海辺の町と漁師の青年
夕暮れ時、セレスティアは新たな港町に到着した。コリーナヴェルデ村を出てから数時間、西に向かって進んだ結果、予想していなかった美しい港町に辿り着いていた。
「また港町か」セレスティアが愛馬フィオーラの手綱を引きながら呟いた。「しかし、ここは先ほどのマリーナビアンカとは違う雰囲気だな」
この港町は、マリーナビアンカよりもさらに活気があった。大きな漁船が何隻も停泊し、漁師たちが網の手入れや魚の荷揚げに忙しく働いている。夕日が海面を金色に染め、町全体が温かい光に包まれていた。
「美しい光景だ」セレスティアが感嘆した。
町の入り口で、看板を見つけた。『ポルトディマーレ』と書かれている。
「ポルトディマーレ?」セレスティアが首をかしげた。「ポルトマーレでもない、また別の港町なのか」
道行く人に尋ねてみた。
「この町の名前はポルトディマーレで間違いないか?」
「ええ、そうですよ」年配の漁師が答えた。「ポルトマーレは東の方の大きな港町ですね。こちらは西の漁師町です」
「そうか...また方向を間違えたのか」セレスティアが苦笑いした。しかし、すぐに気を取り直した。「まあ、モンテヴェルデには行けなかったが、新しい港町を見ることができる。これも旅の楽しみだろう」
町に入ると、魚市場の活気ある声が聞こえてきた。様々な魚が並び、商人や住民が値段交渉をしている。
「新鮮なタコだよ!今朝獲れたばかり!」
「マグロは今日が特売だ!」
セレスティアは興味深そうに市場を見回した。フィレンツィアの朝市とは違う、海の恵みならではの活気がある。
「面白いな」セレスティアが感心していると、突然大きな水しぶきが上がった。
「うわあ!」
魚を運んでいた若い男性が、重い魚箱につまずいて転倒したのだ。魚が散乱し、男性は海水でびしょ濡れになっている。
「大丈夫か?」セレスティアが慌てて駆け寄った。
「あ、ありがとうございます」男性が起き上がりながら答えた。「すみません、お見苦しいところを...」
セレスティアは男性の顔を見て、少し驚いた。年齢は23歳くらいで、日焼けした健康的な肌に、明るい茶色の髪。何より印象的だったのは、人懐っこい笑顔と澄んだ緑の瞳だった。
「怪我はないか?」セレスティアが心配そうに尋ねた。
「大丈夫です。ただ...魚が...」男性が散乱した魚を見て困った表情を浮かべた。
「手伝おう」セレスティアが立ち上がった。
「え?でも、お嬢さんの服が汚れてしまいます」
「気にするな。魚の方が大切だろう」
二人は一緒に散らばった魚を拾い集めた。セレスティアは魚を触ったことがなかったが、一生懸命手伝った。
「ありがとうございます」男性が感謝した。「おかげで全部回収できました」
「良かった」セレスティアが微笑んだ。「ところで、君の名前は?」
「マルチェロです。マルチェロ・ロッシ」男性が照れながら答えた。「この町で漁師をしています」
「私はセリア。旅の途中だ」
「旅の方でしたか」マルチェロの目が輝いた。「それは珍しい。この町にはあまり旅の方は来られないんです」
「そうなのか?」
「ええ。ポルトディマーレは小さな漁師町なので、観光地というわけではないんです」マルチェロが説明した。「でも、魚は美味しいですよ!新鮮そのものです」
「それは楽しみだ」
マルチェロが急に思いついたような表情になった。「そうだ!もしよろしければ、今夜の夕食をご一緒しませんか?お礼と言っては何ですが、この町の魚料理をご馳走させてください」
セレスティアは少し迷った。見知らぬ男性からの誘いを受けるべきか。しかし、マルチェロの人柄の良さは表情から伝わってくる。
「ありがとう。ぜひお願いする」
「本当ですか?」マルチェロが嬉しそうに答えた。「それでは、港の『潮風亭』でお待ちしています。7時頃はいかがでしょう?」
「分かった」
マルチェロが去った後、セレスティアは胸の奥で何かが温かくなるのを感じていた。
(何だろう、この気持ちは...)
王宮では、このような感情を抱いたことがなかった。男性との出会いといえば、堅苦しい政治的な顔合わせばかり。マルチェロのような自然で親しみやすい人は初めてだった。
夕方、セレスティアは町の宿『海鳴り荘』に部屋を取った。窓からは港が見え、漁師たちが一日の仕事を終えて帰ってくる様子が見える。
「さて、夕食の支度をしなければ」
セレスティアは持参した服の中から、一番きれいなものを選んだ。といっても庶民の服なので、王宮の豪華なドレスとは比べものにならない。しかし、なぜか気持ちが弾んでいた。
(なぜこんなに気になるのだろう?)
