番外編1-1 夫の数奇なる一週間
※こめでぃです。
「有り得ない」と何度もそう自答したが、またすぐに「そうだろうか?」と自問する羽目に陥った。
何度も何度も浮かんでは打ち消しを繰り返し、神経が磨り減り尖るどころか無くなる気さえする。
しかし結局は「有り得ない」と希望的推測で自問を押しやって精神を保つのがやっとだ。
――ティアファナが冷たくなった。
我ながら恐ろしい事に起こった事実を言葉にすればこの一語に尽きる。
しかし事態は恐怖をも凌駕する深刻な問題だ、これを笑う者は真に愛する者を知らないからだと声を大にして言いたい。
とにかく、大問題だ。
少しばかり冷静なつもりで振り返ってみても、あまりこれといった事は思い浮かばない。
数日前少し口論になったが、それとて半日ももたなかったくらいだ。
大体ティアファナが数日前のそれを持ち出して今更八つ当たりをするとも思えない。
故に原因が全く思い当たらず、自問自答を繰り返す羽目になる。
もしティアファナが自分に嫌気を差していたら、と考えて。
……違う、有り得ない、そんな事はないし、認めないし、ティアファナを侮辱する事になる。
万が一、もし万が一にでもそうなったのなら、俺はこうして悶々と一人神経を磨り減らしている暇もないだろう。
何せ彼女は心でこうと決めたらとことん向き合う性質だ、言いたい事も言わずに俺を無視するなんて行動には出ない。
だとすれば考えられる原因も絞れるかとも思うが、やはり全く思い当たらなかった。
聞いてみようにも声をかければすぐさまつんとそっぽを向かれてしまう始末で取り付く島もない。
そうして朝から侍女と買い物に出かけてしまった彼女の後姿を呆然とするしかないまま見送って、俺は今上の空で仕事場にいる。
さっきから周囲で虫が飛んでいるような音が聞こえるが、今はそれどころじゃない。
「ケーニース!……お前生きてるかあ?」
「ああもう煩い、考え事をしているんだ、放っておいてくれ」
「仕事に出て来て放っておけはないだろう……。お前やっぱり前の一件で頭の打ち所が悪かったんじゃないか?」
全く煩い虫だ、こんな時に仕事になんて来るんじゃなかった。
解けもしない思考がまたこんがらがるじゃないか。
「それとも何か、お前がこの疑問に答えてでもくれると言うのか!」
「わあ!なんなんだお前はっ。……なんだよ、疑問って。何か深刻な悩――」
「妻の事だ」
「ああ、そうだろうと思いましたよ」
なんだその投げやりな口調は、こっちは俺の人生がかかっている大問題なんだぞ。
「今度は一体何をやらかしたんだ。結婚してからこっち、随分喜怒哀楽が激しくなったな」
「独身者が知ったような口を利くな」
「あーそーですか」
「……妻が冷たくなったんだ」
自らの口から出すのも恐ろしい事実に戦慄していると、アンディが目元を片手で覆う。
失礼な奴だ、だから独身者にはわからない問題だと言うんだ。
これがどれだけ重大な事実かわかっていたのなら、今頃アンディも女の尻を追いかけるような虚しい真似は止めているだろう。
哀れとしか言いようがないな。
「お前が何かしたんだろ、どうせ」
「それが思い当たらないから悩んでいるんだ」
「女性ってのは男の俺達にはわからない事で心の天気が変わるものさ。お前こそよく知ってるだろうに」
「ティアファナはそんな女性じゃない」
どこかの国の天気のようにころころ変わられていたのなら、俺はとっくにまたアンディと同じ独身者に戻らされているだろう。
全くとんでもない。
「そうは言うが、お前の奥方は特に繊細そうだからな。思ってもみない些細な出来事に心が引っ掛かる事もあるだろう」
確かに……そう言われればそうとしか言いようがない気もして来る。
そうだ、ティアファナは俺が思ってもみない事までよく気がつくし、感じ得たりもする。
じゃあ何か、俺はティアファナがあんな風になるような事をしでかしておいて、思い当たりもしない愚鈍な夫だと言うのか。
――すっかり反論出来ないところが痛いが、しかし本当に昨夜まではいつも通りだったのに何故。
「眠ってから起きるまでの数時間……眠っている間に何か……」
「昨夜までは普通だったのか?」
「ああ、昨夜もいつも通り話をして寝た。眠るまでは笑ってさえいたんだ、ところが起きてからが……」
もう口に出したくはない。
いつもなら起きて一番にするキスどころか抱擁もなく、一人で寝室を出てしまっていた彼女は一人先に朝食を食べていて、声をかけたら――……ああ恐ろしい。
普段豊かな表情を浮かべていないとまるでティアファナは人形そのもののようで、それがまた硬質さに輪をかける。
あの瞳に俺が映らないなど、一日が始まった気がしない。
よって今の俺はまだ朝すら迎えていない事になる、仕事どころじゃない。
「いやまあ、とりあえずお前、ここを出て下の店にでも行こう。さっきからお前が唸っている所為で他の手も止まってるからな」
アンディの言葉に顔を上げれば、即座に周囲の人間の視線が他所へと逸らされた。
まあいいだろう、今日はもう仕事をするような気分じゃない。
むしろ明日を迎えられるかどうかの瀬戸際だ、……なんて恐ろしい。
伴って来るアンディと部屋を出て外の適当な店へ入ると、見覚えのある店主が人の顔を見るなり奥の部屋へと促して来る。
この際有り難いが、人を悪魔が来たような顔で見るのは失礼に当たるというものじゃないか?
