第二十九章:香律の臨界点
都市全域に、突如として“未知の香気干渉”が発生した。公式には発表されていないが、嗅覚インフラに異常をきたす致命的なフェロモン系拡散事故とされていた。
だが、それは事故ではなかった。
朝永とユグ=オルファは、保存室で得た父・道弘の記録を手がかりに、かつての香律中枢“アストラ塔”地下に封じられた“香律の源泉”へと向かっていた。
「この塔の地下には、すべての香律を統合する“基底調香子”がある。父さんはそれを……完成させようとしていた」
地下深くへ進むごとに、空気の密度が変わる。香りの粒子が重たくなり、まるで嗅覚そのものが圧縮されるようだった。
そこには巨大なカプセルが埋め込まれていた。中に浮かんでいたのは、完全に香覚を制御された“調香士の胎児”──香律の臨界点そのものだった。
「これが……人間ではない、“香り”として生まれた存在……」
ユグ=オルファが言った。
「これは、倫理の破壊よ。でも……香りを言語化しきれない人類が、香りそのもので何を伝えようとしたのか……この子に答えがある」
その瞬間、警報が鳴り響いた。
《ドクサ》の私兵部隊が、塔を包囲したのだ。
朝永は、胎児の生命維持装置に手をかけた。
「この子を解放すれば、香りは都市を包み、全ての偽りが消える。だが、戻れなくなるかもしれない」
ユグ=オルファは静かに頷いた。
「選んで、朝永。私たちは“嗅覚で生きる”のか、“無臭で生き残る”のか──」
彼は、香律の源泉に手を伸ばした──。




