第二十三章:断絶する芳香圏(アポクリン・フィールド)
《香律中枢塔》の頂部に、黒と銀の稲妻が走った。塔を取り巻く空間が異様に歪み、香りと記憶で構成された大気が引き裂かれる。そこに、香りを否定する“絶対無臭圏”《アポクリン・フィールド》が形成されたのだ。
刃月の出現は、それそのものが現象だった。彼の周囲半径十メートルにはいかなる芳香分子も存在できず、ユグ=オルファの身体の一部が瞬時に霧散した。
「あなたの香りは——私を殺す」
「その逆も、また然り。香りとは依存。無香こそ自由」
両者は衝突した。
だが、戦いは物理的なものではなかった。記憶と快楽、苦痛と共感、フェティシズムと無関心——それらすべてが嗅覚によって流通するこの都市で、最も本質的な争いだった。
ユグ=オルファの香りが放つ一撃は、人間の失われた記憶を強制的に再生させる。
刃月が浴びれば、その無臭の鎧が剥がれ落ちる。しかし、刃月の絶対無臭は、ユグ=オルファの記憶構造そのものを腐蝕する。
その均衡が破れたのは、塔の外——香律反応炉に身を置いた朝永の行動だった。
「弓香……君の香りが、この都市を再構築しようとしている。でも、それだけじゃ足りない」
朝永は手元の義肢に接続された“香律試作第十八番”のボトルを握る。
それは彼自身の痛覚と快楽を記録した香り。かつて弓香に施された無数の拘束、鞭打ち、失禁、そして愛撫のすべてが記録された、禁断のマゾヒズム香。
「この香りこそ、俺の真実だ」
朝永は香炉にそれを注ぎ、点火した。
全都市に——《共感的マゾヒズム》が放たれる。
都市全体が揺れた。
誰もが“他者の痛み”を己の悦びとして受容するその瞬間、暴力の意味が消滅した。
刃月の足が止まる。
「……痛みが、悦びに変わる?」
ユグ=オルファがその隙を突き、香りの刃で刃月の胸を貫いた。彼の身体から無臭が逃げ、初めて“人間”の臭いが滲み出る。
「俺にも……香りが……?」
刃月の絶嗅覚が崩壊した。
その瞬間、《アポクリン・フィールド》が霧散し、香律の再構築が都市全体に波及する。
記憶と香りは一つになり、人々は他者の苦しみを喜びとともに共有し始める。
苦痛が罪ではなく、悦びに転化された世界。
それは終焉ではなく、新たなる始まりだった。




