表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
9/32

第八章:囁く肉体、揺れる官能

 東京拘置所・精神鑑定病棟。香屋匠真は、分厚いガラスの向こうで両手を膝に置き、静かに座っていた。


 彼の目は焦点を結ばず、しかし嗅覚だけは過敏に生きている。室内のわずかな湿気や、看守の汗、隣室から漂ってくる漂白剤の匂いにすら、微かに眉を動かして反応する。


 そこに現れたのは——朝永清志。


 「冴子が死んだ。君も近いうちに、そうなるか?」


 匠真は、ゆっくりと顔を上げた。


 「死? 違う……僕は“完成”する」


 「“第十三の香り”を自らの身体で体現するということか」


 「違う。僕は“分離”する。記憶も意識も、断ち切られた肉片のように、香りとして漂わせるんだ」


 朝永は椅子に腰を下ろした。カバンから取り出したのは、冷蔵保存された小瓶。ラベルには《No.13 - prelude》とある。


 「地下温室で発見された瓶だ。内部の成分は、君の精液と……澪の汗、冴子の涙。三人の“官能の液体”が調香されていた」


 匠真の目が細くなった。「それは、試作品。まだ足りない。まだ、足りない……」


 彼は突然、看守の目前で自らの舌を噛み切ろうとした。拘束椅子に押さえつけられ、緊急ブザーが鳴る。医療班がなだれ込むその混乱の中で、匠真は血を垂らしながら、朝永に囁いた。


 「“香り”は……蔓延していく。刑務所にも、議事堂にも、君の……家にも」


 同時刻——


 朝永の自宅では、小学校に通う娘が、奇妙な香水瓶を手に取っていた。送り主不明の小包。瓶を開けた瞬間、部屋の空気が湿り、彼女の目が虚ろに揺れた。


 「パパ、これ……いい匂い」


 妻の悲鳴。転倒する食器。割れたガラスの向こう、香りはすでに家族へと侵食を始めていた。


 香屋匠真の最後の調香は、肉体を離れ、空間と社会を超えて“撒かれていた”。


 ——狂気は、もはや監禁されていない。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