第十四章:香の王と、仮面の記憶
夜が明けても都市に朝は来なかった。ノクターン・シティは香りに支配されたまま、時間そのものが曖昧に溶けていた。
都市全域の嗅覚レセプターは依然として開放されており、個々の記憶は“香り”として街の空気に流出していた。人々は互いの“過去”を嗅ぎ合いながら、もはや自分の人生がどこから始まり、どこで終わるのかも曖昧に感じ始めていた。
その混沌の中心に、ひとりの新たな存在が現れた。
——香の王。
それは、かつての調香師組織〈第零調香会〉の首魁・東雲玲央であった。長く死んだとされていた彼は、自らの嗅覚皮質を人工網膜と結合させ、「香りを見る」能力を得ていた。
「香りは、真実を欺かない。香りこそが、倫理であり支配だ」
玲央の言葉は、香気に支配された市民たちの本能を刺激し、徐々に支持者を集めていく。彼の纏う香り《仮面香》は、周囲の者の人格を一時的に上書きする。記憶の再構成ではない。“その人の中の誰かになる”香り。
澪はその香りに、かつての綾香の痕跡を感じていた。
「あなた……まさか、綾香の記憶を……」
「違うよ澪。私は“おまえ”の中の綾香だ」
玲央の香りは、澪の中にあった綾香の人格を仮面として再現し、彼女の嗅覚に強制的に重ねていた。
一方、朝永清志は、香りの暴走に抗いながら、地下の香気制御中枢へと向かっていた。そこには、かつての調香師養成施設——“黒薔薇の温室”が再建されていた。
「綾香……お前をもう一度殺す必要があるのかもしれない」
制御中枢の奥深く、朝永はひとつの冷却室に辿り着く。中には、香りに包まれ眠る千紗の姿があった。
——《仮面香》により、娘は人格を持たぬ“香りの容器”に変えられていた。
「玲央……許さない。これは調香ではない。これは虐殺だ」
朝永は制御中枢を爆破すべく、最後の調香薬《香殺》を手にする。
都市が嗅覚で統治される未来か、それとも——
答えは、香りの中でしか語られない。