迷子とパン屋の娘
翌朝、セレスティアは『陽だまり亭』で心地よい目覚めを迎えた。王宮のシルクのシーツとは違う、素朴な麻の感触だったが、なぜか安らげる。
「おはようございます!」階下から女将の明るい声が聞こえてきた。「朝食の準備ができております!」
セレスティアは身支度を整えた。昨日から着ている庶民の服も、一晩過ごして少し慣れてきた。
「さて、今日はどんな一日になるだろうか」
王宮の生活とは全く違う自由さに、まだ少し戸惑いながらも、心は軽やかだった。
食堂に降りると、香ばしいパンの香りが漂っていた。テーブルには焼きたてのパン、チーズ、そして温かいミルクが並んでいる。
「いかがでしたか?よく眠れましたか?」女将が親切に尋ねた。
「ああ、とてもよく眠れた」セレスティアが答えた。「このパンは美味しそうだな」
「モンティーニさんのパン屋のものです。娘さんのビアンカちゃんが、昨日お客様と仲良くなったって、とても喜んでいましたよ」
セレスティアの顔が明るくなった。「そうか。彼女は良い子だ」
朝食を終えると、セレスティアは愛馬フィオーラの様子を見に厩舎に向かった。フィオーラは快適そうに干し草を食べている。
「お前も旅を楽しんでいるようだな」セレスティアがフィオーラの首を撫でた。「今日はどこに行こうか?」
その時、厩舎の入り口から声が聞こえた。
「セリアさん!おはようございます!」
振り返ると、ビアンカが籠を持って立っていた。エプロンには小麦粉が付いており、明らかに朝からパン作りをしていたようだ。
「ビアンカ!おはよう」セレスティアが嬉しそうに手を振った。
「約束通り、町をご案内しますよ!」ビアンカが籠を掲げた。「まずは朝市から始めましょう。フィレンツィアの名物をたくさん紹介したいんです」
「楽しみだ」
二人は町の中心部に向かった。朝市は既に活気に満ちており、商人たちの声が響いている。魚屋、肉屋、野菜売り、そして様々な職人たちが軒を連ねていた。
「すごい賑わいだな」セレスティアが感心した。
「ええ!フィレンツィアは商業ギルドの町ですから、朝市も特別なんです」ビアンカが誇らしげに説明した。「あ、こちらのチーズ屋さんは特に有名なんですよ」
ビアンカが案内したチーズ屋では、山羊のチーズから牛のチーズまで、種類豊富に並んでいた。
「試食いかがですか?」店主が親切に小さなチーズを切ってくれた。
セレスティアが一口食べると、濃厚な味が口の中に広がった。
「うむ!これは美味い!」
周囲の客が振り返った。「うむ」という王女言葉が出てしまったのだ。
「あ...その...とても美味しいです」セレスティアが慌てて言い直した。
ビアンカが苦笑いした。「セリアさんって、時々変わった話し方をしますね」
「そ、そうか?癖なのだ」
次に向かったのは、香辛料売りの店だった。様々な香りが混じり合い、異国情緒を感じさせる。
「この香辛料は何だ?」セレスティアが黄色い粉を指差した。
「サフランです。とても高価な香辛料で...」店主が説明を始めたが、値段を聞いてセレスティアは首をかしげた。
「銀貨2枚?それは安いな」
「え?」ビアンカが驚いた。「セリアさん、サフランが安いって...商人の娘さんでも、それは高級品ですよ」
「あ、そうだったか」セレスティアが慌てた。王宮での金銭感覚が出てしまったのだ。「我が家は...その...少し余裕があるのだ」
香辛料屋を後にすると、ビアンカが心配そうに尋ねた。
「セリアさん、本当はお金持ちの娘さんなんじゃないですか?話し方も、お金の感覚も、普通の商人の娘さんとは違うような...」
セレスティアは困った。正体がばれそうになっている。
「そんなことはない」セレスティアが必死に弁解した。「ただ...父が少し変わった商人なのだ。それで、君とは違う環境で育ったのかもしれない」
「そうなんですね」ビアンカが納得したようだった。「でも、それなら余計に庶民の生活を体験してもらわないと!」
ビアンカは張り切って、次の場所に案内した。野菜売りの前で立ち止まると、彼女は値段交渉を始めた。
「おじさん、このトマト、少し値下げしてくれませんか?昨日の残りでしょう?」
「しょうがないなあ、ビアンカちゃんなら特別だよ」
セレスティアは驚いた。王宮では、値段交渉などしたことがない。すべて宮廷商人が定価で納品するのが当たり前だった。
「凄いな、ビアンカ」セレスティアが感心した。「値段を下げてもらえるのか」
「当然ですよ!市場では交渉が基本です」ビアンカが得意げに言った。「セリアさんもやってみませんか?」
「私が?」
「ええ!あちらのパン売りで、余ったパンを安く買ってみましょう」
ビアンカに押し切られて、セレスティアはパン売りの前に立った。老人の店主が人懐っこく笑いかけてくる。
「いらっしゃい、お嬢さん。何かお探しかな?」
「えーと...」セレスティアが戸惑った。「そのパンを...安くしてもらえないだろうか?」
「ほほう、交渉かね。理由は?」
