第三話
それからしばらく、ルートヴィッヒとフロレンツィアの不毛な攻防が続いたものの、
「いけない、そろそろ出なくては。それでは行って参りますわ、お兄様、ルートヴィッヒ様」
上機嫌で町へと繰り出すフロレンツィアを見送ると、ルートヴィッヒは肩の錘が一瞬で外れたように脱力した。
「……何というか、申し訳ない。俺の妹が」
「いえ、……お互い様ですので」
ルートヴィッヒは仕切りなおすと改めてエゴールに向き直った。
「それで、エゴール殿――本題の件なのですが」
すると今まで呆れた顔つきをしていたエゴールの表情が途端に硬いものになる。彼にしては珍しい緊張した落ち着きのない表情に、ルートヴィッヒは図らずも笑いを堪えきれなかった。
「――会ってくださるそうですよ、アヴリル嬢」
「ほ、本当か⁉」
一転してエゴールは歓喜の表情を浮かべる。本当に、堅物の彼には珍しい表情の変化だった。
今日二人がわざわざ遠方のブラムヘンを訪れたのには理由がある。それはエゴールの用事で、フロレンツィアはただくっついてきただけだ。
事の発端は一か月前、ルートヴィッヒとロザリーの結婚式が行われてから、初めて貴族間でのお披露目のための晩餐会が開かれた時の事。この屋敷を会場にベルクオーレン家の一族や、王都官僚家の一族も顔をそろえ、盛大なパーティが開かれたのだ。当然そこにはロザリーの実家であるエルメルト家も参列し、執務に追われ忙しいカインの代理としてエゴールが参加した。
晩餐会は貴族の社交の場としても重要視される場所だ。そこで知り合った者同士が今後浅からぬ縁を繋ぐことも少なくない。
そんな中でエゴールは一輪の可憐な華に心を奪われた。
アヴリル=シルベストレ。
フォルテ王国西部に所領を有するシルベストレ家の令嬢で、実はベルクオーレン家とも遠縁にあたる。フロレンツィアと同年のその娘は父に連れられて社交場に姿を現した。
「初めまして、エルメルト様。アヴリル=シルベストレと申します」
宵の月のように輝く銀の髪と瞳。色素の薄い柔肌は透き通り、儚げな印象を見せる。言葉を交わしたのは僅かな時間だった。だが、エゴールはそのたった数分で彼女の虜となり生涯を共にしたいと強く思った。
「元々周囲からそろそろ妻を娶れとせかされていたからな。エルメルト家の後継ぎとして、後継者を残さねばならないし――」
結婚など己には縁遠い話だと思っていたエゴールは、一瞬にして心変わりをし、アヴリルとお近づきになれる手段を探った。そこで、遠縁であるベルクオーレン家に便宜を図ってもらおうと、ルートヴィッヒに頭を下げたのだ。
「面会にこぎつけるまで中々骨が折れましたよ。私も、ベルクオーレン家の中では少々立場が複雑なもので」
それでもエルメルト家の嫡男たっての願いであるという事を述べると、先方も手のひらを返したようにそれに応じた。これなら別にルートヴィッヒを介さずともエゴールが直接申し出ればよかったのでは、と思わなくもないが、それは結果論だろう。
何はともあれ第一関門は突破した。アヴリル嬢は明日の朝、父親と共にルートヴィッヒの屋敷を訪ねる手はずになっている。そこで正式な縁組を交わすために、エゴールと見合いをすることになったのだ。
エゴールは咳ばらいをすると、ルートヴィッヒに向かって頭を下げた。
「御助力に感謝する、ルートヴィッヒ殿」
「いえ、お二人の仲が上手くいくのなら、こちらとしても骨を折った甲斐があるというものです。是非、ご令嬢と有意義な時間をお過ごしください」
ルートヴィッヒに出来るのは場の執り成しとお膳立てまで。そのあと二人が上手くいくかどうかは二人しだいだ。とはいえ、
(シルベストレ家はベルクオーレンの遠縁とはいえ、地方の田舎貴族だ。王国官僚のエルメルト家が相手など、むしろあちらの方が願ってもない話だろう)
王都でも有数の侯爵家の嫡男に見初められたとなれば、少なくともシルベストレの当主は今頃小躍りでもしているはずだ。そんな様子を脳裏に描き、ルートヴィッヒは表情を曇らせた。
「……? どうかしましたか、ルートヴィッヒ殿」
「――いや」
ルートヴィッヒの表情が思わしくない事にエゴールが首を捻ったが、ルートヴィッヒは黙って静かに首を振った。しばし、気まずい沈黙が落ちたが、
「――、そうだ! 忘れていた」
不意にエゴールが立ち上がると、彼は自分の荷物の中から随分と仰々しい桐の箱を取り出した。
「今回迷惑をかけたお詫びに、これを持ってきたのだった」
そう言うとエゴールはその箱を開ける。中から顔を出したのは、
「酒、ですか?」
ガラス瓶に詰められた薄い琥珀色の液体。エゴールがそれを持ち上げると、トプンと中の液体が柔らかく波打った。
「ああ、これは東欧で醸造される伝統的な酒で、この間エルメルト家に出入りしていた商人が譲ってくれたものなのだ」
「へぇ、東欧ですか……」
「辺境伯殿にもおすそ分けしようと思い持参した。この地はワインが名産だが、たまには趣向の違う酒もよいかと思ってな」
「それはいいですね、是非いただきます。――そうだ」
ふとルートヴィッヒは部屋に控えていたアドルフを呼び寄せ耳打ちした。ルートヴィッヒの命を聞き届けたアドルフが一礼をして出ていくと、ルートヴィッヒもにこりとエゴールに笑いかける。
「エゴール殿。もしアヴリル嬢との縁談が上手くいけば、エルメルト家、シルベストレ家双方に利のあるものになるでしょう」
「そ、そう思うか……」
「ええ、ですので少し気は早いですが、男水入らずで細やかですが祝杯でもあげるとしましょう」
ほどなくしてアドルフが二組のグラスを持って戻ってきた。さっそくエゴールの持ってきた酒の栓を開けると、二脚のグラスにそれを注ぐ。
「ふむ……、香りはさほど強くなさそうだな。このまま飲んでもいいのだろうか?」
「ウイスキーと似たような感じですね。良ければ氷を用意しましょうか?」
「――いや、それは手間だろう」
こんな昼間から酒を嗜むなど、あまり褒められたものではないのかもしれないが、大切な義兄の吉事なのだからそれも許されるだろう。
「では、エゴール殿のご成婚を祈って、乾杯」
グラスをカチンと打ち鳴らすと、ルートヴィッヒは勢いよく酒をあおった。
こうして昼間から男二人の細やかな酒宴が始まった。
――のちにこの酒宴が惨劇を引き起こすなど、二人は思いもせずに。