第七話
「あんた……、ちょっとやり過ぎじゃない?」
「何を言っている? 手を出さなかっただけましだ」
「まあそうね、あんたが脅さなければ私が平手打ちの一発でお見舞いしてやったわよ」
そう言うとフロレンツィアとルートヴィッヒが互いに顔を見合わせて笑った。この二人は普段顔を合わせれば火花を散らしているというのに、こういう時だけは随分と気が合う。
「それよりお前、早いところ兄貴のところに行ってやれよ」
ふと思い出したように、ルートヴィッヒはフロレンツィアにそう言った。
「お兄様の? 何でよ?」
「今アヴリル嬢と面会中なんだが正直見てられん。お前が間に入って取り持った方がいい。お前本来そのためについてきたんじゃないのか?」
ルートヴィッヒが投げやりに問うと、フロレンツィアはあからさまに面倒くさそうな顔をした。が、ふと諦観の表情を浮かべため息をつくと、
「……わかったわよ。行けばいいんでしょ、行けば」
そして大股でサンルームの入り口まで歩いていくと、ふとこちらを振り返って、
「ロザリーを泣かす奴は誰であろうと許さないから、あの爺も――あんたもね」
勇ましい捨て台詞を残して令嬢は出ていった。その背中を呆然と見送ったロザリーはしばらく放心していたものの、ふと隣に立つルートヴィッヒと目が合った。
「まったく……、どいつもこいつも、俺の屋敷で勝手ばかりしやがって」
「えっと、エゴール様の面会って?」
「前に言ってなかったか? シルベストレ卿の令嬢と縁談話が進んでるんだよ。俺が仲介役」
「ああ、そういえばそんな事言ってたな――」
ここ最近忙しくてすっかり頭から抜け落ちていた。シルベストレ卿が屋敷にいたのもそのためか、と辺境伯夫人の立場でありながら把握していなかった自分に落胆する。
(いや、そんな事よりも言わなきゃいけない事がある)
「あの、ルートヴィッヒ――」
「すまん」
ロザリーが言い終わる前に、ルートヴィッヒが辛そうに顔を歪め謝罪の言葉を口にした。
「シルベストレはお前の事をよく思っていなかった。俺が配慮するべきだったのに、お前に不愉快な思いをさせてしまった」
悲しそうに項垂れるルートヴィッヒに、ロザリーは慌てて縋りつく。
「何を言ってるんだ! お前が謝る必要なんかない。むしろ、私が我慢できずにあの男を殴りそうになったのを止めてくれただろ?」
あそこで本当にシルベストレ卿に手を出していれば、両家の関係にひびを入れてしまうところだ。ロザリーは暴力者と吹聴され、最悪何らかの賠償を請求されるかもしれない。それにエゴールの縁談が破談になる可能性だってある事を考えると、ルートヴィッヒが割って入ってくれて良かったのだ。
「それでも俺はお前が誰かの心無い言葉で傷つくのは耐えられないし、それを許してしまった自分も許せないよ」
そう言ってルートヴィッヒはロザリーの頬を優しく撫でた。その心地よさにロザリーはほうっと息をつく。が、
「……」
「……」
会話が不自然途切れて、お互い気まずくなって目を逸らす。シルベストレ卿の一件ですっかり頭から抜け落ちていたが、ロザリーたちは昨日喧嘩をして、朝から言葉を交わさぬくらい気まずい空気だったことを思い出した。ルートヴィッヒもほぼ同時にそのことを思い出したのか、頬を撫でる手が若干強張ったような気がした。
「……すまん」
重苦しい沈黙を破ったのはやはりルートヴィッヒの方だった。本日二度目の謝罪。だが、今度はロザリーも何と言っていいかわからず口を噤む。思いつめたような顔をして謝罪を述べる彼の姿に、ロザリーは胸が締め付けられるような思いがした。彼はばつが悪そうに頭を掻きむしると、低い唸り声をあげる。
「あー、いや、違うんだ。俺は謝らなきゃいけないんじゃなくて、だな……」
「……?」
