本編 後編
出向いた先は私の結婚前によく兄が仕事帰りに寄ってお土産を買って来てくれた店の前だった。
小さなティーサロンなのだが、そこではお土産用に小さな小瓶に入ったジャムやクリームを売っていて、私はその美味しさと可愛さのファンだった。
結婚後もこうして町を出歩くなど本当に滅多にない私はこれを機に店の中を見たいと思ったのだが、馬車を降りたとたん駆け寄って来た物体に抱き付かれ、願いは結局夢である事を悟った。
「ティア!ああ、ティア!私の可愛いティア!久しぶりだね、本当に久しぶりだ、よくその麗しい顔を見せておくれ」
妹の私が言うのもどうかと思うのだが、兄は基本的におかしい。
多分私が世間と隔離されて育ったようなおかしさと似て、母を亡くし忙しい父に代わって私の面倒をよく見てくれていた所為なのではないかと思う。
恐らくそうして自身が育てたに等しい私は、兄にとって理想の女性像そのものなのだろう。
夫に比べても遜色のない美形で、私が知る限りでも夫と並んで社交界の花形とまで言われた兄であるが、理想の女性像が生きて現実にいるお陰でどうも女性と付き合っても夫とは違った意味で長続きしないようだった。
二度目の離婚を経た後、父ももう兄に結婚をせっつくような真似はしなかった。
私と比べて妻に嫌気が差している息子に何か言うのも諦めたのかどうか。
そう思い、私は不意に夫の事を思い出して胸が痛くなった。
彼はどうだろうか、兄と同じように、他の女性と私を比べて何かを思うのだろうか。
私が如何に役立たずな子供であるか……誰かに話したりするのだろうか。
元々彼は兄と違い女性と結婚する気などないように振る舞っていたと思われても仕方がない生活だったと聞いている、そんな彼が事実その結婚をしたからといって思想を変えたなどと誰も思うまい。
しかし嫌な所があっても私に話してくれたらと思う、見向きもされないのはそれより辛いから。
「兄様、それで――あの方は?」
「おおそうだった」
そうだった、ではない。
「先日戻って来たんだよ、そして真っ先にうちに来るなりお前の結婚の話を聞いて手が付けられなくなってな。そのままお前の家に乗り込みそうだったから、今日はお前に来て貰ったんだ」
「ええ……多分そういう事ではないかと。けれど、どう話していいものでしょう?あの方、昔から私の話など聞いているようで聞いていなくて……」
侍女を馬車に置いてから兄に手を引かれ目の前のティーサロンに入った私達は同時に溜息を吐き出す。
ロバートは所謂私の幼馴染みだった、兄より三つ年下の彼は私のもう一人の兄のような存在であったのだが、しかし彼の言動は日増しにおかしさを増し始め、今ではもういつからそうなったのか思い出せもしない。
彼が「兄」ではなく「男」として私を見始めたのはそれくらい昔の話だった。
それに気付いた兄達がロバートを私から引き離すようにしたものの、彼はあちこちで私を嫁にすると豪語していたらしいとは結婚前に聞いた話だ――尤も私が隔離されるように育てられていたのは周知の事実で、誰も信用はしなかったそうだが。
私が出席出来るパーティーはいつも彼が仕事で不在の間に行われていた。
それなのにその間に夫であるケニスが名乗りを上げてしまったものだから、当時兄は文字通り私の前ですら地団太を踏んだ。
しかし兄はこのままでいてロバートに攫われるくらいならと苦汁の決断をした(と自ら言った)ようだ。
確かに私はロバートがあまり好きではなかった、正直に言えば兄と慕っていた彼が目の色を変えた時点で畏怖の対象になってすらいた。
本当に幼い頃はその意味がわからなかったものだが、今となっては何故彼を恐れいていたのかわかる。
