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恋の行方と身分の壁

翌朝、セレスティアは早起きして港を散歩していた。朝日が海面を金色に染め、漁師たちが一日の準備を始めている。その中に、マルチェロの姿を見つけた。


「おはよう」セレスティアが声をかけた。


「セリアさん!」マルチェロが嬉しそうに振り返った。「早起きですね。おはようございます」


「君も早いな」


「今日は少し遠い漁場に行く予定なんです」マルチェロが説明した。「良い漁場なんですが、往復で時間がかかるので早めの準備が必要で」


「遠い漁場?」


「ええ。船で2時間ほど沖に出たところです」マルチェロの目が輝いた。「もしよろしければ、今日もご一緒していただけませんか?普段とは違う海を見ることができますよ」


セレスティアは迷った。昨夜から、マルチェロのことを考えると胸の奥が温かくなる感覚が続いている。この感情が何なのか、まだ完全には理解できていなかったが、彼と過ごす時間がとても貴重に感じられた。


「ぜひお願いする」


「本当ですか?」マルチェロが嬉しそうに答えた。「それでは、準備を手伝っていただけますか?」


二人は協力して『海風号』の出港準備をした。セレスティアは昨日教わったロープワークを思い出しながら、一生懸命手伝った。


「上達が早いですね」マルチェロが感心した。「本当に初めてとは思えません」


「君が良い先生だからだ」セレスティアが微笑んだ。


港を出発すると、今日の海は昨日よりも穏やかだった。朝の光が水面に反射し、まるで無数のダイヤモンドが散らばっているようだ。


「美しいな」セレスティアが感嘆した。


「僕も毎朝この景色を見ていますが、飽きることがありません」マルチェロが答えた。「特に、誰かと一緒に見ると、いつもより特別に感じられます」


セレスティアはその言葉に胸が高鳴った。マルチェロの気持ちが少しずつ伝わってくるのを感じていた。


沖に出ると、マルチェロが新しい漁法を教えてくれた。


「これは『一本釣り』という方法です」マルチェロが説明した。「網ではなく、釣り糸で一匹ずつ釣り上げるんです」


「難しそうだな」


「コツを掴めば大丈夫です。まずは餌の付け方から」


マルチェロが丁寧に教えてくれる間、セレスティアは彼の優しい手つきに見とれていた。大きくて日焼けした手だが、とても器用で温かそうだった。


「セリアさん?」


「あ、すまない」セレスティアが慌てて我に返った。「集中していなかった」


「大丈夫ですよ」マルチェロが笑った。「僕も時々、考え事をしてしまうことがあります」


釣りを始めると、意外にもセレスティアにすぐに魚がかかった。


「かかったぞ!」セレスティアが興奮した。


「すごい!引き上げてください!」マルチェロが励ました。


セレスティアは一生懸命糸を引いた。魚の重さと抵抗が手に伝わってくる。マルチェロが後ろから支えてくれて、二人で協力して魚を引き上げた。


「やったな!」


釣り上げた魚は立派なタイだった。銀色の鱗が太陽の光に輝いている。


「初心者の方がこんな大きなタイを釣るなんて、珍しいですよ」マルチェロが感心した。「きっと海の神様がセリアさんを気に入ったんでしょう」


「海の神様?」


「漁師の間では、海には神様がいて、気に入った人に幸運をもたらすと言われているんです」マルチェロが説明した。「僕は本当だと思います」


「なぜそう思うのだ?」


「セリアさんと出会えたからです」マルチェロが照れながら答えた。「一昨日魚箱で転んだのも、今思えば海の神様の導きだったのかもしれません」


セレスティアは胸がドキドキした。マルチェロの言葉には、明らかに特別な気持ちが込められていた。


昼頃、二人は船上で昼食を取った。マルチェロが持参した手作りの弁当と、今朝釣ったばかりの魚を使った料理だった。


「美味しい」セレスティアが感嘆した。「君は料理の腕も素晴らしいのだな」


「一人暮らしが長いので、自然と覚えました」マルチェロが答えた。「でも、誰かと一緒に食べる食事は格別ですね」


「君は一人暮らしなのか?」


「ええ。両親は5年前に亡くなりまして」マルチェロが少し寂しそうに答えた。「それ以来、一人で漁師を続けています」


「そうだったのか...すまない」セレスティアが申し訳なさそうに言った。


「いえいえ、気にしないでください」マルチェロが微笑んだ。「両親から受け継いだこの船と海があれば、僕は幸せです。そして今は...」


マルチェロが言いかけて止まった。


「今は?」セレスティアが促した。


「今は、セリアさんという素晴らしい人と出会えて、とても幸せです」マルチェロが真剣な表情で言った。


セレスティアは言葉に詰まった。マルチェロの気持ちがはっきりと伝わってきた。しかし、同時に罪悪感も湧いてきた。自分は身分を偽っている。この純粋な気持ちに、偽りで応えて良いのだろうか。


