本編 前編
所謂政略結婚、だから愛などないとわかっているし、それを求めるには分不相応だとも理解している。
けれど私は昔から彼が好きだった。
まだ私が十にも満たない頃、うちで開かれたパーティーで彼に一目で恋に落ちてしまった。
私とは十も離れた彼に一曲でもとダンスを誘う女性が囲んでいて、ただでさえ子供な私はダンスを誘うどころかまだ満足に踊れないほどだった。
きっとそれは今でも変わらない。
私が社交界に出るようになっても、彼にとって私は子供でしかなくて、たった一度ダンスを踊る為にお互いの体に触れたきり。
それも翌日の婚約発表の為だと知った時には泣くに泣けなかった。
彼にとって私はいつまで経っても子供で、そして彼の地位を不動のものにする為の足掛かりに過ぎない。
何より彼は、そんな私の事が煩わしいのだろう。
華やかな容姿に違わず誰に対しても笑顔を向ける彼は、私にいつでも冷たい目しか向けては来ない。
何をしても失敗ばかりの私を子供だと言い、役に立つのは精々ファミリーネームくらいだと言う。
そんなのが妻だと思われては敵わないと、余程の事がない限り私は彼の妻としてパーティーに同席すら許されない。
病気がちだとされている私の代わりには、彼の隣として遜色のない美しい女性が並ぶのだそうだ。
その女性達と過ごすのか、彼は私と数えるほどしか夜を過ごした事はない。
便宜上ベッドは一緒でも――十五になった私は彼の妻となり半年経つというのに、未だ処女だった。
本当に妻とは名ばかりの私。
結婚以前彼は華々しい女性遍歴を持っていた、例え名ばかりの妻であろうと手を出す気はないのだろう。
それとも私はずっとこのままなのかもしれない、彼が誰かと作った子供を精々育てるか……それも出来ないか。
彼の母も、彼と同じく私の顔を見る度にその美しい顔を冷たく歪ませる。
美しい庭をと思い庭を弄れば「野性の猿のよう」と言い、侍女から習った手料理をと思い厨房に立てば「使用人の真似事をするほど暇なのか」と言われた。
けれど私は彼の母――お義母様が嫌いではない、むしろ好きなのだ。
彼が受け継いだその涼やかな目元、そしてそっくりな物言い、何にも動じず凛とした立ち振る舞い――彼が好きで好きで堪らないから、私はお義母様の事がとても好きだった。
それに無視されるよりはずっといいと思っていた、夜会から帰った彼は「ただいま」とも言ってはくれないけれど、それでも何も言葉をかけられないよりは、名ばかりの妻の存在すらも忘れられてしまうよりは、ずっとずっとよかった。
だからもし私がずっとこのままの存在であっても、それでいいと思っていた。
執事や侍女や使用人達は、私が彼やお義母様から何か言われているのを痛ましそうに見て私を気遣ってくれるけれど、それは杞憂なのだと私は何度も繰り返す。
確かに私は美しくもなく、彼の隣に立つには分不相応で、妻としても名前しか役に立たない。
言われる事は変わらないけれど、でもはっきりと言われているお陰で、最初の頃よりは随分マシになって来たと思うのだ。
彼の愛を得られない事はわかっている、それでも私がもっと頑張れば彼の子供を育てられる権利が与えられるような気がした。
追い出されるのは嫌だった、――私は彼と少しでも繋がりを持っていたいから。
「まだ起きていたのか……それは俺に対するあてつけか?」
今夜も遅くに帰って来た彼が窓辺で本を読んでいた私に向かって言った。
それでも早い方だった、遅いとなると翌朝か、翌日の夕飯も過ぎた頃に帰って来る。
今や社交界の内、誰も私の存在など気にする女性はいないだろう、この夫でさえも。
元々私は噂などには疎い方だが、今更耳に入れるでもなくわかっていた。