ロバートにとって私は自分の目を惹く容姿をしただけの欲望の対象に過ぎなかったからだ。
私の意思など関係がない、ただ私は彼の中で悦楽を引き出す為の肉の塊だったという事だろう。
兄のように慕っていたままなら、或いは私は彼に恋をする事が出来たのかも知れない。
しかし彼はその猶予を与えてはくれなかった。
今になって思う、恋を知った今だからこそ思える事だ。
彼に恋を出来ていたのなら……もしくは私もその欲望を受け入れたかもしれないと。
何故なら私は今確かに、体で引き止める事が出来るのなら、それを躊躇う事などないと知っているから。
こんな私を知っても、兄はまだ私に理想の女性像を重ねられるのだろうかと、ふと苦笑した。
「仕事終わりにこっちに来るように言ってある。人の目が多くあればあいつもそうそう下手な真似は出来ないだろうからな」
確かに今の私の家に乗り込まれたのでは止める人間が使用人達ばかりになる、ロバートもうちほどではなくとも古くから続く名家だ、彼に下手な手出しをしてただで済むとも思えない。
それにあんな優しい人達の手を彼の事で煩わせるのも嫌だった。
何より、彼のような人がいる事がわかっては、私はそれを理由に離縁を言い渡されてしまうかも知れない――それが一番恐い。
私があまり外出出来ない理由はそこにもある。
結婚前も出掛ける時は必ず傍に兄か父か護衛がいなければ、必ずと言っていいほど見知らぬ男性に声を掛けられたり、酷い時には連れて行かれそうになった。
私が誘いをかけているのでは勿論ないが、男を引き寄せていると離縁の理由にされるかも知れない。
なんて利己的でずるい女かと我ながら呆れてしまう。
夫が私を本来の意味で妻に迎える事などないとわかっていながら、偽物の立場にしがみ付いている。
あまつさえ私はそれを盾に、彼と他の女性の子供が出来たらそれを取り上げてしまおうとさえ企んでいるのだ。
これではロバートと何の変わりもない、いつから私はこんな女になったのだろう。
「ティア、大丈夫だよ、お前には指一本触れさせない。私がお前を守るからね」
テーブルの向こう側から手を伸ばし、そっと私の頬を撫でる兄に私は力無く笑みを返す。
やはり兄は知っているのだろうかと思えた。
本来その役目であるはずの私の夫は、ともすれば好都合としてこの状況を傍観するかも知れないと。
――いいや、ダメだ、そんな事にはさせない、私は彼の傍から離れたくない。
どんなに利己的だろうと私欲に塗れたものであろうと、私はただ、彼の傍にいて時折でいいから彼の関心を向けられていたいのだ。
そこに愛がなくともいい、私はもう、彼への愛を消す事など出来ないから。
他所の女性を愛したっていい、だから私の居場所を奪わないで。
「兄様……」
夫は私が何処に出かけようと嫌味を言いこそすれ気にはしないだろうが、内情はどうあれ他所の男と会ったなどと知られては困る。
離縁の理由など、彼に与える気はない。
今日も夫は帰らないかも知れないが、執事に今日の外出の説明だけはお義母様にして貰おうかと思った時だった。
兄や夫と同じくらいの長身だが、それよりは少し体格のいい彼がサロンに姿を見せた事で、言いかけた言葉が喉の奥に引っ込んでしまう。
店内を見渡し私を捕えたその眼光に、私は久しぶりに体を震わせた。
どうしてこうも違うものかと思う、もし夫にこんな目で見られたのだとしても私は嬉々として受け入れるだろう。
大股で進んで来るロバートの気配に気付いたのか、兄が立ち上がって私と彼の間に立ち塞がった。
兄に促され一応腰を落ち着けたものの、彼の目は未だ私を舐め回し突き刺すようにして来る。
向かいに彼を座らせ私の隣に腰を下ろした兄は、静かに切り出した。