「マルチェロ...」セレスティアが迷いながら口を開いた。


その時、急に風が強くなった。空には黒い雲が立ち込め始めている。


「あれ?天気が急変しそうですね」マルチェロが空を見上げた。「急いで港に戻りましょう」


しかし、風はさらに強くなり、波も高くなってきた。船が大きく揺れ始める。


「大丈夫ですか?」マルチェロが心配そうにセレスティアを見た。


「ああ、問題ない」セレスティアが答えたが、実際は船酔いで気分が悪くなっていた。


マルチェロは慣れた様子で船を操縦した。しかし、嵐は予想以上に激しく、港への帰路は困難になっていた。


「セリアさん、座っていてください」マルチェロが指示した。「少し荒れそうです」


セレスティアは船べりにつかまりながら、マルチェロの操縦を見ていた。彼は嵐の中でも冷静で、確実に船を制御している。


「すごいな」セレスティアが感心した。「君は本当に海を知り尽くしているのだな」


「父から教わりました」マルチェロが答えた。「海は時に優しく、時に厳しい。でも、正しく接すれば必ず応えてくれる」


大きな波が船を襲った瞬間、セレスティアがバランスを崩した。


「危ない!」


マルチェロが素早く駆け寄り、セレスティアを支えた。二人は一瞬、とても近い距離になった。


「大丈夫ですか?」マルチェロが心配そうに尋ねた。


「ああ...ありがとう」セレスティアが答えた。


二人の視線が合った。嵐の中でも、お互いの気持ちが強く伝わってくる瞬間だった。


しかし、すぐにマルチェロは船の操縦に戻った。プロとしての責任感が、個人的な感情よりも優先されていた。


1時間ほど嵐と戦った後、ようやく港が見えてきた。


「見えた!」セレスティアが嬉しそうに叫んだ。


「はい!もう少しです」マルチェロが励ました。


港に着いた時、二人とも海水でびしょ濡れになっていた。しかし、無事に帰ってこれた安堵感と、困難を共に乗り越えた達成感があった。


「お疲れ様でした」マルチェロが言った。「危険な目に遭わせてしまって申し訳ありません」


「とんでもない」セレスティアが答えた。「君のおかげで無事に帰ってこれた。感謝している」


港の倉庫で、二人は濡れた服を乾かしながら休憩していた。マルチェロが温かいお茶を淹れてくれた。


「今日は本当にありがとうございました」マルチェロが改めて言った。「嵐の中で、セリアさんは全く動揺していませんでしたね」


「そうか?」セレスティアが苦笑いした。「実は結構怖かった」


「でも、僕を信頼してくれているのが伝わってきました」マルチェロが真剣に言った。「それが、とても嬉しかったんです」


セレスティアは複雑な気持ちになった。マルチェロの信頼に、自分は偽りで応えている。


「マルチェロ」セレスティアが意を決して口を開いた。「私について、もう少し詳しく知りたいと思わないか?」


「もちろんです」マルチェロが答えた。「でも、セリアさんが話したくないことは無理に聞きません」


「いや...」セレスティアが迷った。正体を明かすべきか。しかし、王女だと分かったら、マルチェロはどう思うだろうか。


「実は、私は...」


その時、倉庫の扉が開いた。


「マルチェロ!無事だったか!」


入ってきたのは、年配の漁師だった。心配そうな表情を浮かべている。


「アントニオ親方!」マルチェロが立ち上がった。「ご心配をおかけしました」


「嵐が急に来たから心配したぞ」アントニオ親方がほっとした表情を見せた。「それで、そちらのお嬢さんは?」


「セリアさんです。一緒に漁に出ていたんです」マルチェロが紹介した。


「はじめまして」セレスティアが挨拶した。


「こちらこそ。マルチェロがお世話になっているようで」アントニオ親方が微笑んだ。「しかし、嵐の中を二人だけで...危険だったろう」


「マルチェロの腕は確かです」セレスティアが答えた。「彼のおかげで無事でした」


「そうか、それは良かった」親方が安堵した。「ところで、お嬢さんはどちらの出身で?」


セレスティアは一瞬戸惑った。また身分について尋ねられている。


「遠いところから参りました」セレスティアが曖昧に答えた。


「旅の方でしたか。それは珍しい」親方が興味深そうに言った。「この町には、滅多に旅人は来ませんからね」


「そうなのですか?」


「ええ。大きな港町ではありませんし、観光地でもない。来るとすれば、商人か、何か特別な用事がある人くらいです」


親方の言葉に、セレスティアは考えさせられた。確かに、自分のような身分の人間が、何の用事もなくこの町に来ることは不自然かもしれない。


「私は...ただ旅がしたくて」セレスティアが説明した。


「若いうちの旅は良いものです」親方が頷いた。「ただし、お気をつけください。最近、この辺りの海で海賊の話も聞きますから」


「海賊?」セレスティアが驚いた。


