第十六章:無香都市の誕生
《香殺》が拡散されてから四十八時間後、ノクターン・シティは沈黙の都市となっていた。
街角からは香水の販売機が撤去され、調香所の扉には封印が施されていた。人々は、まだどこか放心したような面持ちで歩いていたが、それでも確かに“自分の足で”歩き出していた。
朝永清志は廃墟となった中央塔の頂で、風に吹かれながら街を見下ろしていた。
「……静かだな」
澪が隣に立った。
「香りが消えて、ようやく他人の存在を“感じる”ようになった。皮肉ね」
「香りで人をつなぐこともできた。でも、それに溺れた俺たちは、自分の感覚すら失っていたんだ」
その頃、都市各地では“嗅覚リハビリテーション”が始まっていた。香りを断った市民たちの中には、頭痛や幻臭に悩まされる者も少なくなかった。だが、それは“自分の記憶”を再獲得するための痛みでもあった。
一方、玲央の遺体は見つからなかった。塔の最奥に残された《レテ》の調香レシピと、微かに残った香気だけが彼の痕跡を物語っていた。
「彼は本当に死んだのかしら」
澪の問いに、朝永は答えなかった。風が都市を駆け抜けていく。
そしてその夜、地下の旧下水道でひとりの少女が目覚めた。髪を短く刈り、片腕を失い、瞳に一切の表情を宿さぬ彼女は、ゆっくりと嗅覚センサーの仮面を被った。
「……匂わない、世界」
それが、新たな香りの物語の始まりであることを、まだ誰も知らなかった。