「単刀直入に言うが、これ以上ティアに手出しはするな。勿論今後付き纏うのは言語道断だ」
私が聞き慣れぬほどの兄の低い声にも彼は動じなかった、そもそも彼はこうなって以来私の話も兄の言葉も聞き入れようとはしない。
まるで夫から拒絶された後の私の未来の姿のようで空恐ろしくなった。
でも本当に夫が私に嫌悪の目を向ける日が来るとなったら、私は自分の気持ちを断ち切らなければならない、縋りたい居場所から去らねばならない。
愛しているから今は踏み止まれる、けれど夫がそれに嫌悪を持ったら……終わりなんだ。
それともいっそ、私はロバートを畏怖しながら、どこか羨ましいのだろうか。
完全に私の気持ちなど無関係に求め続けられるその欲があれば、私は諦めなくてもいいのではと暗い希望を見出す。
……本当に、なんて女だろう。
父や兄がよく私に向かって言う「美しい」なんて言葉は到底不相応だ。
「ロバート、私も幼い頃から共に過ごしたお前を見切りたくはない。しかしティアファナを泣かせるのは我慢が出来ない」
ああ……兄は理解してくれていた、私が今やどれほど夫に恋をしているかを。
テーブルの下でそっと重ねた手を強く握り返される、とても心強く感じた。
「泣かせる?そんな事はしない。ティア、お前の夫はあのケニスだろう?俺だってあいつの事は聞き及んでいるさ。女にだらしのない最低野郎だ。そんな奴が夫で、お前こそが我慢をしているんだろう。今だって何処の女とよろしくやっているか知れたもんじゃない。俺はティアを救いたいんだよ、愛してるんだ、わかるだろう?」
「ロバート、私は我慢なんてしていないの。私は夫を……ケニスを愛しているわ。私の夫も愛する男性も、この先ケニス以外には有り得ないの。貴方は私にとって今も兄以上にはなれないのよ。お願い、わかって頂戴」
「そう言えと言われているんだろう。あの成り上がりはお前の家名欲しさに幼いお前を攫ったんだ。犯罪だ!少女のお前にあいつはどれだけ好き勝手したんだ?その体をあいつは――」
止めてと張り上げそうになった言葉は、突如テーブルに付かれた手によって遮られた。
憶えている、どれだけそれを見て触れられた回数が少なくとも、感触もその形も何もかもを憶えている。
その手は、私が愛するたった一人の手。
「人の妻に品のない妄想は抱かないで貰おうか」
――ああ、これは夢だろうか?
「……ケニス……ッ」
「ディーン殿、私の妻をおかしな男に引き合わせるのは止めて貰いたいな」
刺すように睨むロバートの視線を物ともせず、ケニスは兄に目を流した。
「五月蝿い。お前が絡むとややこしくなるのは目に見えてる」
「それはそちらの家の事で、俺の知った限りではない」
脳が痺れたかのように震えるのがわかった。
あれほど彼の言動を目の当たりにして来たというのに、そのどれもが今の彼と重ならない。
これほど冷たい目をしてはいなかった、これほど苛立ちを抑えた低い声をしていなかった……。
私が見ていた彼は、一体……何?
「ロバート=ウォルダンだな。これ以上俺の妻におかしなちょっかいを出して来るのなら、俺の名にかけて全力でお相手をしよう。……ディーン殿も承知していて欲しい」
「――……わかった」
顔を赤くしてただ睨むしかないロバートに対し、兄は苦虫を噛み潰したという顔で頷く。
それを目で確認したケニスは何を思ったのか、私の腕を引き立ち上がらせそのまま店を出た。
「夫の居ぬ間に他所の男に会いに行くとは、随分だな?」
彼が乗って来たのだろう馬車に引き摺られるようにして乗り込み、混乱をしていた私の頭上に言葉という冷水が浴びせられる。
制裁は、これから始まるのだろうか。
どうしたらいい?
