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続編 前編

本編より後日、妻として正式?夜会デビュー編。 

 自分の過去の行いがどれだけのものか、愛しい妻を迎えた彼は嫌と言うほど思い知った。


そして如何に自分がそれまで愛を知らなかったのかだ。


 以前はそれなりに楽しんでいたと思われた男女の恋愛は、ともすれば体や言葉を使っただけの、盤上のゲームに等しいものだったのだと。


ちっとも思い通りに行かず、まだ成人前だという少女相手に自分は滑稽なまでに負け続けているに違いないと、彼はしかし満足も覚えた。


 思春期特有とも言うべきか、それとも少女の性質故か、彼の妻は酷く一途で健気だ。


勿論それに日々心底惚れている事実はある、だがどれほど何かを仕掛けようとも、時にそれに引っ掛かりながらも真っ直ぐに彼を目指し突き進む彼女に対し、勝機など見えないだろう事も明らかだった。


「とっても楽しみです!」


 そう言い切った彼女の曇りない笑顔に顔を緩ませながらも、彼は思わず胸中で天を仰ぎたくなる。


自分の過去を問い質されれば離婚と言われても可笑しくないのだが(そもそも彼女が世間知らずでもなく一途でもなければ婚姻に応じすらもしなかっただろう)、男心はなかなかに複雑で、嫉妬一つ覚えてくれない妻が愛しいやら寂しいやらといった具合だ。


 半月後に予定された夜会はそこそこ大きなもので、そこには彼が過去に「ゲーム」を行った相手も多く出席するだろう。


今まで彼が彼女をひた隠しにして来たツケが大きく払わされるという訳だ。


いっそこのまま彼女を病弱だと偽り、自分の腕の中だけに閉じ込めてしまおうかと思っていた彼の算段は、今度開かれる夜会の主催者である女主にはお見通しだったのかもしれない。


 何せ彼の妻をそれこそ溺愛して止まない彼の母とその女主は切っても切れない幼馴染みであった。


この屋敷の主人である彼よりも早くに招待状を奪い取ったかの母は、目を爛々と輝かせて、毎日毎日義理の娘をああでもないこうでもないと着飾る事に余念がない。


 そして今まで妻としてちっとも彼の隣を許されなかった彼女は、彼の隣に相応しくあろうと、義母の傍目には拷問と呼べるような毎日にも嬉々として応じている。


不当とも呼べそうな扱いを受けていた彼女を目の当たりにして来た使用人達も日々彼女に手を貸し喜びこそすれ、誰一人夫である彼の心労などわかろうともしてくれない――自業自得ではあるのだが。


「ケニス様、如何なされました。そのようなお顔をなさってはティアファナ様がご心配をなされますぞ」


 執事長のセバスチャンでさえ主の心配よりその妻の心配だ。


 隣の部屋から妻と母の弾んだ声を聞きながら、ケニスは深く椅子に腰掛けブランデー入りの紅茶を口にした。


吐き出した溜息が長く重かったのに自分の心情が表れている気がしてならない。


「わかっているだろう。幾ら彼女が聡明でも、相手は女狐のような女なんだぞ。しかも今回はここぞとばかりに群れてやって来るに決まっている。世間知らずなティアがあの女達の攻撃に耐えられると思うか?」


 そこまで言う女性ばかりをわざわざ相手にしていたのは主人だろうにとは、この屋敷に長く仕え賢明な執事長は口にしなかった。


しかし無言で目を伏せたセバスチャンの言いたい事はわかってしまい、ケニスは苦い顔になる。


 彼の妻となって以来滅多に顔を見せなかったティアファナが、今回初めてと言ってもいいほど大きな夜会に出席するとなって、噂は瞬く間に広がった。


 それもそうだろう、彼女は母を幼くして亡くしてから父と兄に溺愛され社交界デビューも人よりはやや遅かった、その上デビュー後も内輪のパーティーだけに出席し相手は厳選されダンス一つマトモに踊った事はない、そんな中成人前にも関わらず半ば強引にケニスが彼女を攫ってしまった挙句妻となってからも滅多に夜会には出席しない、本当に彼女を見た事があるのは極一部の人間だった。


