番外編1-LAST
一瞬唇を結んだティアファナはそれを震わせ、すっと立ち上がるなり叫んだ。
「私、もう駄目です!」
そう言ったかと思うと今度はくるりと俺の方を向いて、そのまま突進して来た。
あまりに予想外の事に思わずそのまま倒れそうになったが、テーブルの端を掴んでなんとか堪える。
ティアファナが軽くてよかった。
いやそれより、なんだこの状況は。
「ケニス!これはもしかしてケニスが作って下さったのではないですか!?」
俺の胸から顔を上げた彼女は半ば涙目で俺を見上げそう言う。
気圧されるまま俺が頷くと、ティアファナの名を咎めるように呼んだ母の声など聞こえてもいない風で、そのまま顔をピンク色に染めたかと思うとじわじわと目のふちにある涙が丸く盛り上がった。
「ど、どうして泣くんだ!?……気に入らなかったか?」
彼女の目元を指で拭いながら、魂が抜けかける思いで尋ねた。
泣くほどがっかりするとは思わなかった、しかもさっきの言葉だともう彼女は俺にすっかり愛想を尽かしたみたいじゃないか。
今となっても彼女が俺の何が気に入らなくなったのかわからない、わからないような男だから見限られたのかとも思う。
それでも、君が愛しいと言ったなら、……もう君は笑ってはくれないのだろうか。
「ティア、泣かないでくれ。悪かった」
「そんな……悪いのは私です」
「そんな事はない。気付こうとしなかった俺が馬鹿だったんだ。今日料理をしていて、いつも君が如何に俺の事を考えて手間を掛けてくれていたか知った。出された物を当たり前のように思って、そんな事すら考えようとしていなかった」
次々溢れて来る彼女の涙を追いかけて拭う。
今更気付いたところでもう遅いかもしれないが、それでも伝えたい。
「いつもありがとう、ティアファナ」
「うううぅっ」
まるで子犬のような鳴き声を上げたティアファナは俺にしがみ付いて胸に顔を埋める。
きっと彼女は今までも辛かったに違いない。
どこまでも優しいから、俺に伝える事も出来ず一人でまた悩んでいたんだ。
どうしてもっと彼女の一挙一動に意味があると思えなかったんだろう。
失くしたくないと思っていながら、どうしてそんな些細な事を怠ったんだろう。
後悔は尽きない。
だから悪いのは彼女ではなく、この俺なんだ。
「ティア、頼むから泣かないでくれ。俺は君を喜ばせたかった、君の笑顔が見たかった」
「ケニス……」
「君には到底及ばないけれど、俺一人で作ったんだ」
そう言ったとたん、彼女は泣き止むどころか声を上げて泣き出してしまった。
彼女の顔を胸に押し付けて抱き締め、あやすように体を揺すろうとも胸が張り裂けそうな啜り泣きが聞こえる。
一体どれだけ我慢させていたのか、俺には想像もつかない。
呆気にとられている母に断りを入れてティアファナを抱き上げると、そのまま退室し寝室へと向かった。
俺の胸にしがみ付いたままの彼女をベッドに下ろしても顔を上げようとはせず泣き声も止まない。
俺は途方に暮れながらも彼女を膝の上に抱いて、頭や背を撫でながらそのままでいた。
こうしていると俺の気付かなかった罪が思い知らされるようだ。
まだ十代半ばの彼女に俺は一体何をやっていたんだ。
大人の男としてあるべきなら、俺こそが彼女に気取られないように察するべきだと言うのに。
暫くの間彼女の涙を拭い続け、お互いの額を重ねて彼女の赤くなった目元と鼻を覗き込む。
やっと彼女の涙は尽きたようだったが、すんすんと時折赤い鼻を鳴らしていた。
「ご、ごめんなさい。私、泣いたりなんかして……」
「いや、いいんだ、泣きたい時は泣いていい」
我慢などされるより、他の男の前で泣かれるよりは余程いい。
ただ胸が痛い、同時に酷く情けなくなる。
ティアファナがこんな風に声を上げて泣くなんて初めての事だ、こんな風に泣くとも知らなかった。
知った気になっていて、まだまだ何も俺は知らない。
それはどこかでやはり驕りにも似た安堵を感じていたに違いない。
彼女は俺の妻だから、彼女は俺を愛してくれているから――そんな言葉で本質を見ようとしていなかったんだ。
