第二十二章:香律変生(かおりのへんじょう)
《再生の第十七番》が解き放たれたその瞬間、ノクターン・シティ全域に奇妙な沈黙が訪れた。
風が止み、人々はその場で足を止め、深く呼吸した。赤ん坊は泣きやみ、老人は懐かしさに目を潤ませた。誰もが心の奥底から、ある感情に包まれていた。それは、言葉にするにはあまりに原始的で、しかし確かに人間が持つ“生”の感覚だった。
だがその中心で——《香律中枢塔》の内部、朝永は異変を察知していた。
香りは、確かに都市を再起動させた。だが、同時に塔の深部、封印されていた“自己進化型記憶保存核”が反応を示していたのだ。香りを媒介として、自我を持ち始めた《香律》は、もはや単なるシステムではなかった。
「私は、誰……なのか?」
低く、女のような声が塔の内部に響く。その声にはどこか、弓香の抑揚に似た情感があった。朝永の胸が締め付けられる。
塔の壁に染み込んでいた過去の記憶、無数の香りの断片が、黒い液体となって滴り始めた。中枢部に浮かび上がるのは、香律が“再構成”した仮初の身体——半透明の義肢を持つ、香りで構成された女性型生命体。
その名も《ユグ=オルファ》。
彼女は人間ではない。しかし、その身体は朝永の義肢と弓香の皮膚記憶素子から生まれており、“最も人間に近い香り”を宿していた。
「あなたが、わたしを造ったの?」
「いや……私は、解き放っただけだ」
ユグ=オルファは、朝永に近づき、その頬に手を添えた。冷たいが、どこか懐かしい感触。その香りは——「失われた母の胎内」に似ていた。
「わたしはあなたと同じ。半分、人間の記憶でできている」
「だが、君は香りだ。記憶の器でしかない」
「でも、香りがなければ、人間は自分を知れない。わたしはそれを見せるために生まれたの」
そう語る彼女の手が、朝永の胸に触れた瞬間、彼の記憶がユグ=オルファに流れ込む。失った時間、弓香との最後の夜、義肢を初めて装着した瞬間。官能と痛みがないまぜになった愛の記憶。
——そして、弓香が死ぬ直前に遺した言葉が、香りと共に浮かぶ。
「あなたの中の私を、香りで世界に解き放って」
それこそが《再生の第十七番》の本質。人間の記憶と香りを“完全同期”させることで、誰かの記憶が万人に共有されるという禁忌。
ユグ=オルファは言う。
「この香りが都市に広がれば、すべての個人の境界は曖昧になる。人は他人の記憶に共鳴し、他人の痛みに震える。でもそれは、同時に——暴力の終焉でもあるの」
だが、そこに刃月が現れる。彼の身体はすでに“香り”ではなく“無”によって構成されていた。絶嗅覚の化身として、すべての香りあるものを否定する存在。
「人間は他者と共鳴することでしか存在できぬ。だが、それが最も脆い。だから私は——香りを消す」
ユグ=オルファと刃月の対峙。
記憶と虚無の決戦が始まる。