「で、本当に心当たりがない訳か?」
「全く」
我ながら目に届く範囲のティアファナの行動は逐一憶えている。
昨夜とて眠る前には何度もキスをした、それから何度も愛の言葉を交わして……。
「おいおい、現実逃避をするな。……そして舌打ちをするな」
煩い男だ、そんな事だから女性が逃げるんだ。
「お前今失礼な事思っただろ」
「当然の真実を思い浮かべたまでだ。しかし本当に思い当たらない……俺の目も見ないし、話を聞いてもくれない」
「……今心底お前の奥方が偉大だなあと感じたよ。女渡りのケニスがそんな風になるとはなあ」
「ティアファナを失ったらあの何の楽しみもない人生に戻るんだぞ!」
ぞっとして身を震わせると、また失礼な事にアンディが肩を竦めて緩く首を振る。
「お前、ああいうのが楽しみだっただろ」
「一時のものだ、過ぎれば何も残らない」
そう、顔を合わせなくともこうして表情の一つ一つを思い浮かべる事もなかった。
今彼女がどう過ごしているか、それを思うだけで心が満たされるような事もない。
ただお互いに通り雨のようなそれを共にする、それだけだ。
あの生活に戻れと言われたのなら、いっそ俺は何もかもをなくしたのと同じになる。
それだけ、ティアファナが俺の生活に浸透している。
ウェイターがやはり人の顔色を窺いながらおずおずと飲み物を持って来て脱兎の如く引き返して行く様に思わず指がテーブルを何度も弾いた。
どうもイライラとしてしまう、尤も苛付きを感じるのは問題点がわからない自分自身に対してだ。
「とりあえず、話を聞いてくれるまではご機嫌窺いに徹したらどうだ。何か彼女を喜ばせるような事をして心を解すんだよ、そうすれば耳も傾けてくれるさ。彼女は言ってわからないような人でもなさそうだしな」
「俺の妻をわかった風に言うな」
「面倒臭いなお前」
「ふむ、だがいい案だ。ティアが喜ぶものか……」
彼女と心を通じ合わせて以来様々な贈り物をした結果、彼女が一番喜ぶのは植物の種か苗だ。
だがそれも先月始めに季節に合わせて贈ってしまった手前、また同じものではワンパターンだろう。
勿論ティアファナは同じ物を貰ったところで嫌な顔をする訳もないが、今回はそれでは駄目な気がする。
今の現状を思えば、何かもう今まで以上にない贈り物であっと言わせて喜ばせる事が出来なければ駄目だ。
しかし今までの生活が生活だったのか、彼女にはある意味困った事にあまり物欲がない。
古いドレスも侍女と共に自分で手を入れて新しく直してしまうだとか、そうして物持ちもいい。
宝石や香水にはあまり興味はないようだし、刺繍道具も先日から義父が山と送って来るのでこれ以上贈られてもティアファナは困ってしまうだろう。
本も彼女自身が気に入ったものを直感で選んで来る為、ジャンルにも一貫性はない。
食べ物はどちらか言えば彼女は自分で作る方を好む。
…………。
「アンディ、俺は今自分の引き出しのなさに失望した」
「ああ、それはある意味お前の奥方が難しい人だという事だな」
どこか腑に落ちない点もあるが肯くより他ないだろう、ティアファナにはこれさえあればという物があまりない。
庭弄りやピアノや刺繍も言ってみれば趣味の一部に過ぎず、それがなければいけないという事はないのだ。
趣味は趣味としてあくまで臨機応変に楽しむ程度で、ティアファナの生活の中心は驕りでも何でもなく、俺自身だろうと思う。
「そうだ、どこかに出かけるのはどうだろう」
「目も合わせてくれないのにか」
まさに他人事と言った顔でお茶を啜ってから言ったこの同僚には軽く殺意を覚えた。
しかしその通りだ、目も合わせてくれない話も聞いてくれない……そんな状況でデートに誘ったところで頷いてくれるとは到底思えない。
デートに誘った挙句無視されたら、俺は一体どうなってしまうんだろう。
そう思っただけで思考が止まり白濁した。
