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第四話

 ◆

 日も暮れかけた頃に、ロザリーとフロレンツィアはルートヴィッヒの屋敷に戻ってきた。


「ああ、楽しかったわ。ロザリーの舞台も見られて、遠駆けで湖畔も巡れて」

「ええ、私も楽しかったです。ですが、お嬢様。お疲れではございませんか? 今朝方こちらに到着したばかりだったのでしょう?」


 不安げに尋ねるロザリーにフロレンツィアは元気よく首を振って、ロザリーの腕に抱き着いてきた。


「全然! 疲れてなんかないわ、貴女に久しぶりに会えたんですもの。疲れなんて吹き飛んじゃった」


 屈託のない笑みを浮かべるフロレンツィアの表情はよく見れば疲労が滲んでいたが、ロザリーは気づかないふりをして笑みを返した。

 ルートヴィッヒの策略でエルメルト家の養女となったロザリーは、戸籍上フロレンツィアの姉という立場になった。とはいえ、二人の関係は相変わらず主人と従者のそれに近く、ロザリーもフロレンツィアの変わらない態度に救われている節がある。


「それにしても、ロザリーって演技が上手いのね。舞台をちゃんと見たの初めてだったけど、感動しちゃった」

「そういえばお嬢様の前でお芝居をしたことがありませんでしたね」

「でもちょっと妬けちゃうわ。あの相手役の女の人、いつも貴女にあんなふうに迫られるの?」


 口を尖らせるフロレンツィアにロザリーは苦笑した。今回のロザリーの役は、れやすく女とみればすぐに鼻の下を伸ばす恋多き青年騎士。ヒロイン役の女性に甘い言葉をささやき口説き落とすシーンはこの舞台のハイライトでもあるのだが、ロザリーを目当てにやってきた客たちの中には悲鳴を上げる者も多い。


(そういえば、ルートヴィッヒも同じような事言ってたっけ……)


 相手が女だろうと妻が別の人間を口説くのを見るのは複雑だと、今のフロレンツィアと同じような顔をしていた事を思い出し、ロザリーは思わず頬を紅潮させた。


「ロザリー? どうかしたの?」

「……! ああいえ、なんでもありませんよ」


 ぼうっとしていたロザリーは慌てて首を振ると、屋敷の中へと入った。扉をくぐるとふと、どこか慌ただしい空気が玄関ロビーに漂っている。おや、とロザリーは周囲を見渡した。いつも最低二、三人は控えているロビーに使用人は誰もおらず、遠くの方でぱたぱたと誰かが走っている音が聞こえる。


(? 何かあったのか?)


 ロザリーが疑問符を浮かべたまま、玄関に突っ立っていると、ようやく出迎えの使用人が一人顔を出した。


「あっ、お帰りなさいませ、奥様!」

「ただいま。ルートヴィッヒ様はいる? 確かエゴール様も今日到着しているはずなのだけど」

「っ……それが……」


 使用人がぎくりと気まずそうに眼を逸らした。そこに血相を変えた執事長のアドルフがやってきて、ロザリーを見るなり救いの神を見つけたかのように涙ぐむ。


「ああっ、奥様。おかえりなさいませ」

「ただいま、……あの、アドルフさん。何かあったんですか?」

「それは、その、……見ていただいた方が早いかと」


 含みのある言い方に、ロザリーはフロレンツィアと顔を見合わせる。なんだか腑に落ちないが、とにかく何があったのかを確認するために、ロザリーはアドルフの案内の元応接室へ向かった。



 その扉を開けた瞬間飛び込んできたのは、強烈な酒の匂いと調子を外した豪快な笑い声だ。


「あっはっは! ルートヴィッヒ! お前それは臆病が過ぎるというものだぞ!」

「……臆病、――俺が、臆病」


 いつもの応接間のソファに二人の男が向かい合って座っている。だが、そのどちらもがソファにしなだれかかっており、明らかに平常の様子とはいいがたい。


「そうだ! 夫ならば遠慮など必要ないだろう! 何を怖がっているんだ!」

「……俺だって、俺だってそう思ってるよ。でも、仕方ねぇじゃねぇか」


 いつもより陽気でテンションの高いエゴールに、片やいつもより陰気で覇気のないルートヴィッヒ。共通しているのは、お互い顔が異様なまでに赤い事と、いまいち呂律ろれつが回っていない事。


「うわっ、酒臭い! ちょっと! 何よこれ!」


 ロザリーの背から部屋の様子を覗き込んだフロレンツィアが鼻をつまんで顔をしかめた。


(これは、両方とも酔っぱらってるのか……?)


