第八章:囁く肉体、揺れる官能
東京拘置所・精神鑑定病棟。香屋匠真は、分厚いガラスの向こうで両手を膝に置き、静かに座っていた。
彼の目は焦点を結ばず、しかし嗅覚だけは過敏に生きている。室内のわずかな湿気や、看守の汗、隣室から漂ってくる漂白剤の匂いにすら、微かに眉を動かして反応する。
そこに現れたのは——朝永清志。
「冴子が死んだ。君も近いうちに、そうなるか?」
匠真は、ゆっくりと顔を上げた。
「死? 違う……僕は“完成”する」
「“第十三の香り”を自らの身体で体現するということか」
「違う。僕は“分離”する。記憶も意識も、断ち切られた肉片のように、香りとして漂わせるんだ」
朝永は椅子に腰を下ろした。カバンから取り出したのは、冷蔵保存された小瓶。ラベルには《No.13 - prelude》とある。
「地下温室で発見された瓶だ。内部の成分は、君の精液と……澪の汗、冴子の涙。三人の“官能の液体”が調香されていた」
匠真の目が細くなった。「それは、試作品。まだ足りない。まだ、足りない……」
彼は突然、看守の目前で自らの舌を噛み切ろうとした。拘束椅子に押さえつけられ、緊急ブザーが鳴る。医療班がなだれ込むその混乱の中で、匠真は血を垂らしながら、朝永に囁いた。
「“香り”は……蔓延していく。刑務所にも、議事堂にも、君の……家にも」
同時刻——
朝永の自宅では、小学校に通う娘が、奇妙な香水瓶を手に取っていた。送り主不明の小包。瓶を開けた瞬間、部屋の空気が湿り、彼女の目が虚ろに揺れた。
「パパ、これ……いい匂い」
妻の悲鳴。転倒する食器。割れたガラスの向こう、香りはすでに家族へと侵食を始めていた。
香屋匠真の最後の調香は、肉体を離れ、空間と社会を超えて“撒かれていた”。
——狂気は、もはや監禁されていない。