「しかし本当に何もなかったのか?」
「少し前に少々口論になっただけだ。それも半日ももたなかったし、妻はそんな事をいつまでも引き摺るような人じゃない」
「なんだ、ネタは上がってるんじゃないか。それで、何の口論をしたんだよ?」
勝手に注文をしたサンドイッチを口にしながら椅子に凭れてすっかりリラックスしているのが腹立たしい。
だがしかし俺自身がわからない以上、第三者なら見えて来る事もあるかもしれない。
これもティアファナの為、そして俺自身の明るい未来の為だ。
この男の仕事を山の如く増やしてやるのは後ででいい。
「いや本当に些細な事だったんだぞ?」
「だから、男にとって些細でも、女にとって大問題なんて事は山のようにあるんだよ。その逆も然りだ。全く、本当にお前は結婚してから鈍くなったもんだな。はっはっはっ」
……いずれ書類の山に押し潰されるといい。
「その、つまりだな、最初の子供は男がいいか女がいいかという事で、少々――待て」
いつの間にか平らげたサンドイッチの皿を置いて部屋を出て行こうとするアンディの靴紐を踏むと、前のめりになった奴は派手な音を立ててソファの背凭れに鼻をぶつけたようだった。
「ぃってえ!何すんだお前!」
「お前こそ話の途中で席を立つとは何事だ」
「ここに来た事を心底後悔してるよ。……畜生、なんでこう貧乏くじばっかり……」
ぶつぶつと言うアンディがソファに座り直したのを確認してから、俺は溜息と共に当時の事を思い出しながら話し出す。
今思い返しても些細だと言うより他はない。
あの時お互いの意見は反発したものの、すぐにどちらでもいいという結論に達して笑い合った。
どちらにしても俺達が我が子に対する愛情は変わりがないし、それに最初の子にはすぐ弟か妹が出来る事も考えられる。
まあ卵から孵っていない雛を数えるのは愚行というものだしな。
そう、そもそも卵すら生まれていない。
今すぐにでもそうしたいのは山々だが、それには彼女だけでなく夫の俺にも準備はいる。
少なくとも、妻の心も理解出来ないような夫は、父親として胸を張れないという事だ。
「その事ではお互い、どちらでもいいという結論に達したんだ。自分達がどんなに仕方がない話をしていたかに笑いもした」
「まあそうだなあ、子供だけは生まれてみない事には今からどちらだとか言っても仕方がないだろう」
それはそれに頷いてあの時のティアファナの笑顔を思い浮かべる。
あの時俺が決意したように、彼女もまた近い将来母親になるという現実を考え出したようだった。
彼女がいい母親になるというのは俺にとって疑いようもない事だ、しかし実際子供を産むのは女性なので男の俺にはわからない様々な不安もあるだろう。
そんな事も理解し包んでやりたいと思うのに現実はこのざまだ。
手を拱いているだけの父親など、いずれ生まれて来るわが子に見せる訳にはいかない。
もしティアファナそっくりの女の子に「ママはどうしてパパみたいな人と結婚したの?他にいい人がいなかったの?」などと問われた日には…………。
「急に顔真っ青にしてどうしたんだ。お前情緒不安定過ぎるぞ」
「そんな事は駄目だ!!」
「わあ!」
自分で叩いたテーブルと共に音を立てた目の前のソファを見れば、その脇に転がっているアンディの姿が見える。
「そんな所で遊んでいる場合じゃないんだ、アンディ」
「おーおー、全くその通りだな。……ああ、そうだ、ケニス。もう少し遊び心を持ったらどうだ」
「と言うと?」
腰を擦りながらソファに座り直したアンディがそのままずるずると深く凭れながら足を投げ出す。
「最初から奥方の好きな物を贈るんじゃなくてだな、こちらから好きにさせるという事だ」
ふむ、発想の逆転と言うやつだな。
しかし一体どんなプレゼンテーションをしたらティアファナが興味を持ってくれるだろう?