 そんな彼女がもう初めて公にされると言ってもいい今回の件だ、騒がれない訳がない。


そもそもまだ15にして輝くばかりに美しいティアファナはその極一部の人間にとっても語り草だった。


好奇心と下心に目を細めて待つだろう男達からも、病弱だ知らぬ存ぜぬで隠し通して来たと言うのに。


 それに加えて今やぷっつりと遊びを絶ってしまったケニスへの不満を彼女にぶちまけようと女性達も手薬煉引いている。


遠巻きながらもティアファナとて耳にはしてるだろうが、実際目にすれば純粋な彼女が傷付かないでいられない訳がないだろう。


 本当はティアファナが少しでも難色を示せばどんな手を使ってでも招待は欠席と捻じ伏せるつもりだった。


そして少しでも過去夫と関係を持ったであろう女性達へ嫉妬してくれれば、後でどんな償いをさせられようとも、ケニスは大いに満足するはずだったのだ。


 予定ではそのはずだった、全く寸分の狂いもなくそのはずであった。


ケニスが仄めかして言ったが聡いティアファナはそれを理解したはずなのに、ちっとも全く全然嫌な顔をせず、それどころか考える余地もないという即答で「とっても楽しみです!」と言い切ったのだ。


 そして残されるはむしろ妻の思考が全く理解出来ない夫ばかりとなる。


普通は嫉妬の一つでもするものではないだろうか、幾ら過去から彼女との結婚半年……その三ヵ月後の現在に至るまで本当に妻に対しとてもではないが良い行いをして来たとはお世辞にも言えない夫に対してであっても。


 確かに現実は愛を知る者にとっては遊び以下の行為で今残るものなど何も得ていないとはいえ。


ケニス自身は例えティアファナがどうとも思ってない男からとて声を掛けられるのも不快だし、出来るならば誰にも見せたくはないし、結婚後も未だにあの手この手で里帰りさせようとする彼女の父兄にも辟易としている、勿論ティアファナを一目見ようと今回の夜会に挙って出席して来る下衆な男達は以ての外だ。


 ――つまり不肖の夫は自分のように嫉妬一つしてくれない事が悔しくもあり寂しくもあったという訳だった。


ティアファナが言葉一つ投げていようものなら喜び勇んで欠席と言い張ったであろう愚息の行いなど手に取るようにしてわかっていた母親はとっくに出席と再三に渡り先方に念を押していたのだが。


「……一途過ぎると言うのも贅沢だろうか」


 答えは当然わかっていながらケニスは溜息と共に呟く。


如何せんティアファナは育った環境の所為か、あまり人に対し負の感情を見せない事はわかっていた。


彼がどれだけ欲望を持て余しそれを自制するのに彼女に辛く当たっても、ティアファナは恨み言一つ言うどころか自身が至らないと責め、挙句15の年ですでに完璧とまで呼べるであろうマナーを更に不動のものとし、更には最近に至ってケニスの仕事まで雑務ではあるが手伝うようになっている。


 そんな娘に義母は益々嬉々として自慢の娘だとあちらこちらで言い回っているのだが、若く美しく妻として非の打ち所もない彼女を人の目に触れさせたくもない息子にとっては大変迷惑な話だ。


 しかし愛する夫の為に日々活き活きと動き回り花の如く微笑む妻に対し、やはり夫も口を挟めず……。


だからこそティアファナが夫の過去に嫉妬するより、夫に相応しくあろうとする事は明白だった。


 大体にしてケニスが結婚後もなかなかパーティーに同伴を許さなかったのすら自分の至らなさだと思い込んでいるのだから、ティアファナは漸く挽回の機会が与えられたと思っているのだ。