理由?セレスティアは困った。王宮では理由など必要なかった。欲しいものは何でも手に入る。
「その...余ったパンは、もったいないから?」
店主が苦笑いした。「お嬢さん、それじゃあ交渉にならないよ。もっと具体的な理由が必要だ」
ビアンカが助け船を出した。「旅の途中で食費を節約したいんです。それに、余ったパンでも私たちには十分美味しいですから」
「なるほど、それなら2割引きでどうだ」
「ありがとうございます!」ビアンカが喜んだ。
パンを購入した後、セレスティアはビアンカに感謝した。
「助かった。交渉は難しいものだな」
「慣れですよ」ビアンカが微笑んだ。「ところで、お昼は私たちのパン屋で食べませんか?お父さんがセリアさんにお会いしたがっているんです」
「喜んで」
二人はモンティーニのパン屋に向かった。店の中は昨日よりもさらに忙しく、ピエトロが一人で奮闘している。
「お父さん、セリアさんをお連れしました!」
「おお、セリアさん!」ピエトロが温かく迎えた。「娘がお世話になりました。ぜひ、うちの昼食をご一緒してください」
「ありがとうございます」セレスティアが丁寧に頭を下げた。
パン屋の奥の住居部分に案内されると、質素だが清潔な部屋だった。テーブルには手作りのパン、スープ、そして野菜料理が並んでいる。
「いただきます」三人が声を合わせた。
セレスティアはスープを一口すすった。シンプルな野菜スープだったが、何か言葉にできない温かさがあった。王宮の豪華な料理とは全く違う、不思議な満足感を感じていた。
「美味しい」セレスティアが心から言った。「こんなに心のこもった食事は久しぶりだ」
「ありがとうございます」ピエトロが嬉しそうに答えた。「ビアンカが作ったんですよ」
「ビアンカが?」セレスティアが驚いた。
「ええ」ビアンカが照れながら答えた。「お母さんを亡くしてから、私が家事を担当しているんです」
「そうだったのか...」セレスティアが神妙になった。
「でも、寂しくはありませんよ」ビアンカが明るく続けた。「お父さんと二人で力を合わせて、お店も順調ですし」
ピエトロが娘を誇らしげに見つめた。「ビアンカは立派な娘です。パン作りの腕も、もう私に負けないくらいですよ」
「それは凄いな」セレスティアが感心した。「私にも教えてもらえるか?パン作りを」
「本当ですか?」ビアンカの目が輝いた。「喜んで教えますよ!」
昼食後、三人はパン工房に移った。大きなオーブン、こね台、そして様々な道具が整然と並んでいる。
「まずは生地作りからです」ビアンカが説明した。「小麦粉、水、イースト、塩を混ぜ合わせます」
セレスティアは慎重に材料を計量した。しかし、普段使ったことのない道具に戸惑う。
「これは何だ?」セレスティアが不思議そうに装置を見つめた。
「あ、これは天秤式です」ピエトロが説明した。「重りと材料のバランスを取るんですよ」
「天秤式?重りと材料?」セレスティアがさらに困惑した。「つまり...何をするものなのだ?」
「ああ、すみません」ピエトロが気づいた。「材料の重さを量る道具です。正確な分量を測るために使うんですよ」
ビアンカが不思議そうにセレスティアを見た。「セリアさん、商人の娘さんなのに、秤をご存知ないんですか?どんな商売でも計量は基本だと思うのですが...」
「あ、えーと...」セレスティアが慌てた。「我が家では...特殊な商売をしていて、あまり細かい計量をしないのだ」
材料を混ぜ合わせる段階になると、セレスティアはさらに苦戦した。
「うーん、なかなかまとまらないな」
「もう少し力を入れて、リズムよく混ぜてください」ビアンカがお手本を見せた。
しかし、セレスティアの混ぜ方は不器用で、小麦粉が飛び散ってしまう。
「あ!」
小麦粉がセレスティアの頬に付いた。ビアンカとピエトロが笑い出した。
「セリアさん、お顔が真っ白ですよ」ビアンカがハンカチで拭いてくれた。
「すまない...不器用で」セレスティアが苦笑いした。
「大丈夫です!最初はみんなそうですから」
次の工程は、生地をこねることだった。
「力を入れて、しっかりとこねてください」ビアンカが指導した。「生地が滑らかになるまで、根気よく続けます」
セレスティアは剣術で鍛えた腕力を活かして、一生懸命生地をこねた。しかし、力の入れ方が分からず、生地がちぎれてしまう。
「あれ?切れてしまった」
「あ、少し力が強すぎるかもしれません」ビアンカが苦笑いした。「優しく、でも確実にこねてください」
「難しいものだな」セレスティアが汗を拭いた。
30分ほど格闘した末、何とか生地らしきものが完成した。
「できた!」セレスティアが達成感に満ちた表情を見せた。
「よくできました!」ビアンカが拍手した。「初めてにしては上出来ですよ」
生地を発酵させている間、三人は店の前で休憩した。
「パン作りは大変な仕事だな」セレスティアが感心した。「毎日これを続けているのか?」