 昼間から酒をかっ食らうなど、とまあそれはひとまず置いておいて、二人とも相当に出来上がっているようだった。だが、肝心の酒は見たところテーブルに酒瓶が一本だけ。量もそれほど減ってはおらず、他にそれらしい空瓶も見当たらない。

 ロザリーがこの屋敷にやってきてから、ルートヴィッヒが酒をたしなんでいるところを何度か見たことがあるが、彼はそれほど酒に弱くはないはずだ。

 目の前の異様な光景に放心し、ロザリーはドアを開けたまま立ち尽くしていた。一方の二人はロザリーたちが現れたことなど気づかずに、高揚した様子で話を続行している。


「俺はあいつを怖がらせたくないんだよ! だって十二年も離れてたんだぞ! 怪我させた負い目もあるし、地味に年も離れてるし。あんな男勝りなくせして滅茶苦茶初心だし」

「ああー、あいつ男慣れしてなさそうだものなぁ」

「そうなんだ。俺がちょっと触れるだけですぐ赤くなって――」


 だが、話の内容が徐々に理解できるようになってくると、ロザリーは全身が沸騰するように熱くなった。


「な、な……」


 絶句するロザリーをよそに、目の据わったルートヴィッヒは熱弁を続ける。


「こないだなんか庭を散歩してる時に手繋いだだけで顔真っ赤にして恥ずかしがってたんだ。もう滅茶苦茶可愛くて、その場で今すぐ押し倒してやりたくなった」

「ほう、押し倒したのか?」

「するわけないだろ! でも我慢できなくてキスしたらとろけた顔して、あんなの反則だろうが!」

「それで?」

「それで我慢できなくて、その日の晩ベッドで――」


 ロザリーはもうそれ以上我慢が出来なくて、大股でルートヴィッヒに歩み寄ると、


「――何の話をしてるんだ! 馬鹿‼」


 彼らと同じくらい顔を真っ赤にしたロザリーは、まったく手加減せず夫の頭を強打した。


 ◆

 その日の朝は、ルートヴィッヒの知る限り人生で最悪の目覚めだった。頭が割れるかと思うほど痛い。強烈な頭痛と吐き気と倦怠感が同時に襲ってきて、ルートヴィッヒは顔を歪めて寝返りを打った。


「……?」


 腕を伸ばした先がひんやりと冷たい。大きなベッドにはルートヴィッヒ一人で、ここ最近目覚めればずっと隣にあるはずのぬくもりがない事に疑問を抱いた。


「――ロザリー?」


 ルートヴィッヒは無意識に妻の名を呼んだ。

 外は明るく小鳥のさえずりが聞こえる。清々しい朝のようだが、どう考えても昨晩床に就くまでの記憶がない。


「……っ、痛てぇ」


 脳内で鐘でも鳴らされている気分になって頭を押さえた。とにかく朝になったのなら支度をしなければ、と思い立ち呼び鈴を鳴らすといつもの使用人が身支度を手伝ってくれたのだが。