それについて何度誤解だ六階だとケニスが言い募ろうとも、言い換えれば頑固な妻はちっとも夫に対し頷いてはくれない。


 全くもって自業自得という訳だ。


「ケニー、見て頂戴!私の娘の素晴らしい事と言ったら!」


 鼻息も荒く大よそ淑女とは思えない威勢のよさでドアを開け飛び込んで来た母にケニスは僅かにむっとする。


「私の娘」より前に、「俺の妻」だろうと言い掛けたのは、その素晴らしい娘が母の後ろからおずおずと顔を出した所為だった。


 ティアファナの母親をケニスも肖像画で見た事はあったが、それこそあちらは病弱という名に相応しい風貌で、確かに美しかったがそれ以上に触れてはいけないという強迫観念さえ抱かせるような儚げな人であった。


しかしティアファナは全体的な母親の美しさを引き継いで尚、父親の生き生きとした輝きに溢れ、それは触れてみたいと思わせるに充分だった。


 誤解が解け夫に愛されていると確信を得てからの彼女はより一層日々美しさを増していると思うのは何もケニスの贔屓目だけではない。


ただでさえそうして女神が人の形を成して現れたような彼女が相応に着飾ればどうなるか……しかし予想はケニスの想像を貧困だと笑わせるようなものだった。


「――ティアファナ」


 ゲーム上で言葉を紡いだ時にはどれほど自身に引出しがあるのかと苦笑したケニスが、どの言葉さえも紙に書かれた屑のように思え口を突いては出なかった。


むしろ今の自分の心境でさえ表す言葉を持たず、今まで掻き集めて来た言葉は全くの役立たずだと罵倒さえしたくなる。


 立ち上がったケニスは花に集る虫のようにふらふらと、その名だけを呟き、ティアファナをその腕の中にしっかりと収めた。


美しいとしかい言い様のない、しかしそれだけでは勿体無い、そんな妻の姿をせめて確かめようと抱き締める。


「止めて頂戴、折角のセットが崩れてしまうわ」


 しかし無情にも彼の母親によって夫婦の間は引き裂かれた。


どんなに恨みがましい視線を送った所で親は子の心を知らず――否知っているからこそである所が彼の母親たる所以だろうか。


「どう?どれも最上級の仕立てよ」


 むしろそうでなくてはならなかったのだと、ケニスも大いに納得して頷いた。


隔離されるように育った所為か、どうもティアファナは自身を着飾る事にとんと興味がなく、普段は下町娘のような格好で過ごす事が多い。


 しかし彼女に相応しい服をと思えば、どれもこれもが上質なものになって当たり前だった。


そうでなければ付けた宝石さえ彼女の前では色を失ったただの石になってしまう。


母が胸を張って言うに正しく、ティアファナの身に着けたドレスも宝石も、彼女を引き立てながらも決して自身の存在も忘れてはいないと主張出来るものだった。


「素晴らしい……ティアファナ」


 もうそれしか言葉を紡げないとばかりに感嘆したケニスに、ティアファナはその白い頬をぽっと赤らめにっこりと微笑んだ。


それだけでこのまま彼女を攫いほとぼりが収まるまで何処かに逃亡でもしようかと思った息子の考えはやはりすぐさま母によって遮られる。


「ドレスと宝石はこれでいいとして、次は香水ね。それから靴と、そうそう、この際だから化粧道具も一新しましょう。いいですかケニス、妻がどれだけ輝けるかは夫に掛かっているのですよ。つまり夫の甲斐性のなさは妻の恥なのです。よもや私のケニーは妻に恥をかかすような夫ではないのでしょうね?」


 彼は心底自分の母から産まれた事を後悔した。


母の気質をそっくりそのまま受け継いだといっていい息子は、そう言われれば後には引けないプライドの高さも持ち合わせているのだ。


「香水だけは夫に選ばせて頂けるんでしょうね母上?」


「ええ勿論ですとも。私の息子が貧困なセンスなど持ち合わせていない事はわかっていてよ」


「それは光栄」


 母の気に食わぬ物を選ぶなという無言の通告に頭痛を覚えながらもケニスは礼をしてティアファナの手を取った。


「しかしそろそろ母上も休憩をされては如何か。それにご自身のドレス選びにも目を向けなくては」


「まあ!そうだったわ、私とした事が!今度はあのバーンズ家の女狐が来るのよ。どうせまた私に見せびらかそうと不釣合いな宝石を首に下げてやって来るに違いないわ。遅れをとってなるものですか。セバスチャン!セバスチャン!街に出ます、馬車の用意を!」


