続編2-5
その手を両手で握りながら、目を閉じている夫の顔をじっと見詰める。
すぐ呼んだ医者に見せたところ外傷はないとの事だったが、ティアファナはその言葉に安堵は出来なかった。
力ないその大きな手に指を絡めて祈るようにそこへと額を当てる。
自分を庇ったばかりにテーブルに再び頭を強く打つ羽目になって、ティアファナは情けなさに泣きたくなった。
もしまた記憶が失われたのならと思うと居ても立ってもいられなくなる。
己の記憶が失われる事ではなく、またケニスが苦しむ事になるのではないか――それが辛い。
あんな状況に陥ってもケニスは再びティアファナを愛すると言ってくれた。
それを願っていたはずなのに今はもうそうでなくていいとさえ思ってしまう。
思い返せば記憶のない中ケニスは確かに苦しんでいたのだ。
もし自分がその立場だったらと思うと、とてもケニスのように振舞えていたとは考えられない。
すっかり記憶にない「夫」を見て、果たしてケニスと同じく少なからず心配するような言葉さえかけられていたものかと。
きっと不安に苛まれ一番にこの実家へと逃げ帰っていたに違いない。
幾ら自分を避けていたとはいえ、ケニスはそれをしなかった。
そう、幾らでも方法はあったはずなのだ。
己の記憶にもない女性を妻としておく道理などない、例え事実がそうであったとしても。
ケニスが少しでもティアファナ自身を顧みてもいなかったのなら、疾うに離縁を言い渡されていただろう。
けれど追いかけて来てさえくれた、そして再びティアファナの聞きたかった言葉をくれた。
ティアファナはふと息をついて顔を上げると、濡れたタオルで再びその顔をそっと拭う。
ブレントはああ言ったが、やはり自分は遠く及ばないと感じた。
よかれと思ってやった事でも、結局裏目に出てしまっているような気がしてならない。
もっと自分が上手くやれていたのなら、ケニスは再びこんな目に遭う事はなかったのだ。
誰も彼もがティアファナはよくやっていると言う、――それがまるで子供をあやすような言葉に聞こえた。
知らずはあと深い溜息を零してしまったとたん握っていた手がぴくりと揺れ、慌ててケニスの顔を覗き込むとうっすらとその目が開く。
どくんと様々な思いが心臓を跳ね上がらせたが、ティアファナはそっと夫の名を呼んだ。
「……ティア……?」
聞き慣れた呼び名にどこかほっとしたものの、ケニスに向かって頷いて見せ、ティアファナは立ち上がって部屋の外で控えていたアナに医者を呼びに行かせる。
部屋に戻ると起き上がっていたケニスに慌てて駆け寄った。
「ケニス!いけません、まだ起き上がっては――」
「ああ、頭が痛い。……俺は、どうしたんだ?」
「今は何も考えず、お休みになって下さい」
半ば強引にケニスをベッドに押し付けるとドアがノックされ医者が入って来る。
ティアファナも幼い頃から世話になっているかかりつけの医者だ、視線をそちらに走らせるといつもの人の好い笑みが返った。
「大丈夫だよティアファナ、そんな顔をするもんじゃない。怪我人が君を心配して病人になるといけないからね」
その言葉に視線を戻せばケニスが眉を寄せてティアファナを見上げている。
「さて、バークレー殿。痛むところはございますかな」
「頭が、脇のところだ」
「テーブルにぶつけた時にコブが出来ているようですから。吐き気や眩暈などは?」
「いや、ない。……テーブル?」
手際よく目などの状態を確かめていく医者に対し、ケニスは一人怪訝そうな顔をする。
薬を処方して「安静に」と言い置いた医者が出て行くと、ベッドの脇の椅子に座ったとたんティアファナは手をケニスに掴まれた。
「俺は一体どうなったんだ?テーブルに頭をぶつけたというのは?」
矢継ぎ早にそう訊ねるケニスにティアファナの目が見開かれた。
「憶えておいでではないのですか?私を庇って下さったのですよ?」
「いや……それにここはどこだ?病院ではなさそうだが」
暫くティアファナはケニスの顔を見詰めて瞬きし、そしてゆっくりとその手を握り返す。
焦るようなその表情を、出来るだけ落ち着かせるように。
そして自分自身もまた冷静さを取り戻す為に。
「では、街を歩いていた時に看板が落ちて来た事は?」
「……ああ、そういえばそうだったな……俺は気を失ったのか?」
「ええ、外傷は先程お医者様もコブが出来ただけだと仰ったでしょう?」