「ええ。小さな漁船を狙って、漁獲物や金品を奪うそうです」親方が深刻な表情になった。「まだこの町では被害はありませんが、用心に越したことはありません」


「大丈夫だ」セレスティアが答えた。「私は...剣術を少し心得ている」


「剣術?」親方が驚いた。「商人の娘さんが剣術を?」


「父が...護身のために習わせてくれたのだ」セレスティアが説明した。


実際、セレスティアの剣術の腕は相当なものだった。王宮で最高の師範から指導を受けており、おそらくこの町の誰よりも強いだろう。


「それは心強いですね」マルチェロが安心したような表情を見せた。


夕方、セレスティアは宿に戻った。一人になると、今日の出来事を振り返った。


マルチェロとの距離は確実に縮まっている。嵐の中で彼に支えられた時、心臓が激しく鼓動した。彼の優しさ、誠実さ、海への愛情。すべてが魅力的だった。


しかし、同時に罪悪感も強くなっていた。自分は王女だという正体を隠している。マルチェロの純粋な気持ちに、偽りで応えている。


(このまま続けて良いのだろうか...)


窓の外では、マルチェロが船の手入れをしているのが見えた。一人で黙々と作業する姿が、なぜか寂しそうに見えた。


(彼は一人で頑張っている。両親を失っても、海と共に生きている。そんな彼に、私は何ができるのだろう?)


セレスティアは深く考え込んだ。この恋に未来があるのか。身分の違いを乗り越えることができるのか。


翌日、セレスティアは港でマルチェロと待ち合わせていた。しかし、彼の表情がいつもより固い。


「どうした?」セレスティアが心配そうに尋ねた。


「実は...」マルチェロが迷いながら口を開いた。「昨夜、町の人たちと話していて気になることがあったんです」


「何だ?」


「セリアさんのことです」マルチェロが真剣な表情になった。「皆、セリアさんがただの商人の娘ではないのではないか、と言っているんです」


セレスティアの心臓が跳ね上がった。「なぜそう思うのだ?」


「話し方や立ち振る舞い、それに剣術を習っているということ...普通の商人の娘さんとは違う、と」


「私は...」セレスティアが言葉に詰まった。


「もしかして、貴族の娘さんなのではありませんか?」マルチェロが直接的に尋ねた。


セレスティアは答えに困った。貴族と答えるのも嘘だし、商人と言い続けるのも嘘だ。


「それが...重要なことか?」セレスティアが逆に尋ねた。


「僕にとっては重要です」マルチェロが率直に答えた。「もしセリアさんが高い身分の方でしたら、僕のような一介の漁師が近づいて良いものかどうか...」


「そんなことは関係ない」セレスティアが強く言った。「私は君と一緒にいることが楽しい。身分など関係ない」


「でも、現実は違います」マルチェロが悲しそうに言った。「身分の違いは、簡単に乗り越えられるものではありません」


「マルチェロ...」


「セリアさん、正直に教えてください」マルチェロが真剣に見つめた。「貴女の本当の身分を」


セレスティアは追い詰められた気持ちになった。ここで正体を明かすべきか。しかし、王女だと分かったら、マルチェロは確実に距離を置くだろう。


「私は...」セレスティアが迷った。


「もし答えられないなら、それが答えです」マルチェロが寂しそうに微笑んだ。「きっと、僕などには話せない立場の方なのでしょう」


「そんなことはない!」セレスティアが叫んだ。「君は素晴らしい人だ。誰よりも誠実で、優しくて...」


「ありがとうございます」マルチェロが頭を下げた。「でも、やはり僕たちの間には越えられない壁があるのですね」


セレスティアは何も言えなかった。マルチェロの言葉は正しかった。自分は王女で、彼は漁師。現実的には、結ばれることのできない関係だった。


「少し...考える時間をくれ」セレスティアがついに言った。


「分かりました」マルチェロが答えた。「僕も、自分の気持ちを整理したいと思います」


二人は気まずい沈黙の中で別れた。


宿に戻ったセレスティアは、ベッドに横になって天井を見つめていた。


(どうすれば良いのだろう...)


マルチェロへの気持ちは確かに恋だった。彼と一緒にいると幸せで、彼のことを考えると胸が温かくなる。しかし、この恋には未来がない。


王女という立場、いずれ政略結婚をしなければならない運命。マルチェロのような庶民と結ばれることは、現実的に不可能だった。


(でも、今だけでも...)


セレスティアは迷っていた。この美しい恋を、もう少しだけ続けることはできないだろうか。たとえ未来がないと分かっていても。


窓の外では、夕日が海を染めていた。美しい光景だが、セレスティアの心は複雑だった。


初恋の甘酸っぱさと、身分の壁という現実。二つの感情が心の中で激しく葛藤していた。


明日、マルチェロと話さなければならない。この恋の行方を決める、重要な日になりそうだった。

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