料理一つにしたって同じだ、どんな材料を使いどんな調理法をしどんな味付けをするかまるで知らなかった。
まだ涙の跡が痛々しく残る頬を両手で挟むと、拒まれない事にほっとする。
髪と同じ色の長い睫毛が揺れて瞳に掛かる度、空から差す光のように見えた。
「へ、変な顔をしていませんか?」
「ちっとも。君の泣いた顔も怒った顔も好きだ。君の全てが好きだよ」
そう言うとティアファナはまたくしゃりと顔を歪めて泣きそうになる。
「俺が作った物だとよくわかったね?」
どうにか涙を止まらせようと、額を擽るように擦って言う。
すると彼女は躊躇うように視線を俺の手へと滑らせ、それを追った俺は思わず肩を落とした。
しまった、慌てていてすっかり手袋をするのを忘れていた。
ティアファナが帰って来た時に俺を見ていたのはこの包帯だらけの手の所為だったのか。
大丈夫だと言おうとする前に彼女は俺の両手に手を重ねる。
そして包帯の上から優しげに撫でた。
「大変だったでしょう?」
「まあ、多少はね。慣れていないから。大した事はないんだ、ちょっとした切り傷だから」
実際今の今まですっかり忘れていた。
おまけに彼女の手が触れた傍から痛みなど癒えたように消えて行く。
ああ確かに、何事も気の持ちようだと思う。
「お蔭で君の苦労もどんなに俺の事を考えていてくれたかも知る事が出来た。味は足元にも及ばないと思うが、作っている間ずっと君の事を考えていたよ」
すんとまた一つ鼻を鳴らしたティアファナが愛しくて仕方がない。
こうしていたって彼女の何もかもが理解出来る訳じゃない、だから知りたいと思うのなら常にどんな事にも理由があると考える事だ。
きっとティアファナは俺を傷つけようなどと思って俺を避けていたのではないだろう。
「ティア」
意を決して尋ねてみようとしたところで、控えめなノックが響く。
「旦那様、こちらにお食事をお持ち致しました」
セバスチャンに返答をするとティアファナが俺の膝の上から退いてしまったのは残念だが、彼女の興味が持って来られた料理に注がれているようで高揚感が湧き上がる。
期待とそれから不安と、まるで少年の頃に戻ったように胸が高鳴った。
「では、失礼致します」
使用人と共に支度を終えたセバスチャンが退室すると、ベッドの上に置かれたシチューとケーキを前にティアファナはじっと視線を注いだ。
見栄えははっきり言って良くはない、味もティアファナやコックの作る物に比べたら……否比べ物にもならないだろう。
それでも、少しでも、彼女の笑顔が俺に向けられたならと思う。
「ティア、食べられるかい?無理しなくてもいいよ」
「い、いいえっ、頂きます」
しゃんと背筋を伸ばした彼女はベッドの上でも律儀に座り直し、そっと銀色のスプーンを手に取った。
ああ本当に心臓が胸から突き出て来そうなほど緊張する。
今までこんな事はちっともなかった、花や宝石や本や服をプレゼントしてもここまで期待と不安と緊張が高まった事などない。
美味しいと言って貰えるだろうか、彼女は笑ってくれるだろうか。
そんな思いでシチューを乗せたスプーンを口に運ぶ彼女を見守った。
「あ……」
「食べられない時は本当に無理しなくてもいいんだよ」
「違いますっ。凄く美味しいです」
振り返った彼女は一週間ぶりに俺を見て笑った。
――笑って、くれた。
「ケニス?」
「い、いや、その……本当に?」
ティアファナは微笑んで頷き、俺の分のスープ皿を差し出す。
恐る恐ると俺もスプーンを手に取ってシチューを一口分口に運んだ。
勿論自分なりに味見はしたつもりだ、成功とも言えなかったが失敗とも言えない凡庸な味だと思った。
そのはずなのにどうしてか、この温め直されただろうシチューが違った味に感じる。
「お野菜の味がよく出ています。それに、私が好きな味……」
そう今までの経験からしてティアファナは辛い物はまだ平気だが塩気が少し苦手だ、だから塩の量を少し抑えてみた。
しかし本当にこんな味だっただろうか?まさか俺がいない間に手が加えられたんじゃないだろうな?
