友情と信念
マリーナビアンカ救出作戦から三日後、セレスティアは王都への帰路についていた。レオナルド騎士と共に馬を駆りながら、彼女の心は複雑な想いで満ちていた。
黒狼団との共闘、ヴィットーリオとの対話、そして村人たちの安堵の表情。すべてが今までの価値観を揺さぶるものだった。
「殿下」レオナルドが心配そうに声をかけた。「何かお考えですか?」
「ああ」セレスティアが手綱を引き締めた。「ヴィットーリオの言葉が頭から離れない」
「盗賊の戯言など、気になさることはありません」
「いや、レオナルド」セレスティアが首を振った。「彼の指摘には一理ある。私は本当に民の苦しみを理解していたのだろうか?」
レオナルド騎士は困惑した。「殿下、あなたは十分に民のことを...」
「王宮での私の生活を思い返してみろ」セレスティアが自省するように続けた。「毎日決まった時間に豪華な食事、絹の服、暖かいベッド。その間に、寒さに震え、飢えに苦しむ民がいるのだ」
「しかし、それは...」
「言い訳はしたくない」セレスティアが力強く言った。「この旅で私は多くを学んだ。ビアンカのパン作り、菓子職人たちの誇り、マルチェロの海への愛、ノンナ・ジュリアの人生の知恵」
「そして、ヴィットーリオの怒りも」
レオナルドは静かに聞いていた。セレスティアの中で、確実に何かが変わっていることを感じていた。
「私はこれまで、王女という立場に甘えていたのかもしれない」セレスティアが続けた。「民のために何かをしているつもりで、実際は何も理解していなかった」
その夜、二人は街道沿いの小さな宿で一泊することになった。『旅人の宿』という看板を掲げた質素な建物だったが、清潔で温かい雰囲気があった。
「いらっしゃいませ」年配の女性が迎えてくれた。「一晩のお宿ですか?」
「ええ、お願いします」セレスティアが答えた。
「お一人様銀貨一枚、お馬の世話込みで銀貨一枚追加です」
その時、女性はレオナルドの騎士の紋章に気づいた。そして、セレスティアの上品な佇まいを見て、何かを察したような表情になった。
「あの...もしかして、お客様は...」
「どうかしましたか?」セレスティアが尋ねた。
女性は慌てて頭を下げた。「とんでもございません!王家の方からお代をいただくわけには参りません!」
「え?」セレスティアが困惑した。
「どうぞ、ごゆっくりお休みください。すべて無料でご提供させていただきます」
その時、宿の奥から子供の咳き込む声が聞こえた。
「おばあちゃん、また咳が出る...」
「大丈夫よ、薬草茶を作ってあげるからね」女性が慌てて奥に向かった。
セレスティアは女性を呼び止めた。「お孫さんですか?」
「ええ」女性が戻ってきて答えた。「この冬から体調を崩しがちで...でも薬は高くて、なかなか...」
「どのような薬が必要なのですか?」
「解熱の薬草なのですが、今年は不作で値段が上がってしまって」女性が申し訳なさそうに言った。
セレスティアは愕然とした。この女性は宿代を無料にしてくれたのに、孫の薬代が払えずに困っている。
「待ってください」セレスティアが女性の手を取った。「宿代は必ずお支払いします。それが当然です」
「そんな、王家の方から...」
「いえ」セレスティアが強く首を振った。「私たちが無料でサービスを受けることで、あなたのような方に負担をかけているのです」
女性が困惑した。「でも、昔からの慣習で...」
「その慣習こそが問題なのです」セレスティアが気づいた真実を口にした。「私たち王族が民から無償でサービスを受ける間に、その負担はあなたたち庶民にのしかかっている」
レオナルドも驚いた表情を見せた。「殿下...」
セレスティアは財布から金貨を取り出した。「宿代として銀貨二枚、そしてお孫さんの薬代として金貨一枚をお受け取りください」
「そんな大金を...」女性が震え声で言った。
「これは施しではありません」セレスティアが毅然として言った。「正当な対価です。そして、私たちが今まで見過ごしてきた責任の一部です」
女性の目に涙が浮かんだ。「ありがとうございます...本当にありがとうございます」
部屋に案内された後、レオナルドがセレスティアに言った。
「殿下...先ほどのお言葉に深く感動いたします」
「レオナルド」セレスティアが重い口調で答えた。「私は今まで、とんでもない間違いを犯していたのだ」
「どういう意味ですか?」