実際私が少しでも女性として目をかけられる存在だったのなら、彼はもう少しでも早くに帰って来るだろうから。
それに仕事も忙しいだろう、なのに顔を見れば小言を言わずにはいられない女の顔を見に帰って来たくないと思っても道理だ。
だから私は彼が私の顔を少しでも見ずに済むよう、ベッドにはなるべく早くから潜り、彼が帰って来ているとわかっても寝たフリに努めている。
失敗してしまった。
今日は昼間に少し貧血を起こし思ったより長く寝てしまった所為で夜に寝付けなくなってしまったのだ。
お義母様が外出していた時でよかったけれど、使用人の皆には余計な心配をかけてしまった。
早く眠くなるようにとなるべく字数が多い本を読んでいたのだが、それを追うのに夢中になって時間を忘れてしまったらしい。
偶にこうして彼が早く帰って来る時があるので、夜更かしはしないようにしてたのだが……。
「お帰りなさいませ旦那様。違います……その、面白い本だったので、つい夢中になってしまって……。すぐ明りを消しますから」
彼が何かを言う前に私は手元の明りを消してベッドに潜り込んだ。
こうして早く帰って来る時は、何処かに寄る余力もないほど疲れている時なのだと理解している。
あまり私の顔を長く見させて態々余計に疲れさせる訳にはいかなかった。
案の定彼はそれ以上何も言わずベッドに入り、いつものように私に背を向けて寝転がる。
ほんのりと香る、うちのものとは違う石鹸の香りに寂しさが募った。
正直に言えば私は彼の皮肉のような言葉も嫌いではない、無視されるより嬉しかったし、意地悪な……まるで残酷な子供のようなその顔も好きだったから。
それにその顔は、普段優しく大人びた色気を含む彼の笑顔とは違い、私だけに向けられるものだと思ったから。
きっと誰もそんな顔を見たくないと思っていたとしても、私が唯一独占出来る彼のものだったから――。
身動ぎもせず寝息を立てる彼の背中を横目で見て、私もいつしかうとうととしながら眠りに就いていた。
近く遠いこの距離のままでいい、彼がもう二度と帰って来なくなる事などないように、私の前から消えてしまう事などないように、……そう祈りながら。
翌朝早くから仕事に出かけた彼は珍しく私に皮肉も小言もなく「行って来る」としか言わないまま出て行った。
やはり仕事が忙しいのだろうか。
私はふと昨夜彼の体から漂った香りを思い出して、ふと息をつきながら庭に出た。
彼と結婚してから彼が家でシャワーを浴びるのを見た事がない、年の離れた兄も仕事場は喫煙者が多く煙草の匂いを持ち帰るのが嫌だからと職場にあるシャワーを使用していたのは知っているが、まさか彼もそうだとは流石に思わない。
他所の女性の所でも、そこにどうあれ寄って来れるだけの余力があるのならまだいいかと思えた。
私が何か言葉をかけたところで「君のような子供に心配されるほど、俺は仕事が出来ていないと言いたい訳か」と言われてしまうので、言葉にして体調を気遣う事すら出来ない。
精々私はこうして少しでも家を整え、祈る事しか出来ないのだ。
彼の言葉すら聞けず寂しいと思う反面、それほどまでに疲れてしまっているのなら帰らなくてもいいからとさえ思ってしまう。
例え彼が他の誰かを愛していたのだとしても、時折でも顔を見せ、何でもいいから言葉をかけてくれるのなら私はそれでいい。
でもいつか、疲れている彼に対してこうして何も出来ない私から、彼が消えてしまうような気がしてならなかった。
「まあ、今日も庭弄り?夫が仕事で忙しくしているというのに、お前ときたらまるで夫に野良仕事をさせられているとでも言いたようですわね」
芽吹いた植物を植え替え終わった私はかけられた声にはっと顔を上げて手に付いた泥を払った。
