番外編1-3
「うわあああああああああああああああああっ!!!」
誰も予想だにしなかった事だろう、しかし現実と言うものはしばしば珍妙な事が起こるものだ。
しかし例え、厨房で雪崩が起きようとも、今の俺の行く手を阻む事は出来ない。
「だだだだ旦那様!?如何なさいましたか!?」
「何でもない!騒ぐな!」
コック長が厨房の外で喚いている。
今朝は早くから母と出かけていてティアファナがいないからまだいいものを。
……いや、今朝もまた一言置いたのみでさっさとティアファナが行ってしまったのを嘆くより、今はすべき事がある。
…………夜などは連日背を向けて寝られてしまったのを嘆き悲しむよりもだ。
………………ティアファナ……。
「旦那様あああああああああ!何か焦げ臭いですうううううううううう!」
「しまった!」
慌てて数日前に買ったばかりの鍋を火から上げるも時すでに遅し、とたん焦げた匂いが鼻を突く。
表面上は大丈夫そうだがそこは確実に焦げてしまっているだろう、これでは匂いが移ってしまって駄目だ。
やれやれと肩を落としながら雪崩の原因でもある予備に予備を重ねて買った食材と鍋を取り出し、また一から調理を始める。
調理器具の店主の奥方に数日間かけて散々頭に叩き込まれた調理法だが、生まれてこのかた厨房になど入った事もない俺は未だに慣れたものではなかった。
こんな時に限って仕事が山のように降って来て、実際調理をするのはこれで二度目という始末だ。
ナイフはそれなりに扱えるつもりだったが、調理用となると全くやり方が違う。
俺はティアファナの料理を思い出し、目の前の不恰好に切れた野菜を前に思わず溜息をつきたくなった。
考えた末にこの方法しか思い浮かばなかった。
ティアファナへの贈り物と考えれば王族が所有しているような宝石とて購入を厭わないが、それでは俺はただ金を出しただけだ。
どんなものでも恐らく喜んでくれる彼女であるからこそ、俺の手で贈り物を「作って」みたくなったのだ。
そう、出来上がりはこの通りあまり期待出来そうもない。
しかし俺が一人で作り上げた贈り物なら、きっといつも以上に彼女は喜んでくれるに違いない。
それにしても自分でやってみて如何に調理が重労働かを知った。
どんな風にして彼女がいつも俺に対し手料理を振舞ってくれていたか、俺はすっかり考えてもいなかった事に気付く。
凝った料理をする時は前日からの仕込みも大掛かりなのだと店主の奥方は言っていた。
恐らく俺の見えない所でティアファナもそうしてくれていたんだろう。
全ては、俺の為に。
それなのに俺ときたら彼女がどんな大変な思いをして作ってくれていたか知ろうともしなかったのだ。
彼女は料理が好きと言っていたし、俺はただ出されたものが全てだと思っていた。
そこにどんな思いが込められているか、理解していなかった。
全くジョニーの事は本当に笑えない。
野菜の皮を剥くだとか、調理法に合わせて形を変えて切るだとか、味付け一つにだって食べる者の事を考えなければならない。
ティアファナはコックではない、俺の妻だ。
そしてやはり彼女は今まで俺にただ一言「美味しい」と言って貰う為に頑張ってくれていたのだと痛感する。
どんなに大変な思いをして、どんなに相手の事を思って作ってくれていたか、考えようとしなかった俺の為にだ。
「旦那様……やはり私がお手伝いを……」
「うるさい!俺は大丈夫だ、向こうに行っていろ。ティアファナが帰って来たらすぐ知らせるんだぞ」
「は、はあ……」
気の抜けた返答とも呼べない返答と共に足音が遠ざかって行くのを確かめながら、再び目の前の野菜と格闘する。
こうしていると実に彼女のように凝った料理を作っている気分になるが、残念ながらただのシチューだ。
自分ではそうは思わなかったどころか、器用だとさえ解釈していたというのに、先日から今現在ですっかり自信は喪失してしまっている。
思考するのと実行するのとでは致命的なほどに差があった。
何だろうか、この不気味な形は。
こんなものをティアファナの口に入れたくもないような気もするが、今の俺にはこれが精一杯なのが悔しいところだ。
ナイフを握る己の手を見ればあちこちが切れていて、セバスチャンから届けて貰った包帯だらけになっている。
しかしこんな事で怯む訳にも止める訳にもいかない。
これ以上の贈り物はないと閃いたんだ、彼女の笑顔を見る為にも諦める事は出来ない。
「よし、後は……」