「王族特権による無料サービスだ」セレスティアが拳を握った。「私たちが『慣習』として無料でサービスを受ける度に、その負担は民に転嫁されている」
「しかし、それは昔からの...」
「昔からの搾取だったのだ!」セレスティアが激しく反省した。「私たちは気づかないうちに、民から奪い続けていた」
「あの女性のように、王族には無料でサービスを提供しながら、自分の孫の薬代が払えないなんて...こんな理不尽があるか?」
レオナルドは初めて見るセレスティアの怒りに圧倒された。しかし、それは他者への怒りではなく、自分自身への怒りだった。
「私は変わる」セレスティアが決意を込めて言った。「王宮に戻ったら、このような特権制度を全面的に見直す」
「しかし、他の貴族たちは反対するでしょう」
「反対されても構わない」セレスティアが毅然として答えた。「正しいことをするのに、他人の許可は必要ない」
翌朝、二人が出発の準備をしていると、昨夜の女性が薬草を煎じた包みを持ってきた。
「お客様、昨夜はありがとうございました」女性が深々と頭を下げた。「おかげで孫の熱も下がりました」
「それは良かった」セレスティアが心から微笑んだ。
「これ、お礼の気持ちです」女性が包みを差し出した。「旅路の疲れに効く薬草茶です」
「ありがとうございます」セレスティアが丁重に受け取った。
馬にまたがりながら、セレスティアは深い満足感を覚えていた。金貨一枚で、一つの家族が救われた。王女という立場の本当の意味を、少し理解できた気がした。
「殿下」レオナルドが感心したように言った。「あのようなお気遣いができるのは、真の指導者の証です」
「まだまだだ」セレスティアが謙虚に答えた。「でも、少しずつ学んでいこう」
王都に近づくにつれて、セレスティアの心は新たな決意で満ちていった。今度の旅で得た経験を、王女としての責務にどう活かすか。
「レオナルド」セレスティアが呼びかけた。
「はい」
「私は変わるつもりだ。王宮に戻ったら、民のための政策を提案する」
「どのような政策ですか?」
「まず、貧しい家庭への医療支援だ」セレスティアが考えながら答えた。「昨夜のような家族は他にもいるはずだ」
「それから、職人たちの技術向上支援。ビアンカやクラウディアたちのような人々の仕事を、もっと評価できる仕組みを作りたい」
レオナルドが感嘆した。「素晴らしいお考えです」
「そして...」セレスティアが一番重要なことを付け加えた。「ヴィットーリオのような人々との対話の場も作りたい」
「え?」レオナルドが驚いた。
「彼らの怒りには正当な理由がある。それを理解せずに、単純に悪として排除するのは間違いだ」
「しかし、法に背く行為は...」
「もちろん、盗賊行為は許されない」セレスティアが明確に言った。「しかし、彼らが盗賊になる前に、何とかできる方法があるはずだ」
「根本的な解決ですね」
「そうだ。貧困や不平等を減らせば、ヴィットーリオのような人も減るはずだ」
王都ルミナリスの城壁が見えてきた。美しい白い石造りの城壁と、中央にそびえる王宮。セレスティアの故郷だった。
しかし、今の彼女には城壁が今までとは違って見えた。美しい城壁の向こうに、様々な人々の生活があることを実感できるようになっていた。
「帰ってきたな」セレスティアが感慨深げに呟いた。
「お疲れ様でした、殿下」レオナルドが答えた。「長い旅でした」
「いや、これは旅の終わりではない」セレスティアが力強く言った。「真の冒険の始まりだ」
城門を通る時、門番の兵士が驚いた表情を見せた。
「セレスティア様!お帰りなさいませ!」
「ただいま」セレスティアが親しみやすく答えた。
「ご無事で何よりです。陛下がお待ちかねでございます」
王宮に到着すると、父である国王が心配そうな表情で迎えてくれた。
「セレスティア、よく無事で戻った」
「父上」セレスティアが深々と頭を下げた。「急な出動で、ご心配をおかけして申し訳ありませんでした」
「まあ良い。お前が無事で戻れて何よりだ」国王が微笑んだ。「それで、盗賊退治の方はうまくいったのか?」
「はい。マリーナビアンカの村人たちを救出できました」セレスティアが真剣に答えた。「しかし、それ以上に重要なことを学びました」
国王は興味深そうに身を乗り出した。「どのような?」
「王女としての真の責務について、そして我々貴族が抱える根深い問題についてです」
国王は興味深そうに身を乗り出した。「詳しく聞かせてくれ」