「申し訳御座いません」
けれど私に出来る事はこのくらいしか思い浮かばなかったし、私は花が好きだった。
父や兄からも淑女として庭弄りなどは止めなさいと言われて来たが、幼くして亡くなった母の為に彼女の好きだった花を季節毎植えるのが私の楽しみでもある。
そして癖のようなものだった。
「それとも何かしら、お前はうちで雇っている庭師の仕事が気に入らないと?」
「そんな事は……っ」
ここで雇われている庭師の仕事は素晴らしいものだった、それに私が母の為に植えているのだと言った花の他の種類を知人から譲り受けて来てくれたり、沢山の花が咲くように色んな知識も披露してくれて、私は彼がとても好きだった。
そんな彼を私の為に侮辱される訳にはいかない。
首を振った私に、お義母様は片眉を上げて私を見る。
その様が彼に本当によく似ていて、私は思わず見惚れそうにさえなった。
「大奥様!その辺りは昨日肥料を蒔いた所です、大奥様の靴が汚れてしまいます!さあ、こちらへ!」
私がそれ以上言葉も紡げなくなっていると、反対側の花壇の植え替えをしていた庭師が飛んで来てお義母様を庭から連れ出してくれた。
一瞬振り返って心配そうに私を見る庭師に大丈夫と笑って見せてから、けれどお義母様に見付かってしまった今日はこれ以上庭弄りも出来ないと途方に暮れてしまった。
確かに今時の貴族は使用人達に任せるのが一般的で、私の家――昔ながらの貴族のように自らが庭の手入れをしたり食事の用意をするなどはない。
……といっても、私の家はとにかく古過ぎるのだ。
しかしその家名故に彼と結婚出来たのだから、私に不満は何もない。
今の貴族女性はパーティーに出たり、家に友人を招いてお喋りをするのが常らしいが、病気がちという事になっている私がそんな事を出来る訳もなく……とにかく他にする事がない。
流石に好きだったピアノも毎日となっては飽きてしまい、それに曲が終わるとお義母様が「どうしてもっと静かに過ごせないの」と暗に五月蝿かったと告げに来る。
最近はお義母様の目を盗んで庭弄りか簡単に出来るお菓子作り、そして読書か刺繍。
好きだと思っていたはずの読書も刺繍も、こう毎日ではやっぱり飽きてしまった。
それに本来私は体を動かす方が好きだし性に合っていると思う。
しかし今日も大人しくじっとしているしかないかと、私は重い足取りで家に戻り始めた。
すると玄関先で丁度郵便配達人を帰らせたばかりの執事と出くわした。
私を見るなり心配そうな顔付きになったところを見ると、さっきの遣り取りを聞かれていたらしい。
そうでなくともこの家の使用人達も大体私を見れば心配そうな顔付きになるのだが。
……幾ら杞憂だと言っても聞いては貰えない。
彼らは私がいつ出て行ってしまうのではないかと心配しているようだが、追い出される事はあっても私が出て行く事は有り得ない。
追い出されないようにと、頑張っているのに。
「奥様、お手紙が届いております」
「ありがとう」
差し出された手紙を受け取り、思わず出そうになった溜息を噛み殺した。
私が幼い頃に母がなくなった所為か、父と兄は異常に過保護なのだ。
この結婚にも散々反対して私がどうしてもと頼み込んでやっと了承を貰ったくらいだ。
以来週に一度はこうして手紙を寄越す、顔を見せに帰って来いという催促なのはわかっている。
けれど私は結婚して一度も実家に帰った事はなかった。
父と兄の顔を見たいとは思うのだが、毎日とは言えず少ししか会えない彼との機会を少しでも逃したくない。
しかし私の結婚生活ぶりを噂で二人も聞き及んでいるのだろう、最近は特に内容が重複した挙句数枚にも渡っている。
申し訳ないながらも今日は随分薄いなと思い、自室に戻って手紙の封を切った。
