第十一章:香の群像、沈みゆく個
夜の渋谷。
深夜零時、スクランブル交差点に設置された巨大スクリーンには、突如として花のように開く赤黒いモヤが映し出された。それは映像ではなく、散布された香気粒子の可視化だった。街に放たれた第十三番《夢想ノ馨》——嗅いだ者の過去を反芻させ、現実から切断する麻薬的香。
——記憶という牢獄の、鍵を香りが握っている。
その瞬間、交差点の中央で踊り出す若者、泣き出すサラリーマン、スカートを脱ぎ棄てる女子高生。
群衆は同時に“過去”へと引き戻され、それぞれの原風景と性交と喪失に絡みとられていく。
公安庁の監視モニターに映る彼らは全員、理性を剥奪され、香りに“服従”していた。
一方、霞ヶ関の地下施設。
拘束されていた如月澪は、密かに体内に隠していた“香胞子”を散布し始めていた。それは自らの血液により活性化する、有機的な芳香細胞。
看守が鼻をひくつかせた瞬間、微笑む澪。
「あなたの、奥さんの香り……まだ忘れてないのね」
看守は一歩前に進み、拘束具の鍵を外した。
澪の義足が、床を叩いた。再び立ち上がる“巫女”。
そしてその頃、朝永清志は渋谷へ向かっていた。妻の遺品の香水瓶を握りしめ、混濁する街の中を突き進む。
《香りとは、個人の“記憶”を媒介に感染する。つまり——》
彼はすでに気づいていた。都市は感染しているのではない。都市そのものが“記憶の再構築装置”へと変貌しているのだ。
彼の娘・千紗もまた、異変を起こしていた。
「お父さん、ママの匂いがするの」
彼女の鼻先が震え、涙がこぼれる。記憶に存在しないはずの母の声を、確かに聞いたのだ。
そして、街のあらゆるスピーカーから音声が流れた。
《わたしたちは、香りの民になる。断肢の痛みを共有し、快楽と記憶を重ね合わせ、新たな都市を構築する》
それは、如月澪の声だった。
「新世界を、香りとともに」