会話の流れでロバートがどんな関係であるかは知れたはずだ、私の言葉も聞いていたに違いない。
けれど私がどう言おうとも、極端な事実は今彼が述べた通りだ。
私が彼の妻でいたのはたった半年だ、その間共に過ごした時間は全て思い出せるほど少ない、触れられもせず共に夜を過ごした事など眠るのが惜しかったほどもっと少ない。
それでも続けていけたのなら、少しずつ数は多くなると思っていた、そう願っていた。
嫌だ、嫌だ嫌だ嫌だ、まだ終わりにしたくない、もっと傍にいたい、少なくていい多くなくていい――彼の存在を近くで感じたい。
「どうして、泣く?」
言われて泣いていた事に気付いた、これだけ泣いた事が未だ嘗てあっただろうかと自分で驚くほど大粒の涙がぼたぼたと膝に落ちてドレスに染み込んでいく。
「わ、かれたく、ないです……お願い、です……っ……私を、捨てないで……」
言葉にして願う事は出来なかった、そんな言葉自体に嫌悪を持たれたくはなかったから。
けれどこのまま終わってしまうのなら、見っとも無くていいから全てを曝け出して縋り付いてしまいたい。
「――許さない」
掠れた声に、今度こそ私の全身が震えた。
しかしそれを止めるかのように私の体を纏ったのが、彼の腕だと知るには随分時間を要した。
散々急がせた馬車のけたたましい音も聞こえないほど、耳鳴りでもしたかのように俺の耳には何も届いてはいなかった。
これから目の辺りにする事になる情景を思い浮かべては否定し、だが否定し切れず、八つ当たりのように御者をせっつく。
どう冷静に考えようとしても必ずどこかで矛盾が生じ、これだという結論に至らない。
しかし目的地に近くなるにつれ、俺の心は荒れ狂う海のようだったのが嘘のように静まり返った。
どうあっても、俺の結論は、結果はかわらない。
ティアファナを手離す事など出来ない、例えそれが彼女の幸せの為であっても、俺と共に不幸に引き摺り込む事になっても。
知らず自嘲が零れた。
異性相手にこんな事を思った事は一度としてない、一度だって相手と自分の未来など想像だにしなかった。
まして自分自身が幸か不幸かに導くなど、考えた事もない。
泣く顔もどれだけ好きでも彼女を不幸せにしたい訳じゃない、誰より幸福にしてやりたいと思う。
だがそれも、他の誰でもなく俺の手でという前提だ。
彼女が他の男の手を選ぶのなら俺は、彼女の不幸さえ厭わない。
こんな身勝手な男だから、彼女は俺のいない隙を狙って他の男に会いに行ったんだろうか。
けれど大いに見当違いな事だろう、自分に好意も関心もないと思っていた夫は、この世界中の誰より独占欲で身を焦がしているのだから。
そして目的の店に入り何度も頭の中で想像した光景が現実となった瞬間、確かに俺は想像が想像の域を出ないという事を知った。
元より俺は何に対しても衝動的になる事はなく、好きでやって性に合ってると思った仕事でさえも別に捨てても惜しくはないくらいだった。
女性に対してはそれが大きく出た結果だろう、ついでに言うと巻き込まれるのも煩わしくて、相当勘違いした女でない限りその付き合いは精神的に乾き切ったものだった。
けれどどうだ、今俺の理性は焼き切れそうなほど心許無いものとなり、僅かなきっかけで衝動的に何を仕出かすかわからないほど――殺意を感じていた。
気付かれないよう、そっと三人が囲むテーブルに近付けば、聞こえて来る会話からどういった状況かが読み取れる。
何より兄の手前だというのに目の前のティアファナに対し欲望を隠さない男の目に、俺は手を出さないようにしているのがやっとだ。
それを治めたのはティアファナの言葉だった。
この俺が一目見て心を奪われ、過ごす内に完全に骨抜きにされた少女を、わかっていたようでわかってはいなかったのだと思い知らされた。
これほど美しい女を手に入れながら、俺は己の卑しさのあまり、彼女でさえも見誤っていたんだ。
愛さずにはいられなかったと、今確信する。
俺の内なる感情を引き摺り出し醜くも美しくもする、たった一人の女。
