山の村と羊飼いの知恵
翌朝、セレスティアは重い心でポルトディマーレを出発することにした。マルチェロとの関係について一晩考えたが、答えは出なかった。このまま身分を隠し続けるのは彼に対して不誠実だし、かといって正体を明かせば関係は確実に終わってしまう。
結局、セレスティアは何も言わずに町を出ることにした。マルチェロに別れの挨拶をするべきか迷ったが、顔を見ると何と言えば良いか分からない。嘘をつき続けるのも辛いし、真実を話す勇気もない。
(申し訳ない、マルチェロ...)
セレスティアは罪悪感に苛まれながら、こっそりと宿を出た。彼が自分を探すかもしれないと思うと胸が痛んだが、今の自分には彼と向き合う準備ができていなかった。
「今度こそ、本当にモンテヴェルデに向かおう」セレスティアが愛馬フィオーラの手綱を握りながら呟いた。「そこで答えを見つけられるかもしれない」
宿の主人に道を尋ねると、「東に向かって山道を登れば、モンテヴェルデに着きます」と教えてくれた。
「東だな。今度は間違えない」
しかし、出発して1時間ほど経った頃、セレスティアは困惑し始めた。
「あれ?太陽が正面にある。東に向かっているなら、太陽は右側にあるはずでは?」
実は、今回は珍しくセレスティアは正しい方向に向かっていた。しかし、方向音痴の彼女には太陽の位置と方角の関係が理解できない。
「まあ、道なりに進んでいれば大丈夫だろう」
幸い、今回は一本道だったため、間違えようがなかった。道は次第に山間部に入り、美しい緑の丘陵地帯が広がっていた。
昼頃、セレスティアはついに目的地の看板を発見した。
「『モンテヴェルデ村まで5キロメートル』」セレスティアが看板を読み上げた。「やったぞ!今度こそ正しい場所に向かっている!」
フィオーラも嬉しそうに嘶いた。
「君も分かるのか?」セレスティアがフィオーラの首を撫でた。「よし、もう少しだ」
山道をさらに登ると、美しい村が見えてきた。石造りの家々が点在し、周囲には羊の群れが草を食んでいる。のどかで平和な光景だった。
「美しい村だな」セレスティアが感嘆した。
村の入り口で、一人の老婆が羊の世話をしていた。白髪に深いしわを刻んだ顔だが、穏やかで知恵深そうな雰囲気がある。
「こんにちは」セレスティアが挨拶した。
「あら、旅の方ですね」老婆が温かい笑顔で振り返った。「珍しいこともあるものです。私はジュリア、皆からはノンナ・ジュリアと呼ばれています」
「私はセリア。旅の途中だ」
「そうですか。それでは、お疲れでしょう。うちで少し休んでいかれませんか?」ノンナ・ジュリアが親切に申し出た。
「ありがとう」
ノンナ・ジュリアの家は、村の中でも特に古い石造りの建物だった。中に入ると、暖炉で火が燃え、羊毛の香りが漂っている。
「お茶をお出しします」ノンナ・ジュリアが言った。「それと、うちの自慢の羊乳チーズもいかがですか?」
「ぜひお願いする」
出されたお茶は薬草の香りがして、体が温まった。羊乳チーズは濃厚でクリーミーな味わいだった。
「美味しいな」セレスティアが感心した。
「ありがとうございます。この村では代々、羊を飼って暮らしているんです」ノンナ・ジュリアが説明した。「羊毛も羊乳も、すべて自然の恵みです」
「自然の恵み...」セレスティアがその言葉を反復した。
「ところで、セリアさん」ノンナ・ジュリアが優しく尋ねた。「何か悩み事でもあるのですか?お顔に影が差しているようですが」
セレスティアは驚いた。初対面なのに、この老婆は自分の心の状態を見抜いている。
「そんなに分かりやすいか?」
「年を取ると、人の心が読めるようになるものです」ノンナ・ジュリアが微笑んだ。「もしよろしければ、話してみませんか?話すことで楽になることもあります」
セレスティアは迷った。しかし、ノンナ・ジュリアの温かい雰囲気に包まれて、自然と口が開いた。
「実は...恋愛のことで悩んでいるのだ」
「恋愛?」ノンナ・ジュリアの目が優しく輝いた。「それは素晴らしいことですね。どのような方なのですか?」