「昨日、俺はお前を不快にさせるような事をしたんだろ? でも、俺はそれを覚えてない」
「あ、ああ……、相当酔っぱらってたみたいだし」
正直な事を言うと、ロザリーは恥ずかしかっただけで不快感を覚えたわけではなかった。だから本当は怒るほどの事ではない。
むしろ惚気話を他人に語られた程度で恥ずかしがる方が、妻として間違っているのかもしれない。もっと、毅然とした態度で、受け流す事ができればよかったのだ。
(……やっぱり私はまだまだ未熟だ)
ルートヴィッヒが己の失態に後悔の念を抱いているように、ロザリーもまた己の度量の狭さを嘆いていると、
「……一度しか言わないからな」
そう言って前置きをしたルートヴィッヒが、咳払いをしてまっすぐロザリーを見つめる。その瞳の熱さにロザリーの鼓動が跳ねるのを感じた。
「お前がずっと『サンヴェロッチェ』を再興させたいと思っていたことはよくわかってる。その望みが叶って、今まさにお前は役者としての復帰を実現させた。本当に、喜ばしい事だと思う」
「あ、ああ……」
「お前ならいずれこの町だけでなく、この国――いや、大陸中にその名を轟かす事が出来るかもしれない。そしてこれから『サンヴェロッチェ』を売っていくには今が一番大事な時期だ。だからこそ、この公演を大成功で終わらせるために、お前は今も日夜必死に稽古を続けているし、一公演一公演を大切に演じている。そうだろ?」
「勿論、そうだけれど……」
何が言いたいのかわからずロザリーは首を傾げ続けた。徐々に追いつめられたかのように息を詰めるルートヴィッヒは、それでも必死に言葉を紡いでいる。
「わかってる、わかってはいるんだ。でも――」
ルートヴィッヒは何故か嘘みたいに赤面していた。そんな姿を初めて見るものだから、相対するロザリーも変に緊張してしまう。そして、
「俺は――……やっぱり寂しい」
「……え?」
「寂しいんだ。お前と共にいる時間が減って、俺は寂しい」
一瞬何を言われているのかわからなかった。それくらい、その『寂しい』という響きは普段のルートヴィッヒからは想像しがたい言葉で。
でも間違いなく、今目の前の男はロザリーにそう言った。
「本当は俺だって仕事もほっぽって四六時中お前と一緒にいたいし、お前を連れていきたい場所もまだまだあるし、お前ともっと語らいあいたいし、お前にもっと触れたいし、眠る時はお前を抱いて眠りたい」
「――な、な……っ」
「お前がいないと俺は寂しくて死にそうだ。だから、――構ってくれ」
ずいっと、顔を近づけてきたルートヴィッヒは真剣に、そしてまっすぐな目をしてロザリーに懇願する。ルートヴィッヒの瞳に映る自分の当惑した顔がみるみるうちに赤くなっていった。
「なっ……、なんで今そんなこと言うんだ⁉」
「お前と早く仲直りしたいからだ。本当は俺が謝罪すべきだろうけど、生憎俺は昨日の事を何一つ覚えていない。覚えていない事に謝るのは俺にとってもお前にとっても不毛だ。だから俺は謝らない」
清々しい宣言にロザリーは唖然とする。はたから見ればなんて横暴、なんて傲慢。でも、あまりにもまっすぐな目をして言うものだからロザリーは何一つ反論できない。
さらに追い打ちをかけるように、ルートヴィッヒがロザリーの手を握り締めた。
「だからその代わりに俺はお前に今の気持ちを素直に伝える事にした。俺がお前の事をどれだけ愛しているかを。お前の事をどれだけ求めてるかを」
「……ちょ、ちょっと待っ――」
「今日残りの全ての時間を俺にくれ。仕事も接待も今日はなしだ。俺はお前と過ごしたい」
「待て。だか、ら――」
「ロザリー頼む。お前に嫌われるのだけは嫌なんだ。俺に出来る事は何でもするから、だから――」
「~~~~っ! だからちょっと待てって言ってるだろ‼」
限界を迎えたロザリーは二日連続で夫の頭を強打することとなった。