けれど私が帰らないでいられるのもこうして週に一度は兄の几帳面な字を見る事が出来るからだとも思う。
ふと笑みを零しながら手紙の内容を追った私の目は、徐々に見開かれた。
実家から連れて来た侍女を慌てて呼び、掻い摘んで手紙の内容を話すと私と同じく侍女の顔がさっと青くなる。
「とにかく私、行って来るわ」
「ティアファナ様、私も参りますっ」
「そ、そうね、来てくれると嬉しいわ。でもなんと言ったものかしら……まさかこんな事を話す訳にも……」
「そうですね、知られたらそれこそ何を言われるかわかったものじゃないです。どうせ不貞などと言い出して離婚を――」
その言葉に私は思わず息を飲んだ。
「あ、い、いえ!……大丈夫ですよティアファナ様。とりあえずこの事は内密に。ディーン様もご一緒なのでしょう?でしたら大事にはならないかと思いますし」
「ええ。……馬車の準備をお願い」
「わかりました、お任せ下さい」
出て行った侍女を見送りながら、私は力の抜けるままソファに座り込んだ。
「……こんな事が知れたら、……彼はきっと離婚と言うでしょうね……」
例えそうでなくとも、もう二度と言葉をかける事もなくなるかもしれない。
今度は言葉だけでなく、軽蔑や侮蔑の眼差しを向けて来るに違いない。
妻として名前だけの役に立たない子供どころか、最低な人間として見られるに違いない。
――彼はきっと、名ばかりであっても妻の浮気を許さない。
私は重い溜息を吐き出し、馬車の用意が出来たという言葉に従って重い腰を上げた。
世に言う政略結婚で俺は十五になったばかりの妻を手に入れた。
結婚できる年とはいえ、成人まで後三年もある。
けれど早い内に手を打たねばならなかった、それだけ彼女の背負う家名は絶大なものだ。
特に成り上がり貴族と呼ばれるうちのような家には喉から手が出るほど欲しいもの。
そうでなくとも王家直属の古の家名となれば、狙う者は引く手数多だ。
だから多少卑怯な手と言われても、俺は手段を選ばなかった。
一人娘である彼女を早くに手放すのを散々渋られたが、こちらの条件に向こうも折れ、そうして俺は婚約発表をした週末には挙式をするという異例のスピード結婚をした。
ぐずついている間に他の連中に手垢を付けられたのでは堪ったものじゃない。
幼くして母を亡くした彼女は父と兄に溺愛され、社交界デビューを果たしても滅多にダンス一つ許されず、男に免疫がないのは一目瞭然だった。
そんな彼女を丸め込むなど場に慣れた男なら容易いものだっただろう。
実際碌に話した事もなく、一度ダンスを踊ったきりの男の申し込みを、最終的に彼女自身も受け入れた。
尤もどれだけ父や兄が反対しようと彼女が嫌がろうと、断り切れぬ条件を提示したのはこちらだが。
しかしその一度きりのダンスで、すでに彼女が俺に傾倒した事は見て取れた。
だからこそ翌日には婚約発表をするという強気にも出られたのだ。
世間知らずな少女が、容姿もさる事ながら場慣れしている俺に好意を抱くのも無理はないだろう、無駄に女遊びをしていた甲斐もあったという訳だ。
結婚後も彼女は一途に俺を愛している、どれほど酷い皮肉を受けようが、幼くして妻に娶った少女は他を知らないとばかりに。
――無論、それが狙いだったのもある。
可愛くて、手に入れたくて、欲して仕方がなかった。
初めて見たのは彼女の家の夜会での事だった、まだ出席も許されないほど幼かった彼女がちらりと顔を覗かせ、それを見た瞬間から俺は今もそんな思いに囚われ続けている。
勿論困惑したし何度となく自問もした、それまで女という女を渡り歩いて来たはずの俺が、十にも満たない少女に一瞬で囚われてしまったなどと容易に認められるはずもない。