素直な性格からか大抵の事には好意的に受け止めてしまう彼女だ、だがやはりそれだけではいつもと同じになってしまって意味がない。
勿論ティアファナが些細にも喜んでくれればいいが、今回はこうあっと言わせるだけでなく全身で喜びを体現してくれ飛び付いて来て「ケニス愛しています!」と言う言葉を是非とも勝ち取らなければならない。
いや、はにかみながらそう言われるのも吝かではないな。
難しい、だが何故か非常に難しい気がする。
しかしそれなくしては俺の未来も閉ざされてしまう、この先までティアファナに無視を決め込まれては食事も喉を通らなければ夜も眠れない。
「何か思い付いたか?」
「いや、俺は心底彼女を愛しているのだと再確認した」
「神妙な顔で考え込んだと思えば今度はそれか。お前が奥方に骨まで溶けているのは皆よくわかっているさ」
「それが真実なのだから、当然だな」
「……奥方は本当に変な趣味をしていると思う」
「ティアファナを侮辱する気か貴様!」
「わかったわかった面倒臭いなわかったって!もう仕事をする気がないならあちこちの店を回って決めたらどうだ?ただ、今までと同じような物は避けろよ」
疲れたような顔をしたアンディに頷き、俺はさっさと店に向かう事にした。
背を向けた部屋からはアンディの長い溜息が聞こえて来たが、恐らく気の所為だろう。
久しぶりに店が立ち並ぶ街に立ち、戦いを挑むかのような心持で胸の前で腕を組む。
ここは女の戦場とばかり思っていたものだが、全くティアファナと結婚してからは全ての価値観が覆される。
「おや、坊ちゃんじゃないですか」
「……ああ、久しいな、ジョニー」
振り返った先でジョニーがにこりと目元に深い皺を寄せながら微笑んだ。
彼に会うのは本当に久しぶりだ、俺が十代の頃まではよく彼の店で服を仕立てて貰ったものだ。
特に彼は珍しい骨董品のマニアで、よく奥にある彼の部屋を訪ねてそれらを見せて貰っていた。
そして彼は周囲にいるような気難しい老人ではなく、彼が服を仕立てる仕業そのもののように人の心を感じ取れる人だ。
「難しい顔をして、何かお悩みですね?」
「少し……時間を貰えないだろうか?」
「ようございますよ」
相変わらず見る者の心を和ませるような笑みを浮かべた彼に俺は少しほっとして、ジョニーを連れ立って彼の店へ行く事にした。
久しぶりに来たというのに店の形をすっかり覚えているような気になって懐かしさを覚えた。
そして記憶とちっとも変わらない店に俺は何かの希望を見出す。
幼い頃はここで様々な骨董品を見て目を輝かせたものだ。
奇妙な形の発明品、不思議な絵画、謎めいた言葉の本、とにかく全てが俺の好奇心を煽った。
彼の所有する物の中にならティアファナが驚くほど気に入る物が見付かるかもしれない。
「坊ちゃん、こちらへどうぞ」
「ジョニー、もう坊ちゃんは止めてくれ。俺も少し前に……結婚したんだ」
幼い頃の悪戯を知る祖父に報告するような気持ちで言った俺にジョニーはすぐ温かく微笑む。
「おめでとうございます」
「ありがとう」
彼にこんな事を報告出来る日が来るとは思わなかった。
会わなくなって、時折彼を思い出す度にそう考えていた。
俺はきっとどこかで彼に申し訳ないような、後ろめたいような気がしていたのだと思う。
早くに妻を亡くしずっと独り身で、他人の幸せそうな家庭を見ながら服を仕立てる彼に対して、とても。
「今度俺の妻を紹介する。その、とても可愛い人なんだ」
「そうですか……そうですか、楽しみにしていますよ」
目を細めて何度も頷いたジョニーに俺も頷き、使用人が運んで来たカップが目の前に置かれると俺はそれから顔を上げて彼を見る。
「実は、頼みがある。昔見せて貰ったあれを、また見せて貰えないか?」
「ですがね……」
「頼む、貴方が売らないのはわかっている。それでも、どうしても、たった一つを見付けたいんだ。彼女を、喜ばせたいんだ」
ぐっと握った拳を膝に置き、俺は勢いよく頭を下げた。
彼の所有する骨董品はどれも彼の奥方との思い出が詰まった物だと聞いている。
けれどそれを承知で、俺は頼むしかなかった。
昔と同じ古びたままのこの店を見て確信したんだ、必ず何かはここにあると。
そしてきっとその先に彼女の笑顔があるんじゃないかと。