第二十七章:中枢塔の亡霊たち
香律中枢塔は、まるで廃墟のように沈黙していた。
香りのないその空間では、かつて“記憶”として振動していた香料が、ただの分子に戻り、死んだように沈殿していた。
ユグ=オルファは、香律保存室の奥にある旧式の“芳香記録装置”を起動させようとしていた。
それは香りを再現するのではなく、記録された“嗅覚の亡霊”を呼び出す機械だった。
「これは危険すぎる。あの装置に封じられていたのは、戦前の“抹消香”だ」
朝永は声を荒げた。
だがユグ=オルファは言い返した。
「香りを取り戻すには、死者の声に耳を傾けるしかないのよ」
起動音とともに、室内にかすかな“過去の香り”が満ちていく。
血と汗、焼け焦げた人工皮膚、失われた四肢の記憶──それらが空気を通じて溢れ出す。
記録された香りの中に、朝永は見覚えのある“断片”を感じ取った。
「これは……父の、香りだ」
父、朝永道弘──元・香律技官。失踪し、香りだけを残して消えた男。
その痕跡が、この亡霊の中にあった。
「お前の香りは、未完成だったな」
突如、背後から誰かの声が響いた。
振り向くと、そこにいたのは《ドクサ》だった。
「お前の父は、私の“最初の患者”だったよ。香りが語れぬものまで語ろうとして、狂った」
ユグ=オルファはドクサに対し、装置の電源コードを抜きながら叫んだ。
「これは戦争じゃない。記憶の発掘作業よ。あなたたちは、ただ拒絶しているだけ」
ドクサは微笑みながら退いた。
「そうか。では、掘り続けるがいい。だが深く潜りすぎるな。“香りの底”には、お前たちが戻れない何かが眠っている」
香律保存室は再び静寂に包まれた。
朝永は父の香りの残滓を胸に吸い込みながら、未来を嗅ぎ分けようとする。
その先に、香りの暴走か、香りの昇華か──まだ分からなかった。