7時になり、セレスティアは『潮風亭』に向かった。しかし、町の中でも方向感覚が働かず、似たような石造りの建物が並ぶ道で迷ってしまった。
「あれ?確か海沿いにあると言っていたが...」
結局、道行く人に3回ほど道を尋ねたが、どの道も似たような石造りの建物ばかりで、どこが海沿いなのかさっぱり分からない。
「おかしいな...確か海沿いにあると言っていたのだが...」
気がつくと、港からかなり離れた町の奥の方に来てしまっていた。疲れ果てたセレスティアは、小さな広場の石段に座り込んでしまった。
「参ったな...マルチェロを待たせてしまう」
一方、『潮風亭』では、マルチェロが心配そうに時計を見ていた。約束の時間から30分が経っても、セレスティアは現れない。
「もしかして、道に迷われたのかな?」マルチェロが呟いた。「この町は観光地ではないから、案内標識も少ないし...」
マルチェロは店を出て、セレスティアを探し始めた。港周辺を一通り回った後、町の奥の方に向かった。
「セリアさん!」
広場でマルチェロの声を聞いたセレスティアは、ほっとした表情で振り返った。
「マルチェロ!」セレスティアが立ち上がった。「すまない、道に迷ってしまった」
「やっぱりそうでしたか」マルチェロが微笑んだ。「心配しました。この町は道が入り組んでいるので、初めての方には分かりにくいんです」
「情けない...」セレスティアが頬を赤らめた。
「大丈夫ですよ。僕がご案内します」マルチェロが優しく言った。「『潮風亭』まで、一緒に行きましょう」
二人は並んで歩き始めた。
『潮風亭』に到着すると、地元の漁師や住民で賑わっていた。店の明かりで照らされて初めて気づいたが、マルチェロは昼間とは違い、きれいな服に着替えている。髪も整えられ、好青年という印象がさらに強くなった。
「お疲れ様」セレスティアが席に着いた。
「今日はありがとうございました」マルチェロが改めて頭を下げた。「それでは、この町自慢の魚料理をご紹介させてください」
マルチェロが注文したのは、新鮮な魚の刺身、グリル、そして魚介のスープだった。どれも今朝獲れたばかりの魚を使った料理だという。
「少しお時間をいただきます」店主が言った。
料理を待つ間、二人は今日の出来事について話した。
「今日は本当にありがとうございました」マルチェロが改めて言った。「魚を拾うのを手伝っていただいて」
「気にするな」セレスティアが微笑んだ。「当然のことだ」
「でも、普通の方でしたら服が汚れるのを嫌がられると思うのですが...」
「魚の方が大切だろう」セレスティアが率直に答えた。「それに、君が困っているのを見て見ぬふりはできない」
マルチェロの表情が明るくなった。「セリアさんは本当に優しい方ですね」
しばらくして、料理が運ばれてきた。美しく盛り付けられた魚料理の数々に、セレスティアは目を見張った。
「美味しそうだな」
「それでは、いただきましょう」
一口食べたセレスティアは、その美味しさに驚いた。
「美味しい!」セレスティアが感嘆した。「こんなに新鮮な魚は初めて食べた」
「ありがとうございます」マルチェロが嬉しそうに答えた。「実は、今日の魚の一部は僕が獲ったものなんです」
「君が獲ったのか?」
「ええ。朝4時に出港して、沖で網を張って...」マルチェロが漁の様子を詳しく説明してくれた。
セレスティアは興味深く聞いていた。王宮では、食材がどこから来るのか考えたこともなかった。マルチェロの話を聞いていると、一つ一つの魚に人の努力と海の恵みが込められていることが分かる。
「大変な仕事だな」セレスティアが感心した。
「でも、やりがいがあります」マルチェロの目が輝いた。「海と向き合って、自分の手で生計を立てる。厳しいこともありますが、自由で充実しています」
「自由...」セレスティアがその言葉を反復した。
「セリアさんは、どのような仕事をされているんですか?」マルチェロが尋ねた。
「私は...」セレスティアが一瞬迷った。「商人の娘だ。ただ、まだ家業を継ぐかどうか決めかねている」
「そうですか。僕は子供の頃から漁師になりたくて、迷ったことはありませんでした」マルチェロが率直に答えた。「でも、人それぞれ道があるものですから」
食事が進むにつれて、二人の会話は弾んでいった。マルチェロは漁師の生活について、セレスティアは旅での出会いについて語り合った。
「セリアさんの話を聞いていると、僕も旅をしてみたくなります」マルチェロが言った。「でも、海を離れることは考えられないんです」
「海がそんなに好きなのか?」
「ええ。海は僕の全てです」マルチェロが遠くを見つめた。「朝日が海面を照らす瞬間、嵐の後の穏やかな夕暮れ、魚が網にかかった時の興奮...海と共に生きることが僕の幸せなんです」
セレスティアは深く感動した。マルチェロの海への愛情は、純粋で美しかった。王宮での形式的な会話とは全く違う、心からの言葉だった。
「素晴らしい考えだ」セレスティアが真剣に言った。「君のような生き方をしている人を、私は尊敬する」
「そんな...」マルチェロが照れた。「僕はただ、好きなことをしているだけです」
夜が更けるにつれて、二人は港を散歩した。月明かりが海面を照らし、波の音が静かに響いている。
「美しい夜だな」セレスティアが呟いた。
「ええ。僕はこの時間が一番好きです」マルチェロが答えた。「一日の仕事を終えて、海を眺めながら明日のことを考える...」
「明日は何をする予定だ?」
「朝は漁に出ます。午後は網の修理と、新しい釣り場の調査です」マルチェロが説明した。「もしよろしければ、セリアさんも見学されませんか?」
「本当に?」セレスティアの目が輝いた。
「ええ。漁の様子を見ていただければ、きっと面白いと思います」
「ぜひお願いする」
宿に戻る途中、セレスティアは不思議な感情に包まれていた。胸の奥が温かく、マルチェロのことを考えると自然と笑顔になってしまう。
(これが...恋というものなのか?)