しかし彼女を見かける度、そしてデビューを果たし日に日に美しくなっていくかという彼女を目にし続けた結果、……葛藤などどうでもよくなった。
あの無垢な存在を手に入れたい、そして自分だけが彼女を意のままにし、触れる権利を得たい。
彼女が結婚出来る年まで待ったのは、俺に残った最後の理性だっただろう。
結婚をし俺の妻となった彼女が、俺の一挙一動に一喜一憂する様は快感と言ってよかった。
それまで女性にはそれなりに愛想がよかったと思っていた俺が実はサディストだったのだと、彼女によってしらしめられた気がする。
または、彼女が俺をそうさせるのか。
とにかく何を言われても一途に俺を慕う彼女の姿は可愛かった、泣きそうになりながらも寸ででそれを堪える姿などは絵画に収めたいほど絶品だ。
正直彼女の年など俺の腹が決まった時点で無関係だった、しかし渋々といった体で結婚を承諾した彼女の父と兄が「成人するまで手を出さない事」などという条件を付けて来た為に、こちらも苦汁の思いで我慢をする羽目に至っている。
しかし夜に営まない事は彼女の不安を煽るらしく、寝ている間無意識に擦り寄って来る彼女を見る事が出来るので多少の溜飲は下げられた。
甘やかしたいと思わない訳でもない、むしろする気ならどこまでも際限なく俺は彼女を甘やかすだろう。
けれどそれは本来の意味で彼女が俺のものになってからの楽しみとして取っておく事にした。
今はまだ泣くのを堪えながらもそんな視線を俺に向ける彼女を楽しみたい。
急がずともいい、彼女が俺から離れる事などないのだから。
全く、あの溺愛親父と兄貴の事は言えない。
余計な知識を与えたくなくて、雛鳥のような彼女を自分の懐にだけしまっておきたくて、俺も彼女をパーティーの類からは殆ど遠ざけている。
もっと、ずっと、そのままで、――俺だけを一途に愛していればいい。
彼女に出会ってから他の女とは二人きりで会う事さえしていなかったが、それすらいっそ清々しく感じる。
仕事で家を空けている親父に偶に会うとその事で散々からかわれても、もう他の女の匂いさえ煩わしくなった。
欲望を霧散させる為にその分を仕事に打ち込むようになった、家でシャワーなどは以ての外だ、彼女が使う場所かと思うと寝てる間にも我慢が出来そうにない。
それに今の内にある程度の基盤を固めておけば、彼女が成人する頃には充分に時間が取れるようになるだろう。
そうなったら新居を探して思う存分二人でいられる。
俺がそっくりそのまま性格を引き継いだような母親からは文句を言われるかもしれないが……。
母はとにかく彼女がお気に入りだ、美しい容姿もさながら、今時の貴族女性には珍しい気質で、あちこちに出ては嫁自慢をしまくっている。
しかしながら俺とそっくりなので、彼女を虐めて泣きそうな顔を見るのも好きという、我が母ながら厄介な性格だった。
彼女はそんな母に対しても尊敬の念を抱いているようで、そこがまた母を助長させているのだと思う。
……俺が言うのもなんだが。
それでも俺が仕事に出ている間は彼女を母に監視……いや、見守って貰っている立場だ、文句は言わないのが得策だろう。
使用人達などは俺が帰る度、異口同音「奥様虐めはお止め下さい」と言う。
あれだけ愛らしい彼女の姿を見て胸を痛ませる人間の方が普通だろう、……俺と同じような意見を母以外に抱く人間がいたら即刻解雇だ。
勿論彼らは俺達がやっているのは愛故であるとわかっている、例外は彼女が実家から連れて来た侍女くらいで、その侍女には本気で恨まれているというか憎まれているだろうが。
しかし俺から言わせれば、手を出す事を禁じられている状態で甘やかしたらそれこそ手を出さずにいるなど不可能だ。