本来俺が触れていい存在ではなかったのかも知れない、世間的な事にしても彼女は成人にはまだ間がある子供だし、そもそも俺のように女性に対してお世辞にも素行がいいとは言えなかった男が手を出す相手ではなかっただろう。
けれど法律上という立場を手に入れてすら身勝手に振る舞っていた俺に、彼女は見るに眩しい姿と言葉で俺への愛を示してくれた。
本当にわかっていなかったんだ。
彼女がどれだけ美しいのか、どれだけこんな俺を愛してくれているか。
言い訳をして逃げ続けている男には本当に相応しくないほど。
決めた、俺も覚悟を決めた、至極今更ではあったが。
どんなに俺が苦しもうと辛かろうと欲望と戦い耐える事になろうとも、俺が俺の手で、彼女を幸福にするのだ。
だから、ティアファナ――俺は到底許せない。
お前が離れて行くのを、俺はどうしたって許せやしないんだよ。
「ティアファナ……ティア、泣くな。泣かなくていい」
義兄と胸糞悪いウォルダン家の馬鹿息子から引き剥がすように連れ去って、押し込んだ馬車の中で俺に捨てないでくれと泣く少女を抱き締める。
信じられないだろうな、俺がこんなに情けない男だなんて。
だから俺はずっと隠しておきたかったんだ、気のないフリをして、それでも縋ってくる目が愛しくて、ずっとそうして愛されていたくて。
こんな男だと知れたら、逃げられてしまうと思ったから。
でもわかったんだ、どうしても俺自身が彼女を手放せない事を。
その為に、俺は自分とも向き合わなければいけない事を。
「ケニ、ス……さま」
「いいよ、ケニスでいい。そう呼んでくれ。君は俺の妻なんだから。昔も、この先もずっと、俺の愛する妻は君だけなんだから」
俯いてぽとぽとと涙を落としていた彼女の顔が上げられ、涙に濡れた大きな目が見開いたまま俺を捕えた。
俺はそれに文字通り心臓までを鷲掴みにされたように捕らわれていた。
まるで夢との境目を探す迷子のような揺れる瞳。
俺は堪らなくなって小さな顔を両手で包み、親指でそっと溢れ出る涙を拭った。
確かに彼女はまだ子供という年齢だ、大人びていながらもまだあどけない表情が少女だと訴えている。
突き詰めれば俺もウォルダンの馬鹿息子を言及出来る人間じゃないだろう、そんな彼女を自分の腕だけに閉じ込めて余す所なく触れてしまいたい欲望ははっきりと存在する。
しかしそれと同時にその欲望にも匹敵する思いが溢れ返って渦を巻く。
あれほどまでに自分勝手な悦楽を満足させていた彼女の泣き顔を、笑顔に変えさせたい。
――なんて、愛しい。
「愛しているよ、信じられないかもしれないが……俺にはもう君だけだ。いや、最初から、俺が愛しているのはティアファナ、君だけなんだよ」
ひくりと彼女の喉が鳴った次の瞬間には俺を見上げたままだった瞳からぼろりと大粒の涙が零れ出た、それを合図に彼女がくしゃりと顔を歪めて俺の胸に飛び込んで来る。
俺自身こんなに求めていたのかと驚くほど、俺の体は彼女の華奢な体に吸い付くように重なった。
彼女が眠りに落ちてからそっと抱き締め感じていたものとも違う、俺の中のぽっかり空いたスペースにピタリと収まる充足感。
今とて浅ましく彼女を押し倒してしまいたい衝動に駆られない訳じゃない。
けれど彼女も俺を求め、俺の体に回される腕の強さが、ぬくもりが、これほど満たしてくれるものだと今知った。
本当に俺は今まで何をやっていたのだと、情けない限りだった。
どれだけ浮名を流しても俺は何も知らなかった、何も知ろうとしていなかった。
ティアファナがそれを教えてくれる。
そのぬくもりで、その一途な愛で、その全てで。
「好きです、好き、愛してます。私、ずっと、ケニスの傍にいたいんです。私、ずっとずっと、ケニスの奥さんでいたいです」
俺の首にしがみ付いて泣きながらそう訴える彼女に眩暈がした。
俺はどうしてこんな幸福から逃げ続けて来れたのだろうかと、今更不思議だ。
抱き合う事だけが全てでなく、感じた事もない蕩けそうな快楽という名の幸福が、すぐ目の前にあったのに。