「ええ」ピエトロが頷いた。「朝は4時から仕込みを始めます。お客様に美味しいパンを届けるためです」
「4時?」セレスティアが驚いた。王宮では、朝の8時に起きるのが普通だった。
「大変ですが、やりがいのある仕事です」ビアンカが微笑んだ。「お客様が美味しそうに食べてくださる姿を見ると、疲れも忘れてしまいます」
セレスティアは深く考え込んだ。王宮では、食事は当たり前のように用意される。作る人の苦労や想いなど、考えたこともなかった。
「ビアンカ、君は素晴らしいな」セレスティアが真剣に言った。「仕事に誇りを持って、お客様のことを想って...」
「そんな、大げさな」ビアンカが照れた。
「いや、本当だ。私は...」セレスティアが言いかけて止まった。「私は君のような人を尊敬する」
夕方になり、ついにパンがオーブンから出てきた。セレスティアが作ったパンは、形は少しいびつだったが、ちゃんとパンらしく焼き上がっていた。
「うむ!」セレスティアが嬉しそうに声を上げた。「私が作ったパンだ!」
「おめでとうございます!」ビアンカが拍手した。「記念すべき初作品ですね」
セレスティアは自分のパンを大切そうに抱えた。生まれて初めて、自分の手で何かを作り上げた達成感があった。
「ありがとう、ビアンカ」セレスティアが心から言った。「今日は本当に楽しかった」
「私もです!」ビアンカが嬉しそうに答えた。「明日はどちらに向かわれるんですか?」
「そうだな...」セレスティアが考えた。実は、特に行き先を決めていなかった。「東の方に向かおうと思う」
「東でしたら、ポルトマーレという港町が素敵ですよ」ピエトロが提案した。「海の幸が美味しくて、景色も綺麗です」
「ポルトマーレ?それは良さそうだ」
「ここから東に約100キロメートルです」ビアンカが説明した。「馬なら一日で着けますよ」
その夜、宿に戻ったセレスティアは、今日の出来事を振り返っていた。パン作りの体験、ビアンカとの友情、そして庶民の生活の大変さと充実感。
「こんな世界があったのか...」
王宮での生活とは全く違う価値観があることを知った。地位や財産ではなく、仕事への誇りや人との繋がりが大切なのだ。
翌朝、セレスティアは早起きしてパン屋に向かった。昨日の約束通り、出発前にもう一度パン作りに挑戦したかったのだ。
「セリアさん!おはようございます」ビアンカが既に仕込みを始めていた。
「おはよう。昨日のお礼に、今度は私が手伝わせてくれ」
「ありがとうございます!」
今度のパン作りは、昨日より格段に上達していた。ビアンカの指導のおかげで、こね方も上手になっている。
「上達が早いですね」ビアンカが感心した。「きっと器用な方なんですね」
「そうか?」セレスティアが嬉しそうに答えた。「ビアンカの教え方が上手いのだ」
二つ目のパンが完成した時、セレスティアは充実感に満たされていた。
「これも記念に持って行ってくれ」ピエトロが特製の蜂蜜パンを包んでくれた。
「ありがとうございます」
出発の時間が来た。セレスティアはフィオーラにまたがり、ビアンカとピエトロに別れを告げた。
「また会えるでしょうか?」ビアンカが寂しそうに尋ねた。
「必ずだ」セレスティアが微笑んだ。「私たちは友達だからな」
「はい!」ビアンカが涙を浮かべながら手を振った。
セレスティアはフィオーラを東に向けて走らせた。少なくとも、そのつもりだった。
しかし、町を出て30分もすると、また同じ問題が発生した。
「あれ?太陽の位置が...なぜ右側にある?東に向かっているなら、太陽は左側のはずだが...」
そう、セレスティアは再び方向を間違えていた。東ではなく、西に向かっていたのだ。
「まあ、大体の方向が合っていれば問題ないだろう」
セレスティアは楽観的に考えた。しかし、数時間後、彼女が到着したのは確かに港町だったが、ポルトマーレではなく、全く別の港町だった。
「この町の名前は?」セレスティアが道行く人に尋ねた。
「マリーナビアンカですよ」男性が答えた。
「マリーナビアンカ?」セレスティアが首をかしげた。「ポルトマーレではないのか?」
「ポルトマーレは東の方の港町ですね。ここは西の港です」
「西?」セレスティアが困惑した。「おかしいな...東に向かっていたはずなのだが...」
しかし、すぐに気を取り直した。
「海だ!」セレスティアが興奮した。「生まれて初めて海を見る!」
王女としての彼女は、実は海を見たことがなかった。内陸の王国で育ったため、海は憧れの存在だったのだ。
青い海が地平線まで続く光景に、セレスティアは心を奪われた。
「美しい...」
新たな出会いと体験が、また始まろうとしていた。方向音痴の王女の冒険は、予想もしない方向に続いていく。
ビアンカとの友情、パン作りの体験、そして庶民の生活への理解。セレスティアの心は、確実に成長していた。次の港町では、どんな出会いが待っているのだろうか。
彼女の自分探しの旅は、まだ始まったばかりだった。