王宮での生活では感じたことのない感情だった。政略結婚の話ばかりで、自分の気持ちで誰かを好きになるという体験は初めてだった。
翌朝、セレスティアは早起きしてマルチェロと待ち合わせた。港には既に多くの漁師が集まり、出港の準備をしている。
「おはようございます」マルチェロが元気よく挨拶した。「今日はよろしくお願いします」
「こちらこそ」
マルチェロの漁船は、中型の船で手入れが行き届いている。船名は『海風号』と書かれていた。
「僕の父から受け継いだ船です」マルチェロが誇らしげに説明した。「もう20年以上、この海で働いています」
船に乗ると、セレスティアは少し緊張した。馬には慣れているが、船は初体験だった。
「大丈夫ですか?」マルチェロが心配そうに尋ねた。
「ああ、問題ない」セレスティアが強がった。
船が港を離れると、セレスティアは船の揺れに戸惑った。しかし、マルチェロが親切にサポートしてくれるので、だんだん慣れてきた。
「すごい...」
沖に出ると、360度が海に囲まれた。陸地は遠くに小さく見えるだけで、まさに海の世界だった。
「どうですか?」マルチェロが微笑んだ。
「言葉にできない」セレスティアが正直に答えた。「こんな世界があったなんて」
マルチェロが網を下ろし始めた。手慣れた動作で、正確に作業を進めていく。
「手伝えることはあるか?」セレスティアが申し出た。
「危険ですから、見ているだけで十分です」マルチェロが答えた。しかし、セレスティアの熱意を見て、簡単な作業を教えてくれた。
「ロープをこう持って...そうです、上手ですね」
セレスティアは一生懸命手伝った。不慣れで不器用だったが、マルチェロが優しく指導してくれるので、だんだんコツを掴んできた。
「やったぞ!」
網に魚がかかった時、セレスティアは子供のように喜んだ。マルチェロも嬉しそうに笑っている。
「セリアさん、とても筋が良いですね」マルチェロが褒めた。「初めてとは思えません」
「ありがとう」セレスティアが嬉しそうに答えた。
昼頃、漁を終えて港に戻った。今日の収穫は上々で、マルチェロは満足そうだった。
「お疲れ様でした」セレスティアが言った。
「こちらこそ。セリアさんがいてくださったおかげで、楽しい漁になりました」マルチェロが答えた。
午後は、マルチェロが網の修理を教えてくれた。細かい作業で集中力が必要だったが、セレスティアは興味深く取り組んだ。
「器用ですね」マルチェロが感心した。「本当に初めてですか?」
「ああ。でも、集中すると楽しいものだな」
夕方、二人は再び『潮風亭』で夕食を共にした。今日の体験について語り合いながら、時間はあっという間に過ぎていった。
「今日は本当に楽しかった」セレスティアが心から言った。「君のおかげで、新しい世界を知ることができた」
「僕も楽しかったです」マルチェロが照れながら答えた。「セリアさんと一緒だと、いつもの仕事が特別なものに感じられました」
二人の視線が合った瞬間、何かが変わった。お互いの気持ちが少しずつ通じ合っているのを感じた。
「セリア...さん」マルチェロが躊躇いながら言った。「もしよろしければ...もう少しこの町にいていただけませんか?」
「私も...」セレスティアが答えかけた時、自分の立場を思い出した。王女としての身分、いずれ王宮に戻らなければならない現実。
「どうしました?」マルチェロが心配そうに尋ねた。
「いや...」セレスティアが微笑んだ。「もう少しいさせてもらおう。この町も、君も...もっと知りたい」
「本当ですか?」マルチェロの顔が輝いた。
こうして、セレスティアの初恋が静かに始まった。漁師の青年との純粋な愛情、それは王宮では決して体験できない貴重な感情だった。
しかし、心の奥底では、この恋に未来があるのかという不安も芽生えていた。身分の違い、いずれ明かされる真実。それでも今は、この美しい気持ちを大切にしたかった。
海辺の町で、迷子の王女の心に新しい季節が訪れようとしていた。