するとケニスは酷く顔を歪ませてティアファナから視線を逸らす。
具合でも悪くなったのかとその視線を追いかければ、乗り出した体にケニスの腕が巻き付いてその体の上に乗り上げさせられた。
慌ててティアファナが上から退こうとしてもしっかりと腰に巻き付いた腕は剥がせそうにない。
まだ休まなくてはならない体の上に負担をかける事にならないかと気が気ではないティアファナにケニスが言う。
「見るな。頼むから見ないでくれ」
「……ケニス?」
「全く、まるで喜劇役者だ!あんな事で気絶するなどと、情けない」
顔を胸に押し付けられたまま、ティアファナはそんな言葉に精一杯で首を振る。
「情けなくなど……命を落していたかもしれないんですよ?」
自分で言ってしまってぞっとしたティアファナは、身を震わせてケニスにしがみ付いた。
目の前にケニスがいたから思い当たらなかったが、確かに充分そんな可能性だってあったのだ。
思わず力の抜けて行く体を抱き上げられて、見るなと言ったくせにケニスの目線まで顔を上げさせられる。
「大丈夫だ、ここにいるよ。心配を掛けてしまってすまない」
「いいえ……本当に、ご無事で何よりでした」
緩く首を振ったティアファナの頬がケニスの両手に包まれて、穏やかな口付けが降って来る。
「ところで、ここは?」
「私の実家です」
「な――……くっ!」
「ケニス!どうか安静にしていて下さい」
ゆるゆるとケニスの上から退くと、ティアファナは再びケニスの額をタオルで拭った。
しかし困惑の表情のままケニスは頭の脇に手をやって首を振る。
「一体どうして」
「あの、丁度見付けて下さったのが先程のお医者様なのですよ。それで、この屋敷の方が近かったので、病院よりゆっくり休めるのではないかと。きっと記憶が混乱しているのでしょう」
他に上手い言い訳は見付からなかったが、確かに事故の時の記憶が曖昧なケニスは信じたようだった。
そしてティアファナはブレントやディーンに全く話をしていなかった事を思い出してはっとする。
また自分が家を出たなどとケニスに言われでもしたら、その記憶のないケニスは益々混乱してしまうだろう。
「わ、私、何か飲み物を取って来ます。何がよろしいですか?」
「君がここにいてくれたらいい」
咄嗟に首を振り掛け、それを止めて静かにそう言ったケニスにティアファナの目頭が熱くなった。
この数日間、どれほど望んだ言葉かわからない。
けれどそれを願って縋るだけでは駄目なのだとも悟った、例えケニスがそう望んでくれたとしてもだ。
ティアファナはそっとケニスに顔を近付け、その頬に唇を落とす。
子供のように目を瞬かせる夫が可笑しかった。
「いつなりとでも、私の心は貴方のお傍に」
「ティア……?」
「何がよろしいですか?」
にこりと笑んで再び尋ねた妻にケニスは僅かに肩を竦めながら微笑んで「温かい物を」と言う。
ティアファナは頷いて部屋を出ると、なるべく足音を立てぬように急ぎ足で父の許へと向かった。
ブレントは僅かに瞠目して苦笑し、ディーンは散々悪態をついては最後にこれ見よがしな溜息をつく。
「ティア」
「はい?」
だらりと肘掛に腕を投げ出したディーンにティアファナは侍女が持って来たティーセットで支度をしながら首を傾げた。
「お前の夫は馬鹿だ」
「ディーン、身も蓋もない言い方をするな」
「否定して下さい父様……」
窘めたつもりのブレントが咳払いをするのにティアファナも息をついて首を振る。
「そんな事を仰って。兄様も昔は――」
「私の事はいいんだっ」
「全くお前は誰に似たんだか」
首を振ったブレントに思わずティアファナとディーンの視線が飛んだ。
そして再び咳き込もうとしたブレントが思い切り息を吸い込み過ぎて咽ると、ティアファナはティーポットにカバーを被せて父の背中を擦るべく歩み寄った。
「またいつ記憶をなくすかわからないぞ。今からでも遅くない、家に戻って来なさいティア」
「お断りします」
取り付く島もない妹に兄が眉尻を下げたが、ティアファナはブレントが落ち着くまで背を擦ってからポットやカップを乗せたトレイを持ち上げる。
「確かにまたいつ記憶がなくなってしまうかもしれない……それでも、私はあの人の妻でいたいんです」
兄を振り返りそう言って部屋を出たティアファナは、「誰に似たんだ」と言う兄の問いに「勿論ロレッタだ」と誇らしげに父が答えたのを耳にはしなかった。