「とても素晴らしい人だ。誠実で、優しくて、自分の仕事に誇りを持っている」セレスティアが話し始めた。「でも...私たちの間には越えられない壁があるのだ」
「どのような壁ですか?」
「身分の違いだ」セレスティアが正直に答えた。「私は...彼よりもずっと高い身分の生まれで」
ノンナ・ジュリアは静かに聞いていた。
「身分を隠して近づいているので、彼は私の正体を知らない。でも、もし知ったら...」
「距離を置かれてしまうと思うのですね」ノンナ・ジュリアが理解した。
「ああ。それに、現実的にも私たちが結ばれることは不可能だ」
ノンナ・ジュリアはしばらく考えていた。
「セリアさん、一つ質問があります」ノンナ・ジュリアが口を開いた。「その方を愛していますか?」
「愛...」セレスティアが戸惑った。「それが恋なのかどうかも、まだよく分からないのだ」
「では、別の質問をしましょう」ノンナ・ジュリアが優しく続けた。「その方がいなくなったら、寂しいですか?」
「はい、とても」
「その方が困っていたら、自分のことを犠牲にしてでも助けたいと思いますか?」
「もちろんだ」
「その方の幸せを、自分の幸せよりも大切に思いますか?」
セレスティアは考えた。マルチェロの笑顔、彼が海について語る時の輝く瞳、一生懸命働く姿。すべてが愛おしかった。
「はい...そう思う」
「それが愛です」ノンナ・ジュリアが微笑んだ。「身分の違いなど、愛の前では小さなことです」
「でも、現実は...」
「現実は確かに厳しいものです」ノンナ・ジュリアが認めた。「しかし、真の愛があれば、どんな困難も乗り越えられます」
「本当にそう思うか?」
「ええ。私も若い頃、身分の違う人を愛したことがあります」ノンナ・ジュリアが遠くを見つめた。「村の羊飼いの娘だった私が、町の商人の息子を愛してしまったのです」
「どうなったのだ?」セレスティアが興味深く尋ねた。
「最初は家族に反対されました。でも、私たちは諦めなかった」ノンナ・ジュリアが続けた。「愛の力で、周囲の心を動かしたのです」
「それで?」
「結婚して、幸せな生活を送りました」ノンナ・ジュリアが微笑んだ。「夫は5年前に亡くなりましたが、50年間、とても幸せでした」
セレスティアは感動した。身分の違いを乗り越えた愛があったのだ。
「大切なのは、偽らないことです」ノンナ・ジュリアが真剣に言った。「愛する人に嘘をついていては、真の愛は育ちません」
「でも、正体を明かすのが怖いのだ」
「恐れることはありません」ノンナ・ジュリアが励ました。「本当に愛し合っているなら、きっと理解してくれます」
その時、外から馬の蹄音が聞こえてきた。複数の馬が村に近づいているようだ。
「お客様のようですね」ノンナ・ジュリアが窓を見た。
セレスティアも窓に近づくと、数騎の騎士が村に入ってくるのが見えた。先頭の騎士の姿を見て、セレスティアの心臓が跳ね上がった。
「レオナルド...」
立派な鎧に身を包んだ騎士は、間違いなくレオナルド・ベルナルディだった。ついに追いついてきたのだ。
「知り合いの方ですか?」ノンナ・ジュリアが尋ねた。
「ええ...とても大切な人だ」セレスティアが動揺しながら答えた。
レオナルドたちは村の中央広場で馬を止めた。村人たちが集まってきている。
「失礼いたします」レオナルドが丁寧に挨拶した。「我々は王宮の騎士です。行方不明になった方を探しています」
「どのような方でしょうか?」村長らしき男性が尋ねた。
「20歳の女性で、青い瞳に金髪、美しい方です」レオナルドが説明した。「セリア・アルティエーリという名前を使っているかもしれません」
セレスティアは息を呑んだ。レオナルドは自分の偽名まで把握している。
「その方でしたら...」村長が答えかけた時、ノンナ・ジュリアの家から出てきたセレスティアを見つけた。「あ、あちらにいらっしゃいます」
レオナルドが振り返った瞬間、二人の視線が合った。
「殿下!」レオナルドが反射的に叫んだ。
村人たちがざわめいた。「殿下?」「まさか...」
セレスティアは青ざめた。レオナルドが感情的になって、つい「殿下」と呼んでしまったのだ。