 慌しく来た勢いのまま出て行った母を苦笑して見送ったケニスは、改めてティアファナを抱き締め、そして手を引き自分が腰を下ろした椅子の前に立たせじっくりとその姿を観賞した。


まだ化粧は施していないようだが、ケニスの視線に曝されたティアファナの赤みを帯びた頬は何よりも美しく彼女を彩っている。


「ケニス……?あの、どこかおかしいでしょうか?」


「素晴らしいと言ったよ、それとも俺の言葉は信用がない?」


「そ、そんな!」


「――ああでも、俺自身がこんなに言葉を知らなかったとは初めて知った。君を表現する言葉がない、いや、例え詩人であろうともこの姿を表現し切るのは無理だろうけれどね」


 ふわりと華奢な彼女を抱き上げ膝の上に座らせたケニスは、抱き締めたその体から漂う甘い芳香を吸い込む。


 そして難しいと内心ごちた。


素のままで素晴らしい彼女を引き立て尚且つどちらも主張を失わせない物を選ぶのは難しい。


この花のような甘い体臭を殺す事無く引き立てる香水などあるものかとケニスは思った、彼女のこの香りこそが媚薬にも似た身も心も蕩かすような香りだというのに。


「そういえば君はいつも甘い香りがする。香水を付けてはいなかっただろう?」


「ええ。時々は体や髪に特別な香油を使っていますけど」


「特別な?」


「匂いのないものなんですよ。お父様がそういったものをあまり好まなくて、私も付けたいとは思わなかったですから。でも肌や髪を整えるのに使った方がいいと侍女に言われて、それならとお父様が取り寄せて下さったものなんです。昔から、今も愛用しています」


「そうか、やはりな。では俺の香水選びはまさに大任な訳だ」


 頷いたケニスに首を傾げたティアファナの首筋に唇を落とすと、ぴくんとその体が腕の中で揺れる。


それが愛しくて何度も繰り返し、顔を真っ赤にさせたティアファナが拗ねるように見上げて漸くケニスは笑いながら唇を離した。


 彼女が成人まで純潔を守るというあってないようなケニスと義父と義兄の約束は、ケニスによるところ大いに不本意ながら未だ守られてはいる。


それも彼女が大いに彼の意思を誤解してしまったのと、今までの彼女に対する態度を一応ケニス自身も後ろめたく思っている所為なのだが。


 こうして時折戯れのように触れるのはお互い吝かではない。


……例えその後決まって彼が身動きするのすら難しい状況になろうとも。


「ねえ、ケニス。本当は行きたくないのではないですか?あ、勿論私を連れて行くのが嫌だなんて思ってはいないですけど」


 ふとじっとケニスを見詰めた後ティアファナが言ったのに彼が目を丸くする。


 誰にも見せたくないのは山々だが、ケニスの中には確かに彼女を自分のものだと見せびらかしたいという願望も大いにあった。


彼女が自分の過去の女達に嫉妬一つしてくれないのはもうほぼ諦めたが、しかし今まで碌に公の場に出なかった彼女が何を言われるかは目に見えていて、彼はそれに対し全てを上手く庇える自信がない。


 その自信のなさが彼女の目の前に表れてしまったのではないかと、ぎくりとさえした。


「私は楽しみにしていますと言いましたけど、ケニスが行きたくないのならそうして下さって構わないんですよ?私は貴方が一番大事です、貴方の傍にいる事が一番幸せなのですから、私の楽しみを取り上げるなんて思わないで下さいね」


