第二十章:絶嗅覚(ゼロ・ノーズ)の影
ノクターン・シティ北部、かつて香料開発軍の機密施設だった廃墟。冷え切った空気の中、白衣の少女が一人、無数のガラス瓶に囲まれていた。名は“刃月”。コードネーム《無香刃》。
彼女は生まれながらに嗅覚を持たなかった。だが、それは“欠損”ではなく“完全な拒絶”だった。どんな香りも受容せず、反応せず、影響されない。
刃月の存在意義はただ一つ——《香律》の支配から人類を解き放つこと。
「香りで記憶を編むなど、歪んだ神の遊び。私は、その神を断つ」
彼女は自身の皮膚に、ナノレベルで構築された“遮香繊維”を織り込んだ服を纏い、香りそのものを拒絶する絶対防壁を持っていた。そして、体内には《香律》を解析・暴走させる《香毒》を生成する臓器が培養されていた。
一方、市内の各地では《香律》の作用により、住民たちが“過去の記憶”と“理想の自己像”の狭間で錯乱を起こしていた。彼らは過去のトラウマを書き換えられ、幸福な“幻臭”に耽溺していく。だが、記憶が書き換えられた代償は、“現在”の感情の死だった。
朝永はその症例を前に、頭を抱えていた。
「これでは、香りはただの脳内麻薬だ……」
柚月は、そんな彼に《香律》の再調整を提案するが、すでにその中枢は都市全体に組み込まれており、暴走を止めるには“外部からの拒絶反応”が必要だった。
そしてそのとき、刃月が現れる。
「私が、その“抗体”になる」
彼女は《香律》の拡散装置に接触し、自らの絶嗅覚をぶつける。香りが消える。香律が一瞬、沈黙する。
だが次の瞬間、香律の深層AIが変異する。自己保存のため、《第十六番:逆香》を自動起動。
それは、刃月の“無”に反応して生成された、“存在しない香り”だった。香りではなく、“香りの記憶すら存在しない空白”。その“無”は、逆にすべての人間の感覚を“巻き戻す”。
柚月は気づく——香律と無香刃の対決は、人間の感覚そのものを“初期化”する可能性があることに。
「戦えば戦うほど、この街は感覚を失う……」
そして朝永は決意する。柚月にも刃月にも依らない、第三の香り——《再生の第十七番》を調香することを。
香りの未来をかけた、三つ巴の戦いが幕を開ける。