先程も繰り返した手順通り、奥方から頂いたメモを確かめながら、新しい鍋に水と肉と大麦に黒胡椒……それから分けて貰ったハーブを投入する。
火にかけてじっとそれを見守った、煮立つまでの時間が結構長い。
まだうんともすんとも言わない鍋を眺めながら、ティアファナはこうした時に何を考えていたのだろうかと思う。
今までは……きっと俺の事だった。
俺が出来上がった料理を見てどんな顔をするか、俺が口にしてどんな事を思うか、そしてどんな事を言うか。
俺も今、同じ事を考えている。
彼女はこれを見てどんな顔をするだろう、彼女はどんな事を思うだろう、どんな言葉を口にしてくれるだろう。
頭の中にそれだけが溢れ出す。
どんな彼女でも好きだと思う、あの頃のように例えその顔が寂しさや不安に揺れていても。
けれど彼女の心のからの笑顔を見て以来、強くその笑顔を望むようになった。
いつも彼女の心が幸福で溢れている事を願っている。
だからこそそれが表れる微笑みが、ただただ見たいと思う。
それが俺の手によるものなのなら俺でさえも幸福になるだろう。
一目で全てを奪われ、妻にと願った唯一人の人。
俺は君を――幸せにしたい、一緒に幸せになりたい。
思うだけでなく、その為に出来る事をしたい。
「おっと」
ぐつぐつと音が聞こえて来た鍋を火から少し遠ざけ、浮いて来たアクと言う物を掬う。
奥方によればこうした手間が味に多大な影響を及ぼすらしい。
目が離せない子供のようなものなんですよと言っていた言葉に酷く同感した。
しかし手間をかければ必ずそれに応えてくれる。
いい子だ、頼むから俺の愛する妻の為に美味くなってくれ。
しつこく浮き出て来るアクと悪戦苦闘し、漸く野菜を入れて煮込むとまだ出て来るそれを睨み付けながら掬い続けた。
全く自分の悪い所を見ているようで居た堪れない。
しかし必ず、悪い所は取り除いて、ティアファナの笑顔を勝ち取ってみせるぞ。
ああそうだ、ガイラーなどに負けてなるものか。
あんな外面だけのいい腹の中では何を考えているかわからないような奴などに…………昔俺も似たような事を誰かに言われたような……。
いや!俺は今日をもってして更に生まれ変わるんだ!
そうだとも、まだ手遅れではない……はずだ。
彼女に別れを切り出された訳でもなければ嫌悪の表情を向けられた訳でもない。
ただあまり目を合わせてくれないだとか触れようとすると背を向けられてしまうだとか怒られたとか怒られたとか……そのくらいだ!
世の中には倦怠期なんて言葉もある、そうだ、ティアファナがそういう気分の時期かもしれない!
「あああ、いかんいかん」
頭を掻き毟っている場合じゃなかった、今は料理に集中しなければ。
よし、最後の野菜も投入し終わった。
後は煮ている間に肉を取り出して骨から外して食べやすいように切ってから再び戻して塩胡椒、火から下ろす……。
「やっと一品、か」
思わず肩で息をしそうになった。
そう、幾ら俺に料理の才能がなかったとして、一品で済ませるのは俺の沽券に関わる。
「この際質より量で勝負ですよ!」と言われたからでは決してない、決してだ。
置いてあるメモをきっと睨み、俺は休む暇もなく次に取り掛かった。
あまり工程が多くないようにと奥方が教えてくれたのは鍋一つで出来るケーキだ。
それを聞いた時の衝撃は忘れられない。
調理の工程を知らない俺でもケーキは鍋で作るものではない事くらいは知ってる。
いや、それもまた知らなかったのだろう、俺は全く無知になった気がした。
だが俺は無知であると自覚しながらそのままでいる愚鈍ではない、他の事ならいざ知らずティアファナを喜ばせる事が出来るのなら料理の道さえも究めてみせる。
更に新しい鍋を取り出し、バターやスパイスなどといった材料を入れていく。
少々不安が残りながらもそれを火にかけ軽く沸騰させると、すでに芳ばしい香りが辺りに漂った。
カレンツの酸味がかった甘い香りは俺の食欲さえそそる。
火から下ろしてぐるぐると鍋の中を掻き回し、そしてまた冷めるまで待たなければならない。
慣れている人間ならこうして待つ時間を利用して他の調理をすのだろうが、やはり俺はそこまでの域に達していないと痛感した。
こうしている間にもメモを何度も見返し間違いがないかと覚束無い。
完全に冷めたのを確かめ、今度は卵と残りの材料を加えてまた混ぜる。
ぐるぐるぐるぐるやっていると、子供が読む本に出て来る魔法使いにでもなった気分だ。
もし俺が本当にそうだったのなら事はもっと簡単だろうが。