謁見の間で、セレスティアは今回の出動での出来事を詳しく報告した。マリーナビアンカでの赤蛇団襲撃、黒狼団との予期せぬ共闘、そしてヴィットーリオとの対話について。
ただし、ヴィットーリオとの対話については慎重に言葉を選んだ。父王がどう反応するか予想できなかったからだ。
「なるほど」国王が考え込んだ。「お前は庶民の生活を直接体験し、彼らの心を理解したということか」
「はい。そして、私たち王族の責任の重さも理解しました」
「それで、何か提案があるのか?」
セレスティアは深呼吸してから、自分の考えを述べ始めた。
「父上、私は民のための新しい政策を提案したいと思います」
「聞こう」
「まず、貧しい家庭への医療支援制度の創設です」セレスティアが最初の提案をした。「病気になっても薬が買えない家庭が多くあります」
国王が頷いた。「確かに必要な政策だ」
「次に、職人や商人たちの技術向上支援制度です」セレスティアが続けた。「彼らの技術と誇りを正当に評価し、王国の発展に活かしたいのです」
「これも良い考えだ」
「そして...」セレスティアが最も重要な提案をした。「社会の不平等を解消するための制度改革です」
国王の表情が少し険しくなった。「どのような改革だ?」
「富の再分配を促進する政策です」セレスティアが慎重に説明した。「税制の見直しや、公共事業による雇用創出など」
「それは...」国王が考え込んだ。「貴族院の反対が予想されるが」
「承知しています」セレスティアが覚悟を示した。「しかし、やらなければならないことです」
国王はしばらく沈黙していたが、やがて微笑んだ。
「セレスティア、今回の出動でお前は本当に成長したな」
「父上?」
「盗賊退治という任務を通じて、真の指導者として覚醒した」国王が感慨深げに言った。「お前の提案は確かに困難だが、正しい方向だと思う」
「ありがとうございます」
「ただし、段階的に進める必要がある」国王が現実的な助言をした。「急激な変化は混乱を招く」
「承知いたします」
「まずは医療支援制度から始めよう」国王が決断した。「それが成功すれば、次の段階に進む」
セレスティアの目が輝いた。「本当ですか?」
「ああ。お前の旅での経験と学びを、王国の発展に活かそう」
その夜、セレスティアは自室で今回の出動を振り返っていた。父王の理解と支援を得られたことは、何よりの収穫だった。
窓から見える王都の夜景を眺めながら、セレスティアは短期間で出会った人々を思い浮かべた。
これまでの旅で出会ったビアンカの純粋な友情、クラウディアたちの職人としての誇り、マルチェロの海への愛、ノンナ・ジュリアの人生の知恵。そして今回、ヴィットーリオの社会への怒りと、宿の女性の困窮。
すべてが今の自分を形作っている。
「私は変わった」セレスティアが静かに呟いた。「でも、これは始まりに過ぎない」
翌日から、セレスティアの新しい挑戦が始まった。医療支援制度の詳細設計、財源の確保、貴族院での説得工作。すべてが困難な作業だったが、今回の出動での経験が彼女を支えていた。
「殿下」宰相が報告した。「医療支援制度の草案が完成いたしました」
「ご苦労だった」セレスティアが資料を確認した。「これで多くの家族が救われるだろう」
「しかし、財源について貴族院からの反対意見が...」
「予想していたことだ」セレスティアが冷静に答えた。「粘り強く説得していこう」
数週間後、ついに医療支援制度が貴族院で可決された。セレスティアの熱意と、具体的なデータに基づく説明が功を奏したのだった。
「やったぞ!」セレスティアが喜びを表した。
「おめでとうございます、殿下」側近の文官も嬉しそうだった。
「これで第一歩を踏み出せた」セレスティアが続けた。「次は職人支援制度だ」
その日の夕方、セレスティアは城の庭を散歩していた。美しい花々が咲く庭園だったが、今は以前とは違う思いで眺めていた。
この美しさを、もっと多くの人々と分かち合えないだろうか。王宮の庭園を、特別な日に市民に開放するのはどうだろう。
「殿下」侍女が近づいてきた。「お客様がお見えです」
「誰だ?」
「フィレンツィアからビアンカ・モンティーニという女性が参りました」
セレスティアの顔が輝いた。「ビアンカが!すぐに案内してくれ」
謁見の間で、セレスティアはビアンカと再会した。相変わらず元気そうで、少し垢抜けた印象だった。
「セリア...いえ、セレスティア様」ビアンカが緊張しながら挨拶した。