ドロドロに甘やかして、そして融け切ってしまうのは俺自身だろうと思う。
「なんだ、溜息なんかついて、この新婚が。幸せの溜息ってか?」
じろりと同僚を睨むと肩を竦めて愛想笑いが返る。
「まあ折角の新婚なのにこう忙しくちゃ溜息も出るよな。お前だって可愛い可愛い奥さんが待つ家に毎日帰りたいだろうに」
俺が自分から仕事を更に買って出てるとも知らぬ口調で言う。
彼女の何を知って可愛いなどと抜かすか、腹の立つ。
「奥さんまだ十五だよな?つーかほぼ犯罪だろ、幾ら結婚出来る年っつってもさ。今時王族でさえ早期結婚なんざやらんぜ?そりゃあの家名は魅力的だけど、お前んちだって困ってる訳でもないくせに。よっぽど可愛いんだろうなあ?女渡りのお前が結婚したとたんお誘い一つ頷かなくなって。パーティーじゃ本気で添え物状態の女が泣き喚こうが、当の色男は現地解散ときた。あれだろ?奥さんをパーティーに出さないのは病弱じゃなくて監禁よろしくやってるからだろって、専らの噂」
ニヤニヤと言い放つ同僚の頭に平手を飛ばしても効果はないようだ。
そういえば大分前にまだデビュー前だった彼女が成人したら狙ってみようかなどと言っていたのを思い出す。
……殺すか。
「見た事もないくせによく言うな」
溺愛親父が手を回していたのか、彼女が出ていた場は少なかった上に相当の人選がされていた。
俺が呼ばれていたのは当時勢力を付けて来ていた家と、女に困らなかった俺自身が子供を相手にはしないと思ったからだろう――とんだ誤算だろうな。
「だから噂じゃ聞き及んでるよ。月の女神って渾名されてるの、知ってるか?」
「なんだそれは」
「儚くも美しく愛らしい美貌に加えて、閣下やお前が雲みたいに彼女の姿を隠しちまって、その姿は滅多に拝めない月のようだから、だと」
まあ、言い得て妙だなと思った。
確かに彼女はあれでまだ十代の半ばかと思うほど美しい、今はまだ年相応の愛らしさが目立つが、成人を迎える頃には傾国の美女となっていてもおかしくはないだろう。
しかし、と俺は不意に笑みを零す。
本当に俺が雲なのなら、それこそ彼女を包んで何者の目にも触れさせないように出来るだろうに。
彼女が完全に眠りに落ちたのを見計らってから漸く細く柔らかな体を抱く腕を、日に日に俺は解くのが難しくなっていると感じる。
いっその事、義父や義兄との約束など破り捨ててしまおうか。
彼女の愛する二人からも引き離して、彼女の放つ光を俺だけが独占出来るようにしてしまいたい。
まだ半年、あと二年半――これほど自分に忍耐がないとは思わなかった。
いや、半年もっている今、多大な忍耐力だと自分を褒めるべきか。
「――失礼します。速達が届いています」
突如した執務室にノックに返答すれば、配達人は終業時間ギリギリでやって来たのか、確認印を確かめもせず慌しく帰って行った。
俺に届けられた手紙の主の名に、俺は知らず眉を寄せて引出しからペーパーナイフを取り出す。
「どうした?」
俺の様子を奇妙に思ったのだろう、訝しげな目を向けた同僚に何も言わず、俺は一枚きりの手紙に目を走らせ――すぐさま立ち上がった。
「おい?」
「――悪い、今日はここまでだ」
「何だ?何かあったのか?」
「…………妻に何かあったらしい」
俺はそれだけを言い捨てて、仕事場を後に馬車に飛び乗った。
「ティアファナが家を出て男の元へ行った。至急帰宅されたし」――それだけが書かれた手紙がぐしゃりと俺の手の中で歪む。
有り得ない――そう思った。
ティアファナの性格や身辺は結婚前にもある程度調べていたし、そして結婚後も確認した。