「美味しいです。凄く、嬉しいです。ありがとうございます、ケニス」
また泣きそうになりながらも顔中を笑顔にさせて言うティアファナ。
そうか、きっと違う味に思えるのは、彼女がこうして一緒にいて微笑んでくれるからだ。
彼女がそう言ってくれるから、悪くないと思えてしまう。
「ティアファナ」
ケーキにも手を伸ばし同じように何度も笑顔で繰り返してくれる彼女を強く抱き締める。
手放したくない、ずっと俺の傍にいて欲しい、そうある事を彼女自身にも願って欲しい。
「ケニス?」
「ずっと、俺を避けていただろう?」
なるべく責めた口調にならないようにと思っていたが、不安で声が震えた。
今だけでも逃がさないようにと、ぬくもりを抱き締める腕に力が篭る。
するとティアファナは首を傾げるようにして俺を振り返った。
「私、ケニスの事をもっと知りたかったんです」
予想外の言葉に今度はこちらが首を傾げてしまう。
俺を知りたかった?
「そうなんです、ケニスが何を思って考えているのか、もっと理解したかったんです」
「君は充分に理解してくれているよ」
そうであったからこそ俺は気付く事も出来なかった、あまりに自然であまりに深い事だったから。
今思えば彼女が作る料理一つにしてもコック長の言っていた通り、確かに彼女は俺の日頃の体調まで気を配って味を変えていたのがわかる。
どんな料理であっても俺が少しでも塩気が多過ぎるとか甘過ぎるとか、そういったものを感じた事がなかったからだ。
「いいえ。もっと、もっと知りたいんです」
腕の中で体を捩った彼女は俺の目を真っ直ぐに見詰めて言う。
ああ、これは……。
「俺を、愛してくれている?今も変わらず」
「変わった事などありません。あ、でも、毎日思うんです。昨日より今朝より、貴方が好きだなあって」
少女特有のあどけなさでそう言って微笑む彼女の額に再び擦り寄る。
愛しさと安堵が一度に襲って来て、堪らない気持ちになった。
「俺もそう思う。気付かない時もあるくらいに、きっと当たり前のようにそう思っていた。けれど俺がそんな風に君の事を当然のように思っていたから、君を傷つけていたんじゃないかと思っていたんだ」
「そ、そんな事ありません!」
ぱっと顔を上げてふるふると彼女が首を振ると、さらさらと艶やかな髪が波打つ。
「違うんです。その、どうしたらもっとケニスの事を理解出来るようになるか考えていて。……あ、今日の香水は如何ですか?オーレリア様にお薦め頂いて、先日購入した物なんです」
オーレリアと言うと、ガイラーの姉か。
という事は……?
「この前ガイラーと出掛けていたのはこれを買う為だったのかい?」
「そうなんです。特別な花を使っているとかで、この季節に数量も限定でしか購入出来ない物なんだそうですよ」
「いい香りだが……」
「お気に召しませんでしたか?」
「そうじゃない。君によく似合っている、ガイラーの姉の目利きは確かだな」
ぱっと笑顔になったティアファナが大きく頷いた。
「オーレリア様はとても素敵なご淑女ですから、私、どうしたらそのようになれますかとご相談申し上げてしまったのです」
「そう急く事はないと言っただろう、君は今でも充分素敵な淑女だよ」
すると彼女は拗ねたように少し唇を尖らせ……俺はそこへ触れたくなるのを必死で堪える。
「何かしていたいんです。日々の努力さえ怠らなければ、……ケニスがいずれがっかりしてしまう事もないのではないかと……」
「まさか。そんな事はあり得ない」
「先の事は誰もわかりません。それに今のケニスも、今しか見ていられません。だから、今の私も一番いい私として記憶に残して頂きたいんです」
眩暈がする、動悸も激しい、きっとこれは重症な病だ、恐らく一生治る事のない――。
「ティアファナ」
「はい、何でしょう?」
「キスをしてもいいだろうか?と言うか、……するよ」
え、と言葉を発する前に素早く唇を押し付けて、この一週間触れる事さえ叶わなかったぬくもりと柔らかい感触を味わう。
下唇の特にふんわりとしたところを食むと、実際味覚など感じないのに砂糖菓子のような甘さを覚えるから不思議だ。
このまま嘗めたら融けてしまいそうだ、いっそそうしてしまいたくなる。
何度も触れては離し、けれどすぐにまた引き寄せられるようにして唇を重ねる。
本当にいつ感じても奇妙な感覚だった。
歯を立てて乱暴に噛み付いてしまい衝動もありながら、それを蕩けるほどの愛しさが包む。
呼吸するタイミングを少し見失ったのか、口を開けて息をしようとしたそれさえも奪って覆い尽くした。
「ケニ、ス」
「ゆっくり呼吸して」
もっと深くまで探りたいのを必死で堪えやっとの思いで唇を離し、喘ぐように息をつくティアファナを胸に抱き寄せて背を撫でる。
細い背中が上下して漸く落ち着いた様子を見せると、俺はもう一度だけ彼女の唇に音を立てて吸い付いた。
「ガイラーの姉に何か言われて俺を避けていた?しかし先週からだったはずだね?」
「そうじゃ、ないんで、す。私、先週、お義母様にご相談を申し上げたのです」
――……何?