「俺もだ、愛してるよ、愛してる。ずっとだ、逃がしてなんてやらない、俺から離れるなんて許さない。君はずっと俺の妻だ、俺がこの手で幸せにしたいと思う……俺を幸せに出来る、たった一人の人だよ」
馬車の振動にも揺ぎ無く、俺達はそのままずっと隙間がないほど抱き合って口付けを交わした。
家に帰ったとたんティアファナに突進して来た母は涙ながらに家を出て行くなと言い、暫く彼女に宥められ事の顛末を漸く聞き終えたかと思えば容赦なく息子を甲斐性なしと殴り飛ばした。
自分の行いは棚に上げて理不尽だ、……憮然としていたらそんなところも本当によく似ていると彼女に微笑まれ、至極複雑な思いを味わった。
散々夕食だのお茶だのなんだのと彼女からべったりと貼り付いていた母をやっとの思いで引き剥がし、彼女を連れて寝室に戻った俺は覚悟を決めて今までの懺悔をした。
呆れたような彼女の顔に俺は思わず青褪めかけたが、それは妻になるというのに制限を設けた父と兄に対してだったようだ。
しかし俺もティアファナのような娘か妹がいたらと思うと決して否定は出来ない行動で、それについては口を噤む事にしたが。
「あの、呆れてしまわないで下さいね?」
そう何度も俺に念を押して彼女が言う。
「私は、ケニスが抱いて下さるのなら、それを願っていました。……私、もっと貴方と繋がっていたかったんです。言葉を掛けて下さるだけでも嬉しかったけれど、それだけでは……引き止められない気がして。体でも何でも、ケニスが私に少しでも関心を持って下さったらと――」
それを自分から言うような教育を彼女は受けてはいない、そう願う事さえ彼女にとっては酷く戸惑う事だっただろう。
しかしそれでも俺を求めてくれた、その存在全てで俺を繋ぎ止めようと必死に思ってくれていた。
感動するというのはこういう事なのだなと、俺はじんわりと痺れた頭の隅で思う。
義父や義兄の約束事など破る気なら破れた、出来なかったのはひとえに俺自身がこの未だ嘗てない愛情と欲望に恐れを抱いていたからと、彼女を傷付け恐れられるのが怖かったのだ。
美しく強く心優しい愛情豊かな女だ、――俺の負けなど最初から決まっていた。
「愛している、ティアファナ」
言葉にした事もない、意味もわからなかったこの言葉。
頭で理解するものでも経験で積み重ね得るものでもなかった、これは溢れ出る抗えない真実だ。
抱き締めれば精一杯で抱き締め返してくれるこの存在を表す全て。
「でも違ったんですね」
「え?」
ぱっと愛らしい笑顔を俺に向けた彼女を、思わず俺も見詰める。
「私を大事に思って下さったからの事なのに、私ったら……」
「君が気に病む事じゃない。君が望んでくれるのなら俺は――」
今すぐにでも君を抱きたい――続けるはずの言葉は声にならなかった。
「私、成人まで精一杯努力します!」
「……え?」
「ケニスの思いに応えられるよう、私、精一杯努力して貴方に釣り合う女性になってみせます!」
「……いや、ティア……」
「私、絶対に素敵な女性になってみせますから、待っていて下さいね!」
――………………。
「……ケニス?どうしたんですか?そ、そういえばお仕事でお疲れなのに来て下さったんですよねっ……気が付かなくてごめんなさい!今明りを消しますから、ゆっくりお休みになって下さい」
――……………………。
ばたりとベッドに倒れ込んだ俺に甲斐甲斐しくシーツを掛けながらティアファナが部屋の明かりを消して、俺の隣に潜り込む。
ベッドサイドのランプに手を伸ばす間際、俺を振り返り花のように微笑んだ。
「今夜は、もっと傍で寝ても構いませんか?」
俺はそれに答えるようにランプの明りを消した手を彼女に伸ばし、ゆるやかに、しかししっかりと抱き締め胸にその体を収めた。
安堵の、そして温かい息がどちらからともなく零れる。
「愛しています、ケニス。……私の、旦那様」
もし、今俺の顔が彼女に見えていたなら、どんな顔に映っただろうか。
酷く情けなくて、――とても幸せそうな顔に見えているといい。