外に控えていた侍女達が慌ててティアファナに駆け寄りトレイを持とうとするのに首を振って、しかし後を付いて来た侍女が開けたドアの向こうにいるケニスの姿にほっとする。
しかし兄や父に状況を説明しても、これから屋敷に戻ったらどうしたものかと半ば途方に暮れた。
セバスチャンでさえ恐らくケニスの記憶喪失の件は知らなかっただろう、それにケニスが仕事先で言っているとも思えない。
話してしまった方がいいのか、しかし記憶喪失の事を話してしまってケニスが気に病まないか――それが気になった。
「ありがとう」
ティアファナはゆっくりと呼吸をしてそっと歩み寄りポットからお茶を注いだカップをケニスに手渡す。
それを口にしたケニスが僅かにでも眉を寄せやしないかと、ティアファナは横目で注意深く見守った。
そしてふと注がれている視線に気付き顔を上げれば微笑んでいるケニスがいる。
「新しいドレスだね?」
「母様の物を作り直して頂いたんです」
横のチェストの上に目をやったティアファナの視線を追ってケニスは頷く、壁に掛けられている絵の中でティアファナの母であるロレッタが同じドレスで微笑んでいた。
「よく似合う。君は母君にそっくりだ。昔からブレント殿もご自慢の訳がわかるよ」
「父が?」
「そう、ブレント殿は今も愛妻家で有名な方だから。その愛娘を頂きに上がる事になった時には柄にもなくとても緊張した。仕事ではとても落ち着きのある方だが……妻の話となると腰を折ってばかりなのを見ていたからね」
思わずその光景が目に浮かんで顔を覆いたくなったティアファナをケニスが笑う。
そっと触れて来た大きな手をティアファナも握り返した。
「ブレント殿には少々申し訳ない事をした」
そう言ったケニスに意味がわからずティアファナが首を傾げる。
ケニスが申し訳ないと思う事など何もないと思うからだ、むしろ仕事の面においてはブレントへの協力すら惜しんでいない。
しかしケニスはそんなティアファナの心を読んだように首を振る。
「やっと十代も半ばになった君を取り上げてしまった。勿論後悔はしていないが。しかし結婚してからというもの、君がこうして実家に帰った事はなかっただろう?配慮が足りなかった」
「い、いいえ、私がそうしたかったんです。ケニスには――」
言い募ろうとした唇は伸びて来たケニスのもう片方の指に遮られた。
「君の部屋を見ていて思ったんだ。きちんと今もこうして整えられている、何一つ埃を被る事無く」
ケニスの言葉にティアファナも頷いた。
帰ると連絡をしてから整えられた訳ではなさそうな部屋は、ティアファナが知らない新しいカーテンも掛けられている。
先程も父にどれほど寂しい思いをさせていたかを悟ったばかりだ、娘のいない部屋を父がどんな思いで整えていたかを思うと胸が苦しくなる。
「明日、父様と庭で食事を取ると約束をしたんです。体が丈夫ではなかった母と父が昔そうしていたように」
「それがいい。暇を取って旅行へ出るのもいいな。君も異国へ行った事はないんだろう?」
「はい。ケニスは色々な国を知っていらっしゃるんでしょうね」
「どこもそれぞれに素晴らしいよ」
カップを置いたケニスがティアファナを抱き上げて来るのに従って、体を預けその胸に頬をくっ付ける。
どくんどくんと聞こえて来る鼓動が何よりティアファナを安堵させた。
「いつか、ブレント殿と一緒に行ってみよう。彼も色々とご存知だとは思うが、きっと君と一緒なら景色も全く違って見えるに違いない」
「父と?」
顔を上げたティアファナにケニスは頷く。
ティアファナにとっては考えもしない事だった、幼い頃から深い愛情を注いでくれた父ではあるが仕事が忙しく接した時間は兄と比べれば格段に少ない。
そして思い当たり、だからこそ父はそれを言い出せないのではないかと気付いた。
思い返せばいつでも父の手紙にはティアファナを励ます言葉だけだった、顔を見せろと催促をされた事は一度としてなかったのだ。
「そうしたい、です……私、もっと父と……」
込み上げて来た涙を堪えようと唇を少し噛んだ所為で言葉は声にならなかった。
だがそれをしっかり聞き取ったのだろう、ケニスはティアファナの髪を撫で続ける。
「ティア、君は俺の妻だが、彼の娘でもある。ずっとね」
「……はい。あの、明日の食事は私が作る事にしたんです」