「なあ、ロザリーはどこに行ったか知らないか?」


 その使用人に尋ねると彼はあからさまにぎくりとして目を逸らした。その態度に嫌な予感を感じてルートヴィッヒは準備を急ぐ。

 まだおぼつかない足取りで食堂の方に向かうと、そこにロザリーと――昨日到着したフロレンツィアの姿があった。


「――おはよう」


 ルートヴィッヒが少し躊躇ためらいがちに挨拶をすると、


「……」


 何故かロザリーに無言でにらまれた。その目は明らかに憤懣ふんまんに満ちているので、ルートヴィッヒの腹の奥底がひゅっと冷えた心地がした。


「ロ、ロザリー……?」

「……」

「すまない……、その、昨晩の記憶がさっぱりないんだが、私は昨日一体何を――」


 尋ねようとした瞬間、ロザリーの目が一層吊り上がって、彼女の身体から怒りのオーラが噴出した気がして、いよいよルートヴィッヒは何か粗相をしたことに確信を持つ。

 ロザリーは勢い良く立ち上がるとルートヴィッヒと目も合わせずに退席しようとする。その後を妙に楽し気なフロレンツィアが追随し、


「ロザリーならしばらく私の部屋で寝るって」

「は……?」


 フロレンツィアはふふん、と鼻を鳴らして嘲笑あざわらった。


「昨日のあんたの醜態しゅうたいに愛想尽かしちゃったのかもね。ふふっ、心配しないで。ロザリーに寂しい思いなんてさせないから」

「おいっ、待て」


 どういうことだと追求しようとしたが、無情にも二人は出ていってしまう。ちょうどそこに入れ違いになる形でエゴールが姿を現した。


「……おはようございます」


 エゴールもまた青ざめた顔に掠れた声で調子がすこぶる悪そうだ。彼はルートヴィッヒの顔を一瞥いちべつすると、ばつが悪そうに唸る。


「ルートヴィッヒ殿、昨夜はその、申し訳なかった。俺のせいで――」

「あの、私は昨晩の事を何一つ覚えていないのですけれど」


 最後の記憶はまだ日も高いうちからエゴールの持参した酒を飲んでいた事だ。あれからさっぱり記憶がない。何をしていたのかも、いつ眠ったのかもわからない。


「俺は少しばかり記憶がある。……ああ、出来る事なら昨日の自分を殴り飛ばしてやりたい」

「とにかく事情を説明して下さい」


 やたらと自己嫌悪に陥るエゴールをテーブルに招き、二人は気付け薬として濃いブラックコーヒーを淹れてもらった。



 エゴールの話を聞くにつれ、ルートヴィッヒは顔をどんどん青ざめさせていく。


「つまり、昨日エゴール殿が持参した酒がとんでもないアルコール度数の代物で、二人仲良く泥酔してしまった、と」

「ああ、それで会話に火がついて不躾ぶしつけな事を言ってしまった――らしい。私も正直内容までは覚えていないのだが」


 エゴールはルートヴィッヒに対し、申し訳なさそうに眉を下げる。


「その件でロザリーがとてつもなく怒って、それで『ルートヴィッヒのことなど知らない』と妹の部屋に身を寄せたとか」


 それで今朝起きた時やけに布団が冷たかったのか、とルートヴィッヒは頭を抱えた。未だに酒の余韻が抜けきらない脳裏に、怒り狂っていた彼女の顔が思い浮かぶ。一体全体、自分は何を言ってそこまで彼女を怒らせたのか。


「とにかく、今回の件は不用意に貴方に酒を飲ませた俺の責任だ。ロザリーにも私から弁明するので……っ」

「いや、私の方こそ不甲斐なかったのです。エゴール殿だけの責任では……」


 とはいえ、ロザリーの機嫌を直すには相当に骨が折れそうだ。そのうえ彼女の側にはあの厄介なフロレンツィアがいる。ロザリーを愛している彼女が、ルートヴィッヒの失態に心踊らさないわけがない。

 ルートヴィッヒとエゴールは青い顔のまま、お互いに深いため息をついて俯いた。


「あの、旦那様……」


 そこに戸惑いを浮かべたアドルフがやってくる。なんだ、とげんなりした顔で返事をすると、


「気落ちしておられるところ申し訳ありませんが、その――来客が間もなく屋敷に到着されるとの一報がありまして」


 来客、とルートヴィッヒは一瞬目が点になったが、すぐさま思い出して全身からどっと汗が噴き出た。

 そしてそれは向かいのエゴールも同様で、


「し、しまった!今日はアヴリル嬢との見合いがあったのだった!」


 二日酔いとロザリーに嫌われたショックですっかり今日の予定を失念していた。慌てふためく男二人の元に、無情にも来客到着の報が届いたのだった。

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