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王女の大脱出

注: セレスティアの心の中の声で、太陽の位置がおかしいですが、これはセレスティアが方向音痴なためであり、誤植ではありません。

1485年3月、ルミナール王国の春は例年より早く訪れていた。王宮の中庭では桜の花が美しく咲き誇り、暖かい陽射しが石畳を照らしている。しかし、その美しい光景とは裏腹に、第三王女セレスティア・ルミナールの心は暗雲に覆われていた。


「だから申し上げているでしょう、殿下」家庭教師のマルガレータ夫人が、いつものように厳しい口調で言った。「王女たるもの、常に優雅で品格を保たねばなりません。歩く時は背筋を伸ばし、足音を立てず、まるで雲の上を歩くように」


「承知している」セレスティアが機械的に答えた。しかし、心の中では別のことを考えていた。


(また同じ話か...毎日毎日、歩き方、話し方、食事の仕方...)


「それから、来月にはガリア王国のエドゥアール王子がお見えになります」マルガレータ夫人が続けた。「政略結婚の可能性もございますので、十分に準備を...」


「政略結婚?」セレスティアが突然立ち上がった。「またその話か?」


「殿下、お声が大きゅうございます」


「失礼!」セレスティアが反射的に答えてしまい、すぐに言い直した。「あ、いえ...申し訳ない」


マルガレータ夫人が深いため息をついた。「殿下、王女としての自覚をお持ちください。ご結婚は王国の将来に関わる重要な政治的判断なのです」


「分かっている」セレスティアが歯を食いしばって答えた。「しかし、私には私の意志というものが...」


「意志?」夫人が眉をひそめた。「王族に個人的な意志など必要ございません。国家のために生きるのが王族の務めです」


セレスティアの拳が震えた。20年間、ずっとこの調子だった。王女だから、王族だから、国家のために。自分の気持ちや願いは、いつも二の次だった。


「本日の礼儀作法の授業はここまでです」マルガレータ夫人が時計を確認した。「午後からは隣国語の授業がございます。遅れないように」


夫人が退室すると、セレスティアは椅子に崩れ落ちた。窓の外では、自由に空を飛ぶ鳥たちが見える。


「私も...ああやって自由に飛べたらな」


その時、扉がノックされた。


「殿下、失礼いたします」


入ってきたのは、セレスティアの専属護衛騎士レオナルド・ベルナルディだった。28歳の彼は、誠実で責任感が強く、セレスティアを幼い頃から守り続けてきた。


「レオナルド」セレスティアが顔を上げた。「どうした?」


「午後の外出の件でご相談が」レオナルドが報告書を示した。「隣国大使との面会の前に、王都の視察をご希望でしたが、警備上の問題で...」


「また警備上の問題か」セレスティアが立ち上がった。「レオナルド、私から質問がある」


「はい、何でしょう?」


「お前は私のことを、どう思う?」


レオナルドが困惑した。「どう、と申しますと?」


「王女として、ではない。一人の人間として」セレスティアが真剣な表情で尋ねた。「正直に答えてくれ」


「それは...」レオナルドが言葉に詰まった。「殿下は心優しく、正義感が強く、民思いの素晴らしい方だと思います」


「それも王女としての評価だろう」セレスティアが苦笑した。「私が本当に知りたいのは...もし私が普通の女性だったら、お前はどう思うかということだ」


レオナルドの頬が赤くなった。「そ、それは...」


「ありがとう。お前の答えは分かった」セレスティアが微笑んだ。「お前は誠実すぎるのだ」


その夜、セレスティアは自室で一人、重大な決断を下していた。机の上には、侍女から借りた庶民の服が置かれている。


「もう我慢できない」セレスティアが呟いた。「一度でいい。普通の女性として生きてみたい」


しかし、問題があった。王宮からの脱出は一人では困難だ。警備は厳重で、特に深夜は見張りが立っている。馬も必要だろう。120キロメートル先の隣国まで、徒歩では何日もかかってしまう。


