第七章:監獄と調香室の境界線
警視庁地下の第七留置施設。鉄の扉と防音壁に囲まれた密室の一室。拘束された如月澪は、椅子に深く腰掛け、片脚の義足がないまま、静かに香りを漂わせていた。
取調室に入ってきたのは、朝永清志。ただ一人、彼女の「香り」に免疫を持つ男だった。
「君の体液、汗、呼気、血液に至るまで、全てが調香されている」
彼はデータシートを叩きつけた。「検査結果だ。ムスク類、フェロール、メチルカテコール……人体から自然には発生し得ない濃度だ。君の体はすでに“香水瓶”じゃない。化学兵器だ」
澪は微笑む。「でも……あなたは私の香りに屈しない。なぜ?」
「元妻が、君と似た体質だった。嗅覚に支配される愛情の恐ろしさは、もう知っている」
朝永はゆっくりと資料を閉じた。
「君の共犯者——香屋冴子と香屋匠真は、いずれも黙秘を続けている。だが、地下温室で見つかった記録デバイスが一部解析された。“第十三の香り計画”……これが何か教えてくれないか?」
澪は一瞬だけ目を伏せ、次に視線を上げたときには、狂気の笑みが浮かんでいた。
「それはね、官能の中にしか存在し得ない“絶香”……記憶を殺す香りよ。人間が自我を失い、ただ肉と香りとして存在するための境界を壊す。私たちはそのために、自分の肉体を分け与えてきたの」
朝永は静かに言った。「その香りを拡散させるつもりだったのか?」
「違う。香りに“なる”のよ」
取り調べ室の空気が、微かに変化した。警備員がひとり、額に汗を浮かべて倒れた。
「まさか……!」
天井の通気口から、ゆるやかに香気が流れ出していた。
「この部屋にも……仕込んでいたのか」
「私たちは、どこにでも拡がる。目に見えない“匂い”は、監獄をすり抜ける。権力も正義も、香りには逆らえない」
その瞬間、朝永の無線が鳴った。
『第四収容室で異常。香屋冴子が、自傷行為の末、失血死』
澪の笑みが深まった。
「彼女は“完成”したのよ。香りとして、瓶に詰められるのを待ってる。次は……匠真。彼の香りが、まだ足りない」
朝永は無言で立ち上がった。だがその胸中に、かすかに芽生えていた感情は——嫌悪ではなく、郷愁に近いものだった。
狂気と香りの狭間で、人はどこまで“人間”でいられるのか。