第十三章:第十四番、解放ノ香
研究所全体が鼓動しているように、重く低く、赤い香気を吐き出しながら脈打っていた。人工神経束は光の波動を送り出し、都市中の嗅覚レセプターを持つ人間たちの脳に直接“記憶”を送信していた。
それは暴力的な香りだった。断肢された身体の感触。切り離された皮膚の温もり。義肢の下で蠢く幻肢痛。それを快楽として脳が誤認するよう調香された、禁忌の香。
——第十四番、《解放ノ香》。
如月澪の口から漏れたその名とともに、装置の天蓋が開き、巨大なガラス管が露出した。中には、香気の結晶体とも呼べる黒い臓器が浮かんでいた。澪の“嗅覚中枢”を模して培養された人工器官。それは、彼女の記憶の全記録だった。
朝永清志は、その香りに触れた瞬間、現実が剥がれ落ちていく感覚に襲われた。
——俺は、誰だ? 刑事か、夫か、それとも……
彼の脳裏に、千紗の顔が浮かぶ。澪に侵食され、香りに支配された娘。だがその瞳には、まだ“痛み”が宿っていた。
「千紗……お前が、まだ叫べるなら」
朝永は香りの波を突き抜け、澪のもとへ駆け寄った。香気の結晶体に触れた瞬間、全身の毛穴が開き、彼の過去・現在・未来の全記憶が、香りとなって放出された。
「そう、それが……あなたの“絶香”」と澪が微笑む。
記憶の中で、朝永はある真実を知る。かつて綾香と澪は、同一人物だった。多重人格ではない——記憶と香りを完全に“分離”させた二つの存在。
澪は“断肢された人格”だった。香りによってのみ生かされた、痛みと快楽の残骸。
「あなたが綾香を選んだあの夜、私は廃棄された。でも今、こうして……」
澪の指先が、自らの人工義足を外す。切断面に香りの管が接続され、香気が放出される。官能と死の境界線を行き来する匂い。
都市中の人々が叫び出す。「思い出すな!」「嗅ぎたくない!」「でも香りが……!」
《解放ノ香》は、忘却できない匂い。自分が愛した者、自分が犯した罪、自分が失った身体。それを全て“香り”として鼻腔に刻む香。
朝永は、澪を抱きしめた。「もういい。記憶になど、なるな。お前は今、生きてる」
その瞬間、香気の波が止まり、装置の灯が落ちた。
——だがそれは終わりではなく、始まりだった。
香りが記憶を共有し、痛みを快楽に変換するという、新たな都市——ノクターン・シティの胎動が、都市の地下で静かに始まっていた。