「レオナルドに頼むしかないか...」


セレスティアは決意した。明日の夜、計画を実行に移す。


翌夕、レオナルドが定例の夜回りでセレスティアの部屋を訪れた。


「殿下、今夜の警備についてご報告いたします」


「レオナルド」セレスティアが真剣な表情で呼び止めた。「お前に頼みがある」


「はい、何でしょう?」


「私を王宮から出してくれ」


レオナルドは困惑した。「お出かけでしたら、明日の昼間に正式な手続きを...」


「違う」セレスティアが首を振った。「誰にも知られずに、今夜、王宮を出たいのだ」


「それは...」レオナルドが青ざめた。「殿下、そのようなことは王命に背く行為です」


「頼む」セレスティアが懇願した。「お前しか頼める人がいない」


レオナルドは長い間沈黙していた。忠義と、セレスティアへの気持ちの間で揺れていた。


「理由をお聞かせください」レオナルドがついに口を開いた。


「自由になりたい」セレスティアが率直に答えた。「王女としてではなく、一人の女性として生きてみたい。たった一度でいいから」


「それでしたら、私もお供いたします」レオナルドが申し出た。「殿下をお一人でお出しするわけにはいきません」


「だめだ」セレスティアが首を振った。「お前に罪が及んでしまう。私一人なら、何かあっても私だけの責任で済む」


「しかし、殿下...」


「お前は王宮に残れ」セレスティアが真剣に見つめた。「私の脱出が発覚すれば、必ず追手が出るだろう。その時、内部から情報を得て、私を守ってくれ」


レオナルドの心が動いた。セレスティアは自分の危険よりも、彼の立場を心配してくれているのだ。


「...分かりました」レオナルドがついに頷いた。「しかし、条件があります」


「何だ?」


「何かあった時は、必ず私を頼ってください」レオナルドが真剣な表情になった。「どんなに遠くても、必ず駆けつけます」


「ありがとう」セレスティアが心から言った。「お前は本当に...」


「殿下の願いを叶えることができるなら、私はそれで十分です」レオナルドが微笑んだ。


「レオナルド...」セレスティアが感謝を込めて見つめた。


「せめて、旅の準備だけでもさせてください」レオナルドが申し出た。


「馬を用意します」レオナルドが説明した。「優秀な馬なら、一日で隣国まで行けます。食料と水、それに旅費も準備しましょう」


「レオナルド...」セレスティアの目に涙が浮かんだ。「ありがとう」


深夜2時、二人は厩舎で落ち合った。レオナルドが優秀な栗毛の牝馬を一頭用意していた。


「この馬の名前はフィオーラです」レオナルドが馬の首を撫でながら説明した。「気性が穏やかで、長距離にも慣れています」


「美しい馬だな」セレスティアが感心した。


「食料と水、それに旅費も馬の鞍に付けてあります」レオナルドが荷物を確認した。「しばらくは困らないはずです」


「ありがとう」セレスティアが馬にまたがった。「迷惑をかけてしまって申し訳ない」


「心配ありません」レオナルドが手綱を整えながら答えた。「明日の朝まで、誰も気づかないよう工作してあります。侍女には、殿下は体調不良で部屋で休んでいると伝えてあります」


