第十五章:香殺(サナトリアム)の夜
調香薬《香殺》の容器を握る朝永清志の指は、震えていた。それは恐怖ではなかった。自らの過去と決着をつける覚悟が、肉体の奥底から湧き上がってくるような感覚だった。
玲央が都市を支配しようとしている——その事実よりも、朝永の胸を締めつけたのは、娘・千紗の姿だった。彼女は香りに覆われ、もはや“自我”を失い、人工的な香りに反応して機械的に微笑むだけの存在になっていた。
「千紗……」
彼はそっと、冷却室の扉を閉じた。爆破装置はすでに作動している。《香殺》の拡散システムを起動すれば、ノクターン・シティ全域に“嗅覚死”が広がる。香りを媒介とするすべての記憶と操作を断ち切る——文字通り、香りによる支配の終焉。
同時刻、玲央は都市の中央塔にて、《第十五番・調香構成》を準備していた。
「この香りが完成すれば、人類は“共通の記憶”を持つ存在として再統合される……」
その香りの名は——《忘我》。
すべての個人記憶を曖昧にし、痛みも快楽も、“私”という輪郭ごと溶かしていく究極の香り。
澪は玲央の前に立ち塞がった。
「香りは、愛ではない。香りは、他人を消すだけだ」
「そうじゃない。香りこそが、記憶の言葉だ」
両者の嗅覚が交差した瞬間、塔全体が震えた。《仮面香》と澪の“実香”が拮抗し、玲央の精神が一瞬揺らぐ。
その隙を突いて、朝永が中央塔に突入する。
「玲央、終わりだ」
《香殺》の容器を破砕する。銀色の霧が一気に塔内に広がる。
「これが、香りの死だ」
玲央は叫び、香りの中で崩れ落ちた。澪は涙を流しながら、千紗の名を呼ぶ。
やがて、ノクターン・シティの空気は澄んでいった。
香りが、消えていく。