第六章:血の香り、芳醇にして盲目
捜査令状が出たのは、午前3時13分。
名古屋西署と公安部の合同特別班が、「Musc Noir」の地下室へ突入したのは、それからわずか28分後だった。ドアを蹴破って突入した隊員たちがまず感じたのは、鼻腔を焼くような——それでいてどこか陶酔を誘う“香り”だった。
「これは……合成ではない。人体から抽出した、香気……?」
隊員のひとりがうめいた。
地下温室。熱帯植物の葉が生い茂るその奥に、香屋匠真は白衣姿で佇んでいた。手には銀のナイフ。刃先からは澪の血が、雫となって滴り落ちていた。
「止まらないで……ここまで来たんだもの」
如月澪は、義足を外された状態で、手術台に横たわっていた。右脚の膝下がすでに切断されており、血止めは甘く、あちこちから流れ出した血液が床を赤く染めていた。
その顔には、明確な恍惚が浮かんでいた。
「彼女はもう“人間”ではない。匂いそのものだ」
冴子が言った。艶やかな黒髪を垂らし、香油で濡れた皮膚は光っている。冴子自身の太腿も一部が抉られており、瓶詰された肉片が冷蔵ケースに並んでいた。
朝永清志が踏み込んだのは、まさにその瞬間だった。
「動くな、香屋冴子、香屋匠真、如月澪……君たちを、殺人罪および死体損壊、薬機法違反により現行犯逮捕する」
だが誰一人、抵抗しなかった。
澪は、ふと微笑んだ。
「香りは……捕まえられない」
その直後、温室の換気装置が自動的に作動した。
「何だ!?」
濃縮された香気が、一気に換気口から放出される。薬品に混じったフェロモン、アルデヒド、断肢由来の油脂と、ムスク——それは極限まで濃縮された、催淫と幻覚の“霧”だった。
突入部隊の一部がその場で倒れ、残る者は瞳孔が開き、口からよだれを垂らしながら動きを止めた。
「これは……計画されていた……自爆ではなく“拡散”だ」
朝永だけが、防毒マスクを着けていた。
彼は澪に近づき、静かに囁く。
「君はもう、証拠の一部じゃない。香りそのものだ。だがそれは——犯罪の香りだ」
そしてその場で、澪の手首に手錠をかけた。
「拘束されても……香りは、残る」
その瞬間、澪の眼差しが一瞬だけ曇った。
匂いとは記憶であり、痛みであり、愛だった。拘束された身体とは裏腹に、彼女の魂はなお、地下温室に芳しく漂い続けていた。