「それから」レオナルドが真剣な表情になった。「道に迷った時のために」


彼はセレスティアに小さな銀の鈴を渡した。


「これを鳴らせば、私に届きます。どんなに遠くても、必ず迎えに行きます」


「レオナルド...」セレスティアが鈴を握りしめた。


「それでは、お気をつけて」レオナルドが王宮の裏門を開けた。「南門から南に向かえば、アルベリアという商業都市に着きます。そこなら安全でしょう」


「南だな。覚えておく」


「くれぐれも、道に迷わないよう注意してください」レオナルドが心配そうに付け加えた。「殿下の方向感覚は...」


「失礼な!」セレスティアが頬を膨らませた。「私だって、南くらい分かる」


「それでは...」レオナルドが複雑な表情で手を振った。


セレスティアは馬を走らせた。夜風が頬を撫で、久しぶりの自由を感じていた。


「ありがとう、レオナルド」


彼女は南に向かって馬を走らせた。少なくとも、そのつもりだった。


しかし、夜道で方向を見極めるのは困難だった。月は雲に隠れ、星もよく見えない。セレスティアは王宮を背にして、まっすぐ進めば南だろうと判断した。


「南門から南に向かう。簡単だ」


数時間後、夜が明け始めた。セレスティアは美しい朝焼けに感動していた。


「綺麗だな...王宮では見ることのできない景色だ」


しかし、太陽の位置を見て、彼女は首をかしげた。


「あれ?太陽が左側から昇ってくる?南に向かっているなら、太陽は右側のはずだが...」


それでも、セレスティアは気にしなかった。きっと道が曲がりくねっているのだろうと思った。


「まあ、大体の方向が合っていれば問題ない」


昼頃、セレスティアと愛馬フィオーラは大きな川に到達した。


「川?こんなところに川があったか?」


川のほとりには渡し場があり、船頭が手を振っていた。


「お嬢さん!こちらへ!フィレンツィアへお向かいですか?」


「フィレンツィア?」セレスティアが驚いた。


フィレンツィアは王都の南西120キロメートルにある商業都市だ。南ではなく、南西だった。


「ま、まさか...」


船頭が説明した。「王都ルミナリスはあちらの方向です。北東に120キロメートルほどですかな」


セレスティアは愕然とした。北東?ということは、自分は南西に向かっていたということか?


「そんな...私は南に向かっていたはずなのに...」


船頭が苦笑いした。「お嬢さん、もしかして方向音痴では?夜道は方向が分かりにくいものです。星や月が雲で隠れていたでしょう?」


確かに、昨夜は雲が多かった。セレスティアは顔を赤くした。


「そ、そんなことは...」


しかし、事実は変わらない。王都から120キロメートルも離れた場所に来てしまったのだ。


「渡し船をご利用になりますか?」船頭が親切に尋ねた。


セレスティアは考えた。確かに、いきなり120キロメートルを馬で帰るのは、フィオーラも疲れているだろう。それに、せっかく脱出に成功したのだから、少しくらい冒険してもいいのでは?


「お願いする」


「馬も一緒でしたら、少しお時間をいただきます」


川を渡る間、船頭が親切に説明してくれた。


「フィレンツィアは良い町ですよ。商業が盛んで、美味しいパンやお菓子で有名です」


「パンやお菓子?」セレスティアの目が輝いた。


「ええ。特に蜂蜜パンは絶品です。町の入り口に『陽だまり亭』という宿もありますので、一泊されてはいかがですか?」


セレスティアは決断した。


「そうさせてもらう」


船が向こう岸に着くと、セレスティアはフィオーラを引いて町に向かった。


町の入り口に着くと、確かに『陽だまり亭』という看板が見えた。木造2階建ての、こじんまりとした宿だった。


「いらっしゃいませ」元気の良い女性の声が響いた。


宿の中に入ると、40代くらいの女将が明るく迎えてくれた。


「お一人様ですか?馬も一緒でしたら、厩舎もございます」


「お願いする。お値段は?」


「一泊朝食付きで銀貨1枚、馬の世話込みで銀貨1枚追加です」


セレスティアは安堵した。レオナルドが用意してくれた金額で十分だった。


部屋に案内されると、シンプルだが清潔な部屋だった。王宮の豪華な部屋とは大違いだが、なぜか心地よく感じられた。


「夕食は1階の食堂でお出しします。それまで、よろしければ町を散策されてはいかがですか?」女将が提案した。


「ありがとう」


セレスティアは部屋に荷物を置くと、再び外に出た。フィレンツィアの町並みは、王都とは全く違っていた。石畳の道に木造の家が立ち並び、商人や職人たちが活気よく働いている。


