第六話
「何をしているんだ。ロザリー」
だが、ロザリーの拳がシルベストレ卿に届く前に、鋭い一喝がロザリーの身体を拘束した。ハッとしてサンルームの入り口に目を向けると、ルートヴィッヒが呆れた顔で立っている。
「ルートヴィッヒ……!」
「ロザリー、手を下ろしなさい。シルベストレ卿に無礼だろう」
「ちょっとあんた! 止めないでよ! この男はロザリーを――」
フロレンツィアが抗議にかかろうとしたが、ルートヴィッヒが恐ろしいほど鋭い眼光で睨みつけるので、さすがのフロレンツィアも口を噤む。ルートヴィッヒは静かにロザリーの傍らに立つと、行き場を失くしたロザリーの拳を手で包み下ろさせた。そして、ロザリーを庇うようにシルベストレ卿と向き合う。
「失礼、私の妻が無礼を働いたようで」
「……ふんっ、まったくだ! 所詮は卑しい下賤の娘だ。大体、お前とて本物の貴族かは怪しいから、お似合いだがな」
なおも続く罵声に、何故かルートヴィッヒはにこりと笑みを返した。肩越しに見えたその横顔が、どこかひどく冷たく見えてロザリーはひゅっと喉を鳴らす。
(もしかしなくても、めちゃくちゃ怒ってる……)
絶対零度の微笑みを浮かべながら、次にルートヴィッヒが何を言い出すかと思えば、
「そういえばシルベストレ卿、ここに来る道中、町で揉め事に巻き込まれませんでしたか?」
思わぬ質問に、シルベストレ卿は虚を突かれて固まる。
「別に、揉め事には巻き込まれなかったが。まあ、随分と通りの往来が多くて、馬車が通行人とぶつかりそうになったくらいだな」
「そうですか。最近多いのですよ。町で旅行客同士で喧嘩したり、商人同士で取引に関する口論をしたり」
困ったように息をつくルートヴィッヒに、シルベストレ卿は得意げに笑った。
「ふんっ、所領の治安維持さえままならないとは、領主として未熟なのではないか?」
「ええ、私自身も至らぬと思っております。ここのところ警備の強化に対策を練るのに必死で。この一か月で随分と町も賑やかになりましたから」
ルートヴィッヒは一体何が言いたいんだろうか、とロザリーはハラハラとその様子を見守っている。と、
「卿。貴殿はこのブラムヘンの町の最大収益が何によってもたらされているかご存じですか?」
ルートヴィッヒはまたしても、荒唐無稽な質問をシルベストレ卿に投げた。
「は? 収益?」
「ブラムヘンの最大収益はこの町で商業取引を行う交易商人からの仲介手数料。次いで農産物及び加工品の販売収益ですが、その次に多いのが商人や観光客の宿泊費と行楽費です」
混乱するシルベストレ卿の事はお構いなしに、ルートヴィッヒは淡々と語る。すっかり怒りの熱が冷めてしまったロザリーとフロレンツィアは、ルートヴィッヒの意図がよくわからずにお互いに顔を見合わせた。
「この町は他国とも隣接するフォルテ王国の玄関口。まあ、あと数年もすれば公国となりますが、南欧から王国へ商売をしにやってくる行商人たちの多くがこの地を訪れます」
「……」
「南欧は遥か中東の大陸より地中海交易によって様々な舶来の品が行き着く地方。そしてそれを中欧や北欧へ売るための第一関門として、この町で地元の商人と大口の取引を行う。取り扱う商品が多様であればあるほど、取引には日数を要する。したがって行商人たちはこの町の宿場で数日を過ごし、その間町の宿屋や酒場に金を落とす」
「おい、さっきから何の話を――」
「珍しい舶来の品を最初に拝める地とあって、王都の方からわざわざこの町に買い付けに来る貴族もいます。中には行商人に直接交渉をかける方もいらっしゃいますね。そういう方々のために、中央の議事堂では月に一度大きな品評会も開かれていますよ」
「話の意図がわからん。貴様は一体何が言いたいんだ!」
業を煮やしたシルベストレ卿が怒鳴った。そしてそれを合図に、ルートヴィッヒの声音が激変した。
「我がブラムヘン領のその収益が今月に入って激増しました。月末の集計値を確認する必要もなく、今月は歴代でも過去最高の収益となるでしょう」
「なんだそれは? 自慢か?」
「ええ自慢です。それもこれも全て、妻のおかげですから」
突然、話の蚊帳の外で呆然としていたロザリーの肩をルートヴィッヒが抱き寄せた。シルベストレ卿の前で抱きしめられる形になって、ロザリーは羞恥で顔を赤らめる。抗議を申し立てようとするが、そんな隙を与えずルートヴィッヒはすかさず話を続けた。
「彼女が先月の下旬から劇団を立ち上げ公演を始めました。するとブラムヘンを訪れる観光客が目に見えて増えました。ブラムヘンの財源が潤ったのも、町が豊かに活気づいたのも、彼女のおかげです」
堂々たるルートヴィッヒの言い分に、さすがのシルベストレ卿も開いた口が塞がらない。そして、ルートヴィッヒは口元に笑みを浮かべながら、恐ろしいほど冷たい目を目の前の男に向けた。
「……さて、先ほど我が妻を下賤の娘と仰いましたが、これほどまでに所領の繁栄に貢献してくれる者が果たして貴族の中にもどれだけいるのか」
「……っ」
「そういえばお聞きしておりますよ、シルベストレ卿。貴方の所領、商業も滞って住民も減り、随分苦心なさっているとか。西部は大西洋側に面した港市が多く隣接していますからね。町に魅力がなければあっという間に民は他所に流れてしまうんでしょうね」
その瞬間、シルベストレ卿の顔色が明らかに悪くなった。無慈悲にもルートヴィッヒの攻撃は続く。
「今回の縁談話、貴方にとっては願ってもいない事でしょう? 王都の官僚貴族ともあれば十分な資金援助を見込める。貴方だって最初、私からの縁談話だと聞いて渋っていたくせに、お相手がエルメルト家だとわかった途端目の色を変えたではありませんか」
「だっ、黙れ!」
「他者を蔑む前に、自身の身の振り方を考え直した方がよろしいですよ? ほら、周りを見てください。貴方が、どこで、誰に、喧嘩を売っているのか」
ロザリーを解放したルートヴィッヒが一歩シルベストレ卿に近づいた。それだけで、シルベストレ卿は蛇に睨まれた蛙のように縮こまる。彼の胸元をルートヴィッヒが長い指でとん、と突いて、
「俺の屋敷で俺のもんを侮辱したらただですまないと思え」
その脅し文句は声が低く小さすぎてロザリーですら聞き取れなかった。だが、至近距離にいたシルベストレ卿には届いたようで、
「ひ、ひぃ……!」
情けない声を上げてシルベストレ卿は一目散にサンルームを飛び出していった。あとには呆然とするロザリーとフロレンツィア、そして鼻を鳴らして今しがた逃げていった男の背中を睨みつけるルートヴィッヒが残された。