇえー……はい」
よろしくお願いしますと言わんばかりに小さく頭を下げたティアファナに、ケニスは苦笑して小さなキスをその頭に落とす。
その体を抱き上げてベッドへそっと下ろすと、額同士をくっ付けてケニスは囁くように言った。
「時間なんか嫌でもやって来るから、ティアはティアらしく大人になればいいんだ。今だって充分なのに、それ以上完璧になられたら、今度は俺の方が皆に大人になれと責められるようになる」
むしろ責められるよりティアファナを引き剥がされる予感が大いにした。
「そんな事ないです。ケニスのちょっと子供っぽいところも、私大好きですから」
妻の甘い一言に夫は自身の何かがどろりと溶ける思いがする。
今となっては女狐と称するほど豹変してしまった美しい女性達に、今までそれこそ甘ったるいだけの言葉を幾度となく投げられたし投げかけもしたケニスだ。
ともすれば戯れ以下にしかならなかった拙い言葉が、これほど自身を喜ばせるものだと知らなかった。
否、その声が、その表情が、その存在だけが――彼を甘く蕩かせるのだと改めて知った。
「ティア」
寄せられた唇が甘い吐息でティアファナの耳を擽る。
同時に形を確かめるようにして胸が撫でられると、知らず体がぴくりと反応した。
そっとティアファナが窺うように見上げればケニスは優しく微笑みを零す。
気恥ずかしさに視線を下ろせば、ケニスの指が徐々に胸に埋もれて行く様がティアファナの目に映った。
驚いて再び顔を上げた瞬間胸の頂を指先が一瞬押すように触れ、背筋を走った感覚にティアファナの唇から少し湿った吐息が溢れる。
その音色さえも甘く感じる事にケニスは自分の胸が熱くなるのを感じた。
そう、確かにケニスはティアファナの全てを感じ取りそして影響されている。
これが人に触れる悦びなのだと、そう感じた。
「あ、あのっ」
これ以上なく自分を甘い表情で見下ろす夫に一瞬ティアファナはぎゅっと目を瞑ってから意を決して言う。
まるで火でも点けたように自分の顔が熱くなるが構ってはいられなかった。
「なんだい?」
「あの、……胸を大きくするには、どうしたらいいですか……」
消え入りそうな声でやっとそう発したティアファナは、少しの間を置いてから横を向き噴き出したケニスに向かってむっと唇を尖らせる。
確かに百戦錬磨だった夫には他愛もない事かもしれないが、ティアファナにとっては大変重要な事だった。
先日の一件は少々有耶無耶になってしまった、しかしティアファナはしっかりと見ていたのだ。
ケニスと関係のあっただろう女性達はそれぞれに流行のドレスや香水を身に着けていたが、髪や顔立ちには統一性がなかった。
だが――皆胸が大きかった。
「ティア、ティアファナ!」
「わ、笑わないで下さい!教えて下さってもいいでしょう?」
だがケニスの笑いは止まらず、真っ赤な顔で頬を唇を尖らせたティアファナを抱き込んでベッドを転がる。
ティアファナは視界と共に高鳴った胸までもがぐるぐると回転している気がしてケニスにぎゅっとしがみ付いた。
やがてひくひくと口元に笑いを残したケニスが仰向けになった自分の上にティアファナの体を重ねる。
まだ赤い頬を両手で包んで触れるだけの口付けをした。
「胸の大きさなど気にしなくてもいい」
「ケニスは自覚していないだけで、きっと大きい胸の方が好きなんですっ」
半ば拗ねてそう言い切ったティアファナに漸くケニスもその理由を思い至る。
だがまたしても笑いが込み上げそうになり、これ以上は得策ではないと必死にせり上がるそれを噛み殺した。
ケニスは全身がくすぐったくもどかしいような感覚に陥る。
まるでそれはどんな女性でも齎せられなかった彼を蕩かす愛撫のように。
「本当だ。誓って、俺は胸の大きさで女性を選ぶ訳じゃない。あちらがそれを武器にするだけだよ、男を落とす為のね」
「落とす、ですか」
その表現にすとんとティアファナも納得した。
まさにケニスを一目見た時から「落ちた」のだ、足掻いても這い出す事の出来ない甘く苦しい何かの中に。
「俺が落ちたのはティアファナ、君の全てにだ。君が君であるからこそ、愛しい。君は俺の背があと少し低かったら、俺に落ちてはくれなかっただろうか?」
「そんな事ないです!」
慌てて首を横に振ったティアファナはケニスの言わんとしている事を理解して、だが少々腑に落ちない気もする。
すっかり状況は最初に戻ってしまった。
ケニスがこう言うのをわかっていたからこそ、嘗て夫と付き合いのあった女性から色々と学ぼうと思っていたというのに。
こういうのを「丸め込まれている」と言うんだわ、と若干釈然としない思いのティアファナだ。
しかしそれを自分に当て嵌めてみると、やはり同じ文句しか出て来ないだろう事に苦笑する。
例えばケニスが今とは髪の色も瞳の色も顔も違ったところで、いつかは同じように恋に落ちただろう。
外見がどう違っていても、結局それすら愛したに違いない。
「わかってくれたようで嬉しいよ」
「はい……」
「じゃあ、そういう事で」
「え、きゃっ」
ケニスがティアファナを抱きかかえて体を反転させると、体重がかからないようにその胸に顔を寄せる。
先程のように今度は唇で服と肌の境目をなぞった。
「んっ、ん……」
「くすぐったい?」
胸元に吹きかけられる息さえもぞくりとした感覚を蘇らせてティアファナは少し首を竦める。
「……少し」
「力を抜いて……そう、少しずつ教えてあげるから、ついておいで」
そっと手に触れたケニスのそれに指を絡ませてティアファナが頷く。
「貴方となら、どこまででも」
吐息混じりに囁いたティアファナの唇に、ケニスの唇が降りて来た。