エピローグ:フレグランス・オブ・ミッシング・リム
香りに満たされた都市の朝は、かつてと違って静かだった。空気は未だ微細な芳香粒子を含みながらも、それは人々にとってすでに“共に在るもの”となっていた。
朝永は、新たに設立された《香律記録庁》の片隅で、ひとつの瓶を見つめていた。中には、彼の失われた右手──その記憶に最も近い香りが封じられている。鉄錆、静電気、乾いた血、母の髪に似た柑橘香。そして、それを受け入れたときの熱。
彼の仕事は、香りを「記録」することから「継承」することへと変わっていた。身体の欠損や感情の断裂、性癖や愛執までもが香りに編まれ、次代へ手渡されていく。
かつて忌避された「フェティッシュ」は、今や個人を識別する高次の署名となった。マゾヒズムもアクロトモフィリアも、嗅覚の中で暴かれることなく、ただ在るものとして受け止められた。
ユグ=オルファは、《香律大学》の講座で教鞭を執っていた。テーマは「感情の可視化と香覚の倫理」。彼女の周囲には常に、重度の欠損者や嗅覚共感者たちが集まっていた。
都市の外れ、《脱香区》と呼ばれる地域には、いまだ無臭主義を貫く者たちがいたが、彼らもまたひとつの“香り”として都市に記録されていた。
中枢塔の跡地には、香りの記憶を沈める巨大な「香律池」が作られた。そこに集められたかつての暴力と苦痛の香りは、永遠に記録され、しかし誰にも強制されることなく沈黙を守っていた。
朝永はその池の前で、ひとり静かに目を閉じる。
「俺の中にはまだ、痛みの香りがある。けどそれは、消すものじゃない。生きていることの、証なんだ。」
香りは傷を癒すものであり、愛であり、そして何より「記憶の器官」として──彼の中で生き続けていた。