「お義母様は一番よくケニスの事をご存知ですから」
それはそうかもしれない、が。
「そうしたらお義母様は、ケニスの立場になって考えてみなさいと仰られて」
はい?
「それでお義母様が仰るには、結婚始めのケニスの言動をよく思い出し、それに倣って自分も実行に移してみると良いと」
「……わかった」
ある意味よくわかった、むしろわかりたくはなかった事まで存分に理解した。
つまり母は夫が仕事で帰れないのを逆恨みし、暇潰しよろしく息子夫婦で遊んでいたに違いない。
まさに敵は己の懐にあったという訳だな。
こうなったら一刻も早く父が帰って来れるよう手筈を整えなければならない。
「でも一週間が限界でした。やっぱり私はケニスのように大人の振る舞いは出来ないみたいです」
「大人の振る舞い?」
「はい。ケニスはあの時も私の事を考えて耐えて下さっていたのに、私は数日しか駄目でした」
大いなる勘違い……なんだが、まあそれならそれでそう思わせておくに限る。
ティアファナ、残念ながら大人のやり口はこうも汚いんだ。
きっと君には一生かかっても出来ない事に違いないよ。
でも君はそれでいいんだ。
「無理してまで大人になろうとしないでくれ。いずれ時は必ず来てしまうから。俺も今しか見られない君を見ていたい」
はにかんで微笑むティアファナにもう一度口付ける事は躊躇いがなかった。
「このケーキのレシピを教えて下さいませんか?」
「ああ、いいとも。調理器具の店主の奥方から頂いたものだよ。俺でも作れそうな、一番簡単なものを教えて貰った」
「でも初めて作ったとは思えないくらい美味しかったです」
多分きっと、彼女も俺と同じだから感じたに違いない。
じわじわと嬉しいような照れ臭いような、落ち着かない気分になる。
幼い頃父に褒められた時でさえこんな風には感じなかったというのに。
「私なんてケーキ一つ満足に焼けませんでしたから」
「君が?」
それには少し驚いた、彼女は昔から何でも最初から上手くこなせるようなイメージがある。
ティアファナは恥しそうに笑って言った。
「母様がよく作って下さっていたと兄様が仰っていたので、それを真似してみたんです」
「因みに何歳くらいの時だい?」
「六歳くらいだったでしょうか……。焼き過ぎて真っ黒になってしまったり、手に火傷をしてしまったり。後で皆に怒られたんです」
その場に俺もいたら確かにそうしただろう、彼女のこの白い手に痕が残ったらと思うとぞっとする。
「それからは父様や兄様が留守の時にやりました」
「……なるほど」
彼女の料理上手はひとえにその賜物だったという訳だな。
お義父さん達がそれを知ったら猛烈な勢いで止めに入っていただろうから。
「父様達は必要ないと仰ったのですが、やっぱり覚えていてよかったです。私はそういう事くらいしかケニスにしてあげられる事はありませんし」
「とんでもない。君はいつも俺にとって重要で重大な事をしてくれている」
「私何かしていましたか?」
そうだ、彼女自身がいつも無意識だから、わからなかった。
しかしそれが当たり前のものでなくなって、俺も気付く事が出来たんだ。
「君が俺に向かって微笑んでくれる事、俺が生きる上で実に重要で重大だ」
ぱっと笑顔になったティアファナは少し頬を染めてくすくすと笑う。
「私も、ケニスが微笑んでくれる事が、私の生きる上で重要で重大なんですよ」
よかった……ただ、よかったと、そう思う。
その言葉が俺にどれだけ生きる力を与えてくれる事か、きっと彼女は知らない。
けれど湧き出るこの思いが、彼女もそうなのだと知らせてくれる。
日々愛し合う上で重大な事は些細なところに隠れているから、時に見えない事も多い。
それでも俺達は一つずつ、見つけ出して行こう。
「そうそう、近い内に父を呼ぼうと思うんだが」
「お義父様をですか?お帰りになられるんでしょうか」
「正確には母が、だがね」
俺はティアファナを抱き締めて、最後の呟きを彼女の髪の中に隠す。
ただその隠し事も後日あっさりと見付かり、母にねちねちと嫌味を言われた挙句、ティアファナから別居となると寂しいと涙目で言われてしまうのは……理不尽で不本意な後日談である。