しかし魔法などで彼女の心を変えたり、ぱっと料理を出すのは、今考えると実に味気ない。
どっと疲労感を覚えてはいるが、こうしているのが楽しい事も否めなかった。
彼女の事を考え、想像し、笑顔の為に自分なりに努力しているのがどことなく誇らしいとも思う。
ティアファナが喜んでくれるのなら、例え後十品作り疲労困憊となったとしても全てが吹き飛んで俺は嬉しくなるんだろう。
だから、どこか今の疲労が心地よかった。
「よし、と」
コック長を呼び、厨房の散々たる光景を目の当たりにし青褪めた顔の彼にオーブンの支度をさせ、焼き型に鍋の中身を流してから焼く。
オーブンから視線を外し、涙目になりながら俺が焦がした鍋や何やらを片付けているコック長に言った。
「本当にあれで出来上がるものなのか?何と言うか、ねっとりしてたぞ」
シチューを作るところは奥方に実演して貰ったが、時間がなくケーキを作るところまで見るのは無理だった。
かなり不安だ、と言うより疑問だ。
「旦那様、ケーキとはそういうものでございます。あああ……オルポート製の鍋が……」
「そんな物はあと三つほどある、好きに使え」
「ううぅ……」
やはり店主の店の鍋は料理人には人気があるようだな、あの店にして正解だった。
母の一流好きも伊達ではなかったらしい、あの時買い物に渋々ながらも付き合っておいて本当によかった。
「そういえばお前は時折ティアファナと料理をしているんだったな」
「は、はい。奥様がお一人でされますので、私は少々お手伝いをさせて頂くだけですが」
コック長は鍋にこびり付いた炭を落とすのを諦め、床に散らばっている野菜屑を箒で掃きながら言う。
「私も長年コックを勤めておりますが、奥様は大変手際がよくていらっしゃいますし、何より楽しそうにしておいでです」
「そうか……」
「はい。こちらに来られた日には一番に旦那様や大奥様のお好みの物は何かとお尋ねになられまして」
感慨深げにコック長は頷き、茶色の口髭を撫でた。
「私がこちらに勤めさせて頂く以前には、奥様自らが厨房に立たれるなど考えられなかった事ですから、大変驚きました。深く旦那様をお慕いなさっているのだと、私など感動を覚えたものです。そしてこれからは奥様の為にも私の腕を揮えるのが嬉しく思いました」
まるで自分の娘を自慢するかのように誇らしげに言ったコック長に俺も頷く。
そしてコック長は悪戯を企む子供の如き表情で笑った。
「調理中、奥様は沢山お喋りをなさって下さるのですが、いつも旦那様の事ばかりなのですよ」
それは――。
「旦那様は今日体調が悪そうなので薄味の方がいいのではないか、甘い物はあまりお好きではないようなので甘さを控えめにする方がいいか、……それはもう他にも沢山」
「ティアファナが、そんな事を」
「ええ、ええ。あっ!大奥様には内密にお願い致しますね。いえ勿論大奥様の事も奥様はお考えになっておいででっ」
「わかっている」
そんな事が知れたら疎外感を覚えた母に何を言われるかわかったものじゃない、この俺が。
ほっと胸を撫で下ろしながら袋に詰めた野菜屑などを捨てに行くコック長を見送って、暫く椅子に座ったままでいた。
すっかり片付いた厨房を見回すと、あちらこちらにティアファナの姿が想像出来る。
楽しそうに、嬉しそうに、料理をしながらコック長に話している姿が。
芳ばしい香りが強くなっていく中、想像する彼女のスカートの裾がひらひらと揺れている。
「だだだだだだだっだ旦那様っ!」
そして行ったと思ったコック長が袋を抱えたまま慌てて戻って来た。
「奥様がお帰りです。お支度はお済ですか?」
「済んでいるない!」
「旦那様、言えていません……」
拙い、まだケーキは焼き上がっていないし、テーブルの用意も出来ていない。
どうしたものかと思案するより先に使用人達を引き連れたセバスチャンがやって来る。
「旦那様、テーブルのご用意は私共が致します」
「そうですね、ケーキが焼き上がりましたら私めがお持ちしますっ」
「旦那様は奥様のお迎えを」
「わかった」
打ち合わせた訳でもないのにそれぞれがさっと配置につくように分かれる。
素早く匂いのついた上着を替え、廊下の途中から早足を止め、出来る限り冷静を装って玄関の方へ出向く。
丁度使用人にドアを開けられて入って来たティアファナが俺の顔を見、そして口を開きかけてからそのまま動きを止め瞬きだけを繰り返した。
な、なんだ?何かおかしいところでもあるのか?やはりまだ匂いが染み付いていたのか?
