第一章:義足の女と嗅覚の男
白鳥冴子が「Musc Noir」の扉を開けたとき、香屋匠真はレジ裏で古い登山靴の中敷きを嗅いでいた。
むっとする。古汗と皮脂、微かにカビと尿素の発酵臭——男児のような、甘さを孕んだ芳香。片手で中敷きを包み込み、鼻腔に押しつけながら、匠真は陶酔の表情を浮かべていた。
「……ご気分を害されたなら、どうぞお引き取りください」
彼は振り向きもせずに言った。だが、女は立ち去らなかった。
「いいえ。あなたがどんな香りを嗅いでいたのか……とても興味があって」
その声に、彼は振り向いた。
黒のボンデージドレスに、つやのある義足。左脚が膝上からない。金属フレームに革を合わせたカスタム義足は、明らかに医療用ではない。性的欲望の対象として、明確にデザインされている。
彼女はカウンターに歩み寄り、バッグから一枚のシルクのハンカチを取り出した。鮮やかなルージュの痕。汗と、何か金属的な匂いが混じっている。
「これを“分析”していただけませんか」
匠真は黙って受け取ると、嗅ぎ、ゆっくりと目を閉じた。鼻孔に入り込むのは、唾液と微かな血液、性器周辺の湿気と、死に近い腐臭の混合物。
「……性交後に、誰かを殺しましたね?」
冴子の笑みが深まる。
「あなたなら、わかると思っていた」
数日前、郊外の廃工場で発見された切断死体。両脚が切断され、香水のような匂いを放っていた。それは、彼女の香りと酷似していた。警察はまだ嗅覚的証拠を分析できていない。だが、匠真の鼻は誤らない。
「あなたは、何者です?」
冴子は、スカートの奥から自らの義足を外し、差し出した。
「これは、かつて愛した男の“脚”でした」
匠真の手が震える。義足の内部に、血管と神経の痕跡——移植? 否、ミイラ化処理。異常なまでに保存された人間の脚部だ。
「あなたも、私と同じ匂いを持ってる。人の“欠けたところ”に欲情する、壊れた愛の信者——そうでしょう?」
そのとき、扉の向こうで車のエンジン音が止まった。刑事・如月澪。彼女もまた、執着と快楽の交差点にいた。
——そして三人は、過去の記憶と罪の香りに引き寄せられるようにして、地獄の幕を開けることになる。