第十二章:ノクターン・シティ覚醒
朝のない都市が生まれつつあった。渋谷、六本木、新宿、池袋——あらゆる都市の中枢から発せられた《夢想ノ馨》の香気は、既に大気中の“嗅覚依存指数”を計測不能な領域まで引き上げていた。
視覚でも聴覚でもなく、嗅覚によって社会が制御される。
この“嗅覚統治”の中心にあるのが、かつて如月澪が研究員として勤務していた、国立感覚医学研究所・地下第十三保管室だった。
そこでは、断肢愛好者の被験者たちが、自らの身体性を差し出すことで、記憶の香気データを抽出されていた。
その記憶香を用いて、人間の「性と痛覚と喪失」の全履歴を再現するのが、《絶香計画》の目的だったのだ。
一方、朝永清志は錯乱し始める市民の中をすり抜け、単身で旧研究所へと向かっていた。彼の頭の中にも、澪の声と、亡き妻・綾香の笑い声が、重なるように響いていた。
——香りの中でしか、人は愛を持たないのか。
突入した地下施設の入り口には、血のように赤い香水が滴っていた。
「……この香り……これは、俺の——」
床に残された残香から、朝永は過去の“ある一夜”を思い出す。澪と綾香が交わった夜。二人の匂いが混じり合った記憶。
澪と綾香は、ただの研究者と被験者ではなかったのだ。
——彼女たちは、香りを通じて“融合”していた。
その記憶に圧されながらも、朝永は研究所の奥へ進む。
そこには、巨大な“嗅覚中枢共鳴装置”が設置されていた。脳の嗅球と直結する人工神経束。その中央に、“香の巫女”として座する澪の姿があった。
「ようこそ、ノクターン・シティへ」
澪は静かに言った。「あなたは私の香りを、まだ嗅ぎ分けられるのね」
装置が動作を始める。
都市全体の嗅覚が、澪の記憶と融合し、新たな集団的無意識を形成しようとしていた。
それは、かつて誰も到達し得なかった“香りの共同体”——官能、記憶、断肢の痛覚すらも共有する精神構造体だった。
だが朝永は、香水瓶を取り出し、それを床に叩きつけた。
「俺は、俺の記憶でしか愛せない!」
香気の反作用で装置が共振を始め、澪の身体に亀裂が走る。
「あなたがそう望むなら……第十四番、解放ノ香を……」
澪が囁いたその瞬間、装置全体が赤く脈動し始める。