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第三十章:終焉と始原(オーデ)

 朝永が《フィナーレ・ノート》に手を触れた瞬間、塔の地下空間全体が震えた。圧縮された芳香粒子がカプセルから解き放たれ、瞬時に都市ノスフィラへと拡散していく。


 すべての嗅覚ネットワークは同時に書き換えられ、都市中のあらゆる香りがひとつの“原型”へと統合されていった。甘くもなく、苦くもなく、懐かしさと痛みが同時に立ち上る香り。それは、記憶の起源そのものであった。


 《ドクサ》の私兵たちは、突然香りの洪水に晒され、ひとりまたひとりとその場に崩れ落ちた。

 暴力の意志が溶け出し、武器を持つ指が震える。殺意は香りによって中和され、感情の剥き出しの核心へ引き戻されていった。


 ユグ=オルファが呻いた。「これは……無意識そのもの。香りが感情の地層に到達した……」


 朝永の耳元で、再び父の声が香りに乗って囁かれる。

 「これは私の贖罪であり、お前の始まりだ。人は身体の欠損だけでなく、記憶の喪失さえ香りで埋められる。だが、その先にあるのは……」


 塔の外で、都市の空が変色していた。虹彩を帯びた芳香粒子が天を満たし、人々はその中で立ち止まり、泣き、笑い、手を繋ぎはじめた。


 《ノスフィラ》は新たな段階へと移行していた。香りは言葉ではなく、暴力でもない。香りは存在の根底に触れる。


 ──都市中枢にある“嗅覚中枢塔”が解体される映像が各端末に流れる。

 ──“無臭法”が無効とされ、新たな香律合憲制度の構築が発表される。

 ──ドクサの幹部たちが、自ら香りに呑まれ、記憶の中で泣き崩れる映像が流出する。


 ユグ=オルファが肩を震わせて言った。「これが……終わりであり、始まり。あなたは……どうするの?」


 朝永は答えた。

 「俺は、香りを記憶する者になる。忘れられた四肢や傷跡のために、香りを編む職人になる。」


 彼の背後で、カプセルの中の胎児がゆっくりとまぶたを開けた。

 その瞳には、香りのすべてが映っていた。

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