「そうか。じゃあ支度をして、今日はもう君も休まないと」
目元を拭って頷いたティアファナは部屋を出て、すぐに歩み寄って来たアナにその旨を伝え寝る支度をする事にした。
衣装部屋から着替えを取って来たアナと共に浴室へと向かっていると、ふとティアファナは気付いてアナに顔を向ける。
「私は客室で寝た方がいいかしら」
「何故です?」
「旦那様は怪我をしているのだし、あのまま私の寝室をお使い頂いて――」
「無駄手間ですね」
服を抱えきっぱりと首を横に振ったアナにティアファナが首を傾げる。
「どうせ旦那様はティアファナ様を追いかけて客室まで行ってしまわれるに決まってます。大変無駄手間です」
「そんな事は……」
ないとも言い切れない気がした、突如ティアファナはケニスがここまで追いかけて来てくれた事を思い出して赤面する。
「よろしゅうございましたね、ティアファナ様」
「アナ……ありがとう」
にっこりと笑ったアナにティアファナは再び涙を堪えて前を向いた。
そう、追いかけて来てくれた、記憶がなくとも彼は自分を妻だと否定しなかった。
それがとても嬉しい、自分のやって来た事を少しでも認めて貰えたようだった。
「そうだわ、明日庭で食事をとる事にしたの、皆で。朝支度をするから手伝って欲しいわ」
「構いませんよ。…………何ですって?」
ティアファナをぎょろりと見たアナに驚きながらももう一度言う。
するとアナはあちこちに視線を彷徨わせた挙句、辿り着いた浴室の扉に凭れかかって大きく溜息を吐き出した。
「アナ?」
「いいえ、ティアファナ様、よろしゅうございます。このアナ、ティアファナ様付きの侍女としまして、なすべき事をなす所存にございますとも!ええ、ええ、例え戦場であろうともアナがティアファナ様をお守り致しますっ」
ぐっと拳を握り締め深く頷いたアナに「戦場ではなく庭なのだけれど」とは言えないティアファナだ。
しかしその熱気に当てられるようにティアファナも密かに頷く。
少なくとも四人分の食事を用意するのは初めての事だ、今までは父や兄と夫や義母くらいのものだったのだから、多少勝手は違うだろう。
朝早くから作り始めなければ間に合わないかも知れない、ティアファナはその事に気付いて慌てて浴室に飛び込む羽目になった。
結論から言えば客室は必要がなかった、それはアナの言った通りではなく客室に行くまでもなかったという事だが。
ケニスの様子をもう一度見てから休もうとしたティアファナをケニスがベッドに引き摺り込み、よく眠っていなかった事もあってあっという間にティアファナが眠りに落ちてしまったからだ。
夫の腕に抱かれて眠りに落ちる寸前、ティアファナは安堵と共にとても不思議な思いを感じた。
自分を抱き締めピッタリと寄り添うケニスの体がまるで自分の一部のように感じたのだ。
心が近くになったように、何故かふとそう感じる。
ティアファナはそれがどうしてか考えようとはせず、ただ髪を梳いて来るケニスの手の大きさに目を閉じた。
翌朝はまさしく戦場だった、厨房に立ったティアファナの許へケニスやブレントやディーンが入れ替わり立ち替わりやって来て、最終的には我慢し切れなくなったコックに追い出された。
その甲斐もあってか日が真上より傾いた頃には全て出来上がり、ティアファナは並べた料理を前に満足げに頷く。
「お嬢様、後は私共がやりますから」
「そうです、ティアファナ様、お着替えをっ」
厨房前でうろうろしていた料理が全く出来ないアナもここぞと半ば悲鳴を上げながらティアファナを部屋へと引き摺って行く。
彼女はどうにもティアファナが汚れるのを極端に嫌っていた。
「さあさあ、髪を解いて、支度をしなくては。このままでは旦那様達の髪も髭も伸び切って床に付きますよ」
口髭を生やしているブレントのものが一瞬にして伸び切ってしまうのを想像して思わずティアファナは声を上げて笑った。
「そう、そのお顔を見れば旦那様達も文句は仰らないでしょう。尤も、一言も口を利けなくなりそうですがね」
意味のわからなかったティアファナはそれに曖昧に頷いて支度を始めた。
とてもふわふわとした気持ちで、このところ沈んでいた気持ちが一気に引き上げられて空を舞っているかのようだと思う。
ティアファナは鏡の前でにっこりと笑った。
ここへ帰って来た事が間違いではなかった気がして、それがとても嬉しかった。