「ティア――時折君は俺の下に遣わされた女神ではないかと疑ってしまうよ」


 ティアファナの透き通る瞳を覗き込んでケニスが言うとまさに女神の如く微笑んで彼女は首を振る。


「いいえ、私は貴方の妻です。天に帰れと言われても嫌です」


「ああ、ティア……愛している。誰が君の腕を引こうとも、俺が決して離すものか」


 抱き締めて来る体を更に強く抱き締め、ケニスは果実のような唇に深く己の唇を重ねた。


 そして蕩けそうになる思考で算段を捏ねる。


この愛しい存在に傷を付けるものは、例えもう自分であろうとも許す事など出来ないのだから。









 かくして日々は穏やかに、しかしながら水面下ではあちらこちらで計画が企てられ、そして夜会の日は訪れた。


 第一の大任を果たした息子に対しては母も大いに満足し、ティアファナの出来栄えには最後の最後までケニスが幾度となく引き返そうと思ったほどだ。


そしてそれはやはり夫の贔屓目などではなく、ティアファナを一目見た瞬間には誰も彼もが呼吸すら忘れて立ち止まったようになってしまうのだから、やはりここからでも帰ろうと彼女の手を引くケニスを諌めるのは母の勤めとなった。


 巷の夜会は二部構成が基本で、後半は男女が別れて談笑を楽しむ事になる。


 ケニスの母が再三に渡り悪態をつき忌み嫌っているバーンズ家の女主人は見栄っ張りの仕切り屋で、女同士の場でこそ本領が発揮される事はケニスも聞き及んでいた。


何かというとバーンズ夫人は遠回しに成り上がりとケニスの母を貶すので、人一倍負けず嫌いの母とはしかしながらいい勝負であるようだ。


 だが今回ばかりは勝手が違うと、ケニスはここに来るまでも散々と母に言い聞かせた。


後半になってから女同士の場に男が割り込む事などは滅多にない、特に今回のように大々的に行われる催しなら使用人も多くいる故に尚更であった。


 ケニスが出て行けない以上、ティアファナを口さがない連中から守れるのは母だけという事になる。


だからこそバーンズ夫人の相手ばかりに気を取られていては駄目だと口を酸っぱくして告げたのだ――勿論息子の愚行を嘆くフリをして相当にケニスも母から嫌味を頂いたのだが。


 漸く顔出しを済ませたティアファナは当然ながら引っ張りだこにされ、その都度浴びるほどの賛辞を受けた。


それをはにかみながらも完璧なマナーで受ける妻にケニスは大変満足したが、それだけに不安は募る。


 過去の女性達にとってティアファナが美しかろうと醜かろうと、完璧だろうとそうでなかろうと、ケニスの隣に公然と並ぶ限りそれは大した問題ではないのだ。


ケニスが誰をも対等に遊びの扱いとしていたからこそ渡って来た橋が、今では如何に危うかったのかがわかる。


彼女達の牙がどれほどのものか知っていたからこそケニスはそれを避けていたのだが、全く要領がいいとはいえない、むしろ完全に仇となっている状態だ。


 今までは誰もがそうだからと抑えていたものが、特別な存在を前に一気に爆発するだろう事は必至だった。


現に母親とそちらも瓜二つといったバーンズ家の一人娘などは、伴った母同様ティアファナをこれでもかと睨み付けた。


バーンズ家の女性が如何ばかりであるか聞いていたにも関わらず手を出した事が露見され、ケニスはその場で母にわざとらしく足を踏まれる事にすらなる。


 戻れるものなら過去に戻って自分を殴り付けたいと、ケニスは始終ティアファナから手を離さずに何度となく思った。


「ティア、母上から決して離れるんじゃないよ。いいね」


「もう、子供扱いはしないで下さい。ケニス、私はそんなに無作法でしたか?」


「そんな事はないよ、そんな事があるはずもないだろう。皆ティアファナの虜になってしまったよ、私だけの妻なのに悔しいけれどね。この俺も君の虜の一人だ、心配で堪らないんだよ。一時でも手を離すのが恐ろしい」


 まさしく今生の別れかというように抱き締めた夫に妻は鮮やかに微笑んだ。


「妻は旦那様だけのものです。私こそ貴方の虜の一人……忘れないで下さいね」


 そうしてまるで子供をあやす母のように頬にキスを残した妻が母と一緒に去って行くその美しい背を、夫は捨てられた犬のような思いで見送った。


 ティアファナの姿が見えなくなってさえその場から動こうとしないケニスの肩に手が触れ、漸くケニスが顔を上げるとそこには知った顔が複数にやにやと笑みを浮かべて立っている。


