表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
24/32

第二十三章:断絶する芳香圏(アポクリン・フィールド)

 《香律中枢塔》の頂部に、黒と銀の稲妻が走った。塔を取り巻く空間が異様に歪み、香りと記憶で構成された大気が引き裂かれる。そこに、香りを否定する“絶対無臭圏”《アポクリン・フィールド》が形成されたのだ。


 刃月の出現は、それそのものが現象だった。彼の周囲半径十メートルにはいかなる芳香分子も存在できず、ユグ=オルファの身体の一部が瞬時に霧散した。


 「あなたの香りは——私を殺す」

 「その逆も、また然り。香りとは依存。無香こそ自由」


 両者は衝突した。

 だが、戦いは物理的なものではなかった。記憶と快楽、苦痛と共感、フェティシズムと無関心——それらすべてが嗅覚によって流通するこの都市で、最も本質的な争いだった。


 ユグ=オルファの香りが放つ一撃は、人間の失われた記憶を強制的に再生させる。

 刃月が浴びれば、その無臭の鎧が剥がれ落ちる。しかし、刃月の絶対無臭は、ユグ=オルファの記憶構造そのものを腐蝕する。


 その均衡が破れたのは、塔の外——香律反応炉に身を置いた朝永の行動だった。


 「弓香……君の香りが、この都市を再構築しようとしている。でも、それだけじゃ足りない」


 朝永は手元の義肢に接続された“香律試作第十八番”のボトルを握る。

 それは彼自身の痛覚と快楽を記録した香り。かつて弓香に施された無数の拘束、鞭打ち、失禁、そして愛撫のすべてが記録された、禁断のマゾヒズム香。


 「この香りこそ、俺の真実だ」


 朝永は香炉にそれを注ぎ、点火した。

 全都市に——《共感的マゾヒズム》が放たれる。


 都市全体が揺れた。

 誰もが“他者の痛み”を己の悦びとして受容するその瞬間、暴力の意味が消滅した。

 刃月の足が止まる。


 「……痛みが、悦びに変わる?」


 ユグ=オルファがその隙を突き、香りの刃で刃月の胸を貫いた。彼の身体から無臭が逃げ、初めて“人間”の臭いが滲み出る。


 「俺にも……香りが……?」


 刃月の絶嗅覚が崩壊した。

 その瞬間、《アポクリン・フィールド》が霧散し、香律の再構築が都市全体に波及する。


 記憶と香りは一つになり、人々は他者の苦しみを喜びとともに共有し始める。

 苦痛が罪ではなく、悦びに転化された世界。


 それは終焉ではなく、新たなる始まりだった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