「え?殿下って...」村長が困惑した。
「王女様?」別の村人が驚いた。
「まさか、あのお嬢さんが王女様?」
村人たちの間に衝撃が走った。セリア・アルティエーリだと思っていた女性が、まさか王女だったとは。
レオナルドは自分の失言に気づいて顔を青くした。「あ...いえ...その...」
しかし、もう遅かった。秘密は完全に露見してしまった。
セレスティアは観念した。「皆さん、すまない。私は...ルミナール王国第三王女、セレスティア・ルミナールだ」
村人たちは呆然とした。まさか本物の王女が、こんな山間の村に一人でやってきているとは。
「し、失礼をいたしました!」村長が慌てて深々と頭を下げた。「まさか王女殿下がお忍びでお越しとは...」
「顔を上げてくれ」セレスティアが言った。「私は皆と同じように扱ってもらいたい」
しかし、村人たちはセレスティアの正体を知ったことで、どう接して良いか分からず戸惑っていた。
ノンナ・ジュリアだけは変わらない態度で、セレスティアに近づいた。
「そうでしたか。それで納得がいきました」ノンナ・ジュリアが微笑んだ。「でも、王女様でも人の子。恋の悩みは同じですね」
「ノンナ...」セレスティアが感謝の気持ちを込めて見つめた。
レオナルドが近づいてきた。「殿下、ご無事で何よりです」
「レオナルド...」セレスティアが複雑な表情を浮かべた。「苦労をかけたな」
「申し訳ございません。やっとお見つけできました」レオナルドが頭を下げた。「王宮では皆、殿下のご無事を案じております」
「まだ帰りたくない」セレスティアが率直に答えた。
「しかし、殿下...」
「少し時間をくれ」セレスティアが頼んだ。「大切な人に、きちんと説明しなければならない」
レオナルドは困惑した。「大切な人?」
「恋人だ」セレスティアがはっきりと言った。
レオナルドの顔が一瞬曇った。しかし、すぐに騎士としての表情に戻った。
「分かりました。しかし、あまり長くはお待ちできません」
「ありがとう」
その夜、村では王女の訪問を祝う即席の宴会が開かれた。しかし、セレスティアの心は重かった。正体が露見してしまった以上、マルチェロにも真実を話さなければならない。
「ノンナ、相談がある」セレスティアがノンナ・ジュリアに近づいた。
「愛する方のことですね」ノンナ・ジュリアが理解した。
「ああ。正体を話すべきだろうか?」
「もちろんです」ノンナ・ジュリアが即答した。「嘘をついたまま愛を育むことはできません」
「でも、王女だと知ったら...」
「それで離れていくような方なら、最初から縁がなかったということです」ノンナ・ジュリアが言った。「真の愛は、どんな試練も乗り越えます」
「分かった」セレスティアが決意した。「明日、彼に会いに行く」
「それが良いでしょう」ノンナ・ジュリアが微笑んだ。「正直になることから、すべてが始まります」
翌朝、セレスティアはレオナルドと共にポルトディマーレに向かった。重要な決断の時が来ていた。
マルチェロに正体を明かし、自分の気持ちを伝える。彼がどんな反応を示すかは分からないが、もう嘘はつけない。
「殿下」レオナルドが馬上で声をかけた。「その方は...どのような人なのですか?」
「素晴らしい人だ」セレスティアが答えた。「誠実で、優しくて、自分の仕事に誇りを持っている漁師だ」
「漁師...」レオナルドが複雑な表情を浮かべた。
「君は反対するか?」セレスティアが尋ねた。
「私の立場で申し上げることではありませんが...」レオナルドが慎重に答えた。「殿下がお幸せになられるなら、それが一番です」
「ありがとう、レオナルド」
しかし、セレスティアの心の奥底では、不安が渦巻いていた。マルチェロは王女という正体を受け入れてくれるだろうか。それとも、身分の違いに絶望して距離を置くだろうか。
ポルトディマーレの港が見えてきた。運命の時が近づいている。
愛か、身分か。セレスティアの初恋は、重要な分岐点を迎えようとしていた。
ノンナ・ジュリアの言葉を胸に、セレスティアは勇気を振り絞った。真実を伝える時が来たのだ。