ななな何なんだ、何か言ってくれティアファナ!
そうだ、俺の方こそ言うのを忘れていた。
「おかえり、ティア。買い物は楽しかったかい?」
動揺を隠し努めてにこやかに接したつもりだったが、彼女はいつまで経ってもその場から動かずぱちぱちと目を瞬いて俺を見ている。
「何をしているんです?ティアファナ、早く中に入らないと冷えてしま…………あら、ケニス」
その「いたの?」みたいな口調はどうにかならないものか、母上。
確かにここ数日仕事が忙しい上に店で講習を受けていた所為で母と顔を合わすのは久しぶりではあるが。
しかし母は俺とティアファナの様子には気にも留めず、俺の後ろからやって来たセバスチャンに向かって言う。
「セバスチャン、食事の用意は?」
「整っております」
よし、セッティングまで俺一人でしたかったが、まあ臨機応変だ。
当初の予定はこなしている、そしてここからがある意味の本番だろう。
「さあ行こう、ティアファナ」
歩み寄りそっと腕を差し出すと、ティアファナは僅かに俺の上で視線を彷徨わせてからおずおずと腕を取る。
何故そう躊躇う必要があるのだろう。
まるで後ろめたい何かがあるような――……いやいやいや!彼女に限って不貞行為などあり得る訳がない!
大丈夫だ、……俺も大丈夫だ!
ティアファナの小さな手を久しぶりに腕に感じながら、異常に胸が高鳴っているのを感じる。
未だ嘗てこんなに緊張した覚えがあっただろうか。
ああそういえば彼女に初めて声をかけた時、それから彼女が他の誰かと駆け落ちしたと勘違いした時、こんな風に酷く鼓動が速くなり痛むほど苦しくなった。
彼女は喜んでくれるだろうか、さっきから口も利かない様子が気になって仕方がない。
母の後を歩きながら、そっと視線を下ろしてティアファナを覗き見ると、彼女は視線を落としていてその表情は窺えなかった。
一歩一歩と食堂に近付く度、俺の心臓は壊れてしまうんじゃないかと馬鹿な心配をしてしまう。
頼む、頼むから、と誰にともなく俺はそう繰り返し続けた。
「まあ、今日は随分とシンプルね」
食堂に入りそれぞれが席に着くと、皿に取り分けられたシチューを前に母が言う。
しかし俺はそんな言葉も耳に入らずひたすらティアファナに視線を釘付けにしていた。
彼女はじっと、いつものコックが作ったとは思えないシチューを眺めている。
わかったのだろうか?彼の腕を一番に知っている彼女なら気付いただろう、けれどこれが俺の手によるものだと知ったのだろうか?
どのタイミングで切り出すべきか、パンを運んで来る使用人を視界の端に収めながら俺は考えていた。
彼女はまだじっと、何故か浮かない顔でシチューを見詰めている。
「ティア、体調でも悪いのか?」
そんな様子に俺は思わずそう言っていた。
ティアファナの体調が悪いのなら一刻も早く休ませなくてはならない。
料理はまた作ればいい、彼女の具合が悪くなっては何もかもないんだ。
「お、お義母様……」
ところがティアファナは震える声で、何故か母に向かって顔を上げるなりそう切り出す。
俺はどうしてか、彼女が冷たくなって以来、今日で一週間目だという事をぼんやり思った。