「すごい...」


王宮では決して見ることのできない光景だった。肉屋では新鮮な肉が並び、パン屋からは香ばしい匂いが漂ってくる。


特に、一軒のパン屋の前で、セレスティアは足を止めた。ショーウィンドウには、様々な種類のパンや菓子が美しく並んでいる。


「美味しそう...」


その時、パン屋から一人の少女が出てきた。セレスティアと同じくらいの年齢で、小麦粉で少し汚れたエプロンを着けている。


「あら、いらっしゃいませ!」少女が明るく声をかけた。「何かお探しですか?」


「あ、えーと...」セレスティアが戸惑った。「その...パンを...」


「初めてお見かけしますね。旅の方ですか?」少女が興味深そうに尋ねた。


「ああ...そうだ」


「それでしたら、おすすめがあります!」少女が嬉しそうに言った。「当店自慢の蜂蜜パンはいかがですか?旅の疲れにも最適ですよ!」


蜂蜜パン。セレスティアの目が輝いた。王宮でも時々食べることがあったが、町のパン屋のものはどんな味なのだろう?


「ぜひ頼む」


「ありがとうございます!」少女が店の中に駆け込んだ。「お父さん!蜂蜜パン一つお願いします!」


店の奥から、優しそうな中年男性が現れた。


「はいはい、今すぐ温めますよ」


数分後、湯気の立つ美味しそうな蜂蜜パンが渡された。


「ありがとう。いくらだ?」


「銅貨3枚です」


セレスティアが代金を払うと、少女が嬉しそうに言った。


「よろしければ、お店の前のベンチでお召し上がりください。お茶もお出ししますよ」


「ありがとう」


セレスティアはベンチに座り、蜂蜜パンを一口食べた。瞬間、その美味しさに驚いた。


「うむ!」思わず王女言葉が出てしまった。「これは...いや、これは本当に美味しいな」


少女が嬉しそうに微笑んだ。「ありがとうございます!私はビアンカ・モンティーニです。お父さんと二人でこのパン屋をやっています」


「私は...」セレスティアが一瞬迷った。「セリアだ。セリア・アルティエーリ」


咄嗟に考えた偽名だった。セリアはセレスティアの愛称、アルティエーリは商人によくある姓だ。


「セリアさんですね!素敵なお名前です」ビアンカが手を叩いた。「どちらからいらしたんですか?」


「え、えーと...遠いところからだ」


「そうなんですね。それで、どのくらいフィレンツィアにいらっしゃる予定ですか?」


「明日には出発する予定だが...」


「それは残念です」ビアンカが本当に残念そうな表情を見せた。「せっかくお友達になれそうだったのに」


お友達。その言葉がセレスティアの心に響いた。王宮では、誰も彼女と対等な友達になろうとはしなかった。みんな王女として接するだけだった。


「もしよろしければ」セレスティアが提案した。「明日、町を案内してもらえないか?」


「本当ですか?」ビアンカの顔が輝いた。「喜んで!実は明日はお店がお休みなんです。一日ご案内しますね!」


その夜、宿の食堂で夕食を取りながら、セレスティアは今日のことを振り返っていた。方向音痴で迷子になってしまったが、結果的に素晴らしい出会いがあった。


「明日が楽しみだな」


ビアンカという友達ができた。初めての、対等な関係の友達だった。


一方、王都ルミナリスの王宮では、朝から大騒ぎが起こっていた。


「何ということだ!」国王が激怒していた。「セレスティアが行方不明だと?」


「申し訳ございません」レオナルドが深く頭を下げていた。「私の責任です」


「責任?お前が見張っていたのではないのか?」


「はい...しかし、昨夜は体調不良で休んでおられると...」


国王は怒りで震えていた。「すぐに探せ!王国中を探し回ってでも見つけ出すのだ!」


「承知いたしました」レオナルドが立ち上がった。


内心で、彼はセレスティアが南西方向に向かったことを知っていた。しかし、それを正直に報告するわけにはいかない。


「レオナルド」国王が厳しい声で呼んだ。「お前が先頭に立って探索せよ。必ず連れ戻すのだ」


「はい」


レオナルドは決意した。セレスティアを見つけ出し、安全を確認する。そして、彼女の望みも叶えてあげたい。


真の冒険は、まだ始まったばかりだった。方向音痴の王女と、彼女を愛する騎士の、運命的な物語の第一歩だった。

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