とにかく溺愛され隔離されて育ったような彼女は家を行き来する同年の男友達ですらいなかったようだし、結婚してからも手紙を寄越して来るのは専ら鬱陶しい義父か義兄と、あとは数人の女友達だけだったはずだ。
家を出てまで会いに行くような男と知り合う機会も今は俺自身が潰している。
有り得ない、……有り得ない、はずだ。
可能性はない訳じゃない、女友達を通じて暗号を送れば――しかし彼女がそんな事までするだろうかとすぐさま否定する。
例えば恋い慕う男がいたとして、夫の目をそうして欺く事を由とする彼女ではない。
まさしく蝶よ花よと育てられたティアファナはしかし我侭どころか貞淑で、一度信頼した者に対しては何処までもその信頼を貫き通し、他人を欺く事など決してないと言える。
仮に俺への愛がなかろうと、自分の夫という立場に対しても自分が人の妻であるという事に対しても相応の信頼と敬意を払う。
15にしてそれでは頭の下がる思いだが、とにかく彼女は神に仕える聖女のようだ。
けれど、けれど――。
恋は人を狂わせる、確かに人である彼女とてそうだ、俺のように泥臭い欲望をその身に宿さないなどとは言えない。
どこまでも利己的で彼女の一途な思いを手の平で弄んでいるような俺など、彼女がそんな恋をしてしまえば風前の灯もいいところだ、比較にもならず俺は即座に切り捨てられる。
俺は無意識に額に手を当て重苦しい溜息を吐いた。
愛されていると傲慢になり、彼女を見縊っていたつけが来たのか。
いや違う、俺は何度となく繰り返した。
ティアファナは俺を愛している、俺だけを愛している。
そう思っても、今まで楽しんですら見て来たはずの彼女の泣きそうに潤んだ瞳が、今は俺を責めるかのように脳裏に映る。
まだ幼い彼女に優しい言葉一つかけてやらず、散々放っておいて、今更引き止める権利があるとでも思うのかと――。
「ああ!帰って来たのね!遅いわ、遅過ぎるわよ!」
「母上、小言は後に。一体何があったんです?彼女は何処へ?」
家に帰るなり飛び込むように俺の前に出て来た母を諌め、俺は矢継ぎ早に問うた。
すると俺に似た顔をさっと青褪めさせ細い眉根を寄せる。
「私、聞いてしまったのよ。あの子が侍女と話している所を。あの子の兄から手紙が来たらしいの、その後よ、不貞がどうの離婚がどうのって!きっとあの子の兄が手引きしたに違いないわ、場所はわからなかったけれど、兄も一緒だとか話していたのよ。ああ、ああ、ケニー!止めて頂戴、今すぐあの子を連れて帰って!」
徐々に母の言葉は悲鳴となって、それを聞き付けた侍女達が慌てて駆け出して来て母を奥へと連れて行く。
不貞?離婚?ティアファナが?
強く否定していた思いは今、細く心許無いものとなって俺の中でグラグラと揺れた。
確かに義兄は最初から義父以上に俺の素行を知って毛嫌いしていた、最後までしぶとく反対していたのも義兄だった。
彼女が不貞を働く事など俄かには信じ難いが、俺と離縁させる名目でならティアファナと誰かを引き合わせる事を義兄なら企めるかも知れない。
執事長を呼び彼女が使った馬車の行方を調べさせるよう命じてからも、俺は椅子に腰を落ち着ける事も出来ずその場に佇んだ。
俺がそう思いたいだけなのかも知れない、彼女は俺を愛し俺から離れる事はないと俺自身が信じ込みたいだけなのかも知れない。
彼女は突き放してばかりの俺でなく、他の優しい男の手を取る事を選んだのかも知れない。
「――許さない」
奥歯を噛んだ口から零れ出たのは最早言葉ではなく、呪いの呪文のような、酷く潰れた音だった。
今更手離せる訳がない、彼女がどんなに嫌がっても泣き叫んでも、――手を離せば生きて行けないのは俺の方だ。
どんな事をしても愛されて傍に居て貰えると試しては安心していた。
子供だったのは、俺の方なんだ。