先程までの切ない表情をがらりと変えてケニスはそれを見、ふんと鼻を鳴らした。


「うーわあ、やっぱケニスだ。別人か、それとも別人格かと思っちまった」


「いやあ、噂以上だなお前の嫁さん。ありゃあしょうがない、色男のケニスも称号返上になる訳だよ」


「彼女から手を離す時のお前の顔!どうにかして残しておきたかったね」


 口々に好きな事を言う友人達に顔色一つ変えず、ケニスは大股で踵を返し別室へ足を踏み入れるなり差し出された酒を呷った。


こうしている間にもティアファナが誰かから何か言われていやしないかと、足があちらの方へ動き出そうとしてとても素面ではいられそうにない。


 遅れてやって来た友人達がそれを面白そうに囲んだ。


友人としても男としても、女遊びさえ抜けば非の打ち所のないケニスをからかえる絶好の機会だ、それを逃すではない友人達にケニスは酷く恵まれていた。


友人達にとってもケニスの花嫁となったティアファナの噂話は格好の酒の肴だった。


何せ成人も迎えていない幼妻を娶って以来、あれほど時には自慢げに隠そうともせず夜会の度に変えていた女性達とはすっぱり手を切り、しかしその肝心の妻は殆ど家から出そうともしないのだ。


 元々そうして育てられた彼女はあらゆる噂があり、そしてその美しさも見る者が少ないとあって尚更噂に尾ひれが付いていた。


その辺もこの男に追求しそしてその花嫁を一目見ようと喜び勇んでやって来たものの、実際の彼女は全く男として彼の心情が丸わかりになるほど噂以上の女性で、その点についてはすっかり毒気を抜かされたのもまた事実だった。


「つーか、いいのか?連れて来て」


「そうだよなあ、幾らあれだけの別嬪でも、嫉妬に狂った女には関係ないだろうよ」


「あーあ、お前が雲隠れさせてた訳だよな。あれじゃ男なら誰だってそうするさ」


「今頃お前が食った女達に取って食われてんじゃないのか」


「――そう思うなら手を貸せ」


 ぎろりと睨んだケニスの視線ではなく、その言葉に友人達は言葉を失った。


中には古くからの付き合いである者もいるが、その友人でさえケニスが言い方はともかく手を貸せなどと頼んで来た事はない。


顔を見合わせた友人達は、今すぐにでもこの場から飛び出して行きそうな友人を再び見やった。


「そうだジョナサン、お前ここの血筋だったな。誰か屋敷の者を手配してくれないか」


「ええ?……でもなあ、今回はなんかやたら大叔母様が張り切っていて、邪魔したら後で何を言われるか――」


「例の店の権利書で」


「乗った!よし、従姉のエリザベスが来てるはずだ。彼女に頼めば俺達くらいの人数なら何とかなるだろ」


 一気に手の平を変えたジョナサンが意気揚々と部屋を出て行くのを見送り、残った友人達はしげしげとケニスを見やる。


「お前……必死だな」


「ティアファナは育った環境が環境だ、幾ら頭がいいと言っても、ただ自分を傷付けるだけの人間には慣れていない。それに彼女は負の感情を相手に返すのではなく自分で受ける。……心配なんだ」


 疲れたように溜息をつき顔を手で覆ったケニスに、友人達は再び顔を見合わせ、そして誰からともなく頷いた。


これだけ面白――いや、友人達としても誇らしい男としてくれたティアファナには自分達からも礼を言うべきだろう。


見るにも美しく優しそうな女性であったティアファナが口さがなく言われるなど、何より自分達の友人である男が愛した女性を侮辱されるなど、あってはならない。


「よし、ここの夫人とは俺の妻も親しくしている。多分一緒にいるはずだ、協力を頼もう」


「俺達が引き止めている間にお前は上手く彼女を連れ出せ」


「お前ら――……ありがとう、恩に着る」


 にやりと笑ったケニスに友人達も同様の笑みを返した。


そうして友人達の協力を得て乗り込んでいった先では、まさにティアファナが鬼のように顔を変えた女性達に囲まれている所だった。


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