第九章:滲む官能、崩れる日常
朝永清志の自宅。かつては無臭に近い家庭だった。
今、その空間に濃厚なムスク、脂汗、フェニルエタノールといった人間由来の芳香が染みついていた。妻・梨沙は寝室のベッドで微動だにせず、娘・千紗の髪には、香水瓶の雫が乾いていない。
朝永は一人、窓を開け放ち、呼吸を乱しながらもデータを確認していた。拘置所から出た香屋匠真の香気成分は、手紙・段ボール・布製品に練り込まれていた。拡散経路はすでに無限。
そこに公安の内線が鳴る。「都内10カ所で突発的な昏倒事件。いずれも嗅覚系の幻覚が先行し、その後、意識障害が確認されている」
朝永は呟く。「これは……無差別テロだ」
だが、それは単なる殺意ではなかった。記憶の操作、官能の強制的刷り込み。犠牲者は誰も殺されず、“陶酔”していった。
一方その頃——
廃業した地下シアター。香屋匠真の残した残香が、天井のスクリーンから床へ滴るように広がっていた。そこに集まっていたのは、“体験者”と呼ばれる選ばれた嗅覚フェティッシュたち。
男も女も、義肢の者も、顔に布を巻いた者もいた。誰一人言葉を発さず、ただ香りに身を委ねていた。
壇上には、新たな“巫女”が立っていた。——如月澪。
義足のない片脚を晒したまま、全裸で瓶の中央に立ち、香りを頭上から浴びる。
「これは、戦争じゃない。これは“帰還”なのよ」
彼女の声に合わせて、観客の中からひとりの女が静かに立ち上がった。
「……冴子……」
死んだはずの女が、香りのなかで“再現”されていた。
冴子は人工皮膚を貼った義腕をゆっくり上げた。「記憶なんて関係ない。香りこそが私たちの証明」
地下劇場に漂う芳香は、崩壊する文明の匂いではなく、“官能の種子”として静かに拡散し続けていた。