「ビアンカ!」セレスティアが駆け寄った。「会いたかった!元気だったか?」
「はい...でも、まさか本当に王女様だったなんて」ビアンカが困惑した。
「私は今でもセリアだ」セレスティアが微笑んだ。「友達なのだから、以前のように接してくれ」
ビアンカの緊張が少しほぐれた。「それで...今日は大切な報告があって参りました」
「どのような?」
「実は、セレスティア様の医療支援制度のおかげで、私の隣人の赤ちゃんが救われたんです」
セレスティアが驚いた。「もう効果が現れているのか?」
「はい。高熱で危険な状態だったのですが、無料で薬を受け取ることができて...」ビアンカが感激しながら続けた。「町の人々は皆、セレスティア様に感謝しています」
「それは...」セレスティアの目に涙が浮かんだ。
「それに」ビアンカが嬉しそうに報告した。「職人支援制度の話も聞いています。お父さんがとても期待しているんです」
「ビアンカ、ありがとう」セレスティアが心から言った。「君からの報告が何よりの励みだ」
「私こそ、セレスティア様のような友達がいて誇らしいです」
その夜、ビアンカは王宮に一泊することになった。二人は昔のように、夜遅くまで語り合った。
「セレスティア様、本当に変わりましたね」ビアンカが感心した。
「どのように?」
「前は少し不安そうな表情をしていたけれど、今はとても自信に満ちている」
「そうか?」セレスティアが苦笑した。
「はい。きっと、本当にやりたいことを見つけられたからですね」
「君の言う通りだ」セレスティアが頷いた。「私は王女として、本当にすべきことを見つけた」
「それは素晴らしいことです」
翌朝、ビアンカが帰る時、セレスティアは特別な贈り物を渡した。
「これは?」ビアンカが美しい装飾の施された小箱を受け取った。
「パン作りの道具だ」セレスティアが説明した。「王宮の職人が作った特別なものだ。君のパン作りがさらに向上するはずだ」
「ありがとうございます!」ビアンカが感激した。
「それと」セレスティアが付け加えた。「定期的に王宮を訪れてくれ。君の報告は私にとって何よりも大切だ」
「必ず参ります」
ビアンカを見送った後、セレスティアは深い充実感を覚えていた。自分の政策が実際に人々を助けていることを確認できた。そして、真の友情は身分を超えて続くことも。
「レオナルド」セレスティアが呼びかけた。
「はい」
「次の政策の準備を始めよう」セレスティアが意欲的に言った。「やることは山積みだ」
「承知いたしました」
「そして」セレスティアが微笑んだ。「今度は私が方向を間違えることはない」
「どういう意味ですか?」
「人生の方向だ」セレスティアが自信を込めて答えた。「私は真の王女として歩む道を見つけた」
数ヶ月後、セレスティアの改革は着実に成果を上げていた。医療支援制度は多くの家庭を救い、職人支援制度は技術の向上と雇用の創出をもたらした。
そして何より、セレスティア自身が国民から愛される指導者として成長していた。
「殿下」ある日、宰相が報告した。「素晴らしいニュースがあります」
「何だ?」
「他国からも、我が国の社会制度を参考にしたいという申し出が来ています」
「本当か?」セレスティアが驚いた。
「はい。特に、医療支援制度は画期的だと高く評価されています」
セレスティアは深い満足感を覚えた。自分の旅で学んだことが、国境を越えて広がろうとしている。
「これもすべて、旅で出会った人々のおかげだ」セレスティアが感謝を込めて言った。
「殿下の学びを行動に移す力があったからこそです」レオナルドが答えた。
その夜、セレスティアは城の屋上で星空を見上げていた。1年前の自分からは想像もできないほど、充実した日々を送っている。
旅で出会った人々を思い浮かべた。ビアンカ、クラウディア、マルチェロ、ノンナ・ジュリア、そしてヴィットーリオ。
皆、それぞれの道を歩んでいるだろう。でも、彼らとの出会いが自分を変えてくれた。
「ありがとう、皆」セレスティアが星空に向かって呟いた。
方向音痴で甘いもの好きの王女は、迷子になりながらも、ついに自分の進むべき道を見つけたのだった。
真の王女としての人生が、今始まったばかりだった。そして、これから出会うであろう新たな挑戦と仲間たち - きっと、さらなる成長をもたらしてくれる素晴らしい人々との出会いも待っているだろう。
愛と友情に満ちた、美しい未来に向かって。