第十八章:原初の調香、記憶の迷宮
《第零番》——それはすべての香りの“根源”であり、同時に“無”でもあった。
柚月はそれを手に、旧中央塔の地階、禁忌とされた実験室跡に足を踏み入れた。センサーが空気を読み取り、嗅覚信号を脳内へ直接送信するたび、彼女の記憶は過去と現在を行き来した。
そこには存在しないはずの香り——だが、確かに“覚えている匂い”があった。
『母の髪に染み込んでいた香り』『父が死の間際に残した焦げた汗の匂い』——そのすべてが、今この空間に再現されている。
「これは、私自身……いや、人間すべての記憶」
《第零番》が呼び覚ましたのは個人の記憶ではなく、人間種そのものの嗅覚記録だった。香りはDNAと結びつき、祖先の感情すら再現しうる装置となっていたのだ。
一方、朝永と澪は柚月の動向を追っていた。市民の嗅覚暴走事件が各所で報告されはじめたからだ。
「“香りがない”はずの都市で、なぜ香気性幻覚が広がっている?」
「それはきっと、香りではない。“記憶”が放たれているのよ」
澪の直感が正しければ、この都市は再び“香り”の支配を受けるだろう。ただしそれは、今度は“嗅覚”ではなく“記憶”によって——。
その頃、柚月の前に幻影が現れた。片腕の調香師・玲央。
「君が《第零番》を選んだのか」
「……あなたはもう、死んだはず」
「私は“香りの記憶”だ。消せない罪、消えない願望、それを君に託す」
幻影は柚月の嗅覚センサーに手を触れ、残香を残した。その瞬間、柚月の視界に新たな設計図が投影される。
《第十五番:香律》——香りによって法を定め、記憶を秩序化する最後のレシピ。
柚月の目が静かに見開かれた。
「香りで人を殺す時代は終わった……これからは、香りで記憶を守る」
ノクターン・シティの新たな運命は、再び少女の嗅覚に委ねられようとしていた。