第二話
◆
政務のため執務室に籠っていたルートヴィッヒは、積み上げられた書類を前に深いため息をついた。
「そのような浮かない顔をなさっていると、奥様に叱られますよ」
そう言ってコーヒーを差し出した執事長のアドルフは、ルートヴィッヒの心境をすでに理解しているのか、少し笑いをこらえているように見えた。
「アドルフ、お前他人事だと思って……」
「申し訳ございません。他人事でございますから」
冗談めかして笑う初老の男に、ルートヴィッヒは思い切り眉をゆがめた。
初日の公演を観劇に行ってから数日が経ったが、ロザリーは今まで以上に忙しそうにしている。ルートヴィッヒとて領主として暇なわけではない。だが、そんな自分より輪をかけてせわしなく働く彼女を見ていると、置いてけぼりにされたような気分になって少し寂しくなる。
「旦那様もすっかり奥様の尻に敷かれておられるようですね」
「私は尻に敷かれているつもりはないが」
「そうむくれなくとも。仲の良い証拠でございます。そうでなくとも、奥様は一筋縄ではいかないお人ですからね」
そう言えばここの使用人たちは結婚前のロザリーの事を知っているのだった。フロレンツィアの脅迫事件で、一度彼女と共にロザリーが従者としてこの屋敷に滞在していた事がある。一か月間という短い間であったが、あの日々を忘れる事はない。
「まさか、あの頃はフロレンツィア様ではなく、ロザリー様に求婚なさるとは我々も予想もできませんでしたが」
「なんだ? 私の判断が間違っているとでも?」
「そんな事は露とも思っておりませんよ。今の幸せそうなお二人を見て、この結婚が間違いなどと誰が思いましょうか」
表向きは王都官僚家の侯爵令嬢と南部領家の辺境伯との結婚。身分は釣り合っているものの、この結婚の裏には秘匿すべき真相と壮絶な根回しが絡んでいる。庶民の娘であったロザリーと、元下町ギャングのボスであったルートヴィッヒは、最も貴族の結婚からは縁遠い二人なのだ。
故に、二人の結婚に関して妙な憶測を並べ立てる者も少なからずいる。過去を掘り起こし非難する輩も出てくるだろう。ルートヴィッヒだけならまだいい、もしロザリーに火の粉が降りかかるような事態が起これば、ルートヴィッヒはどんな手を使ってでもそれを阻止するつもりだ。
(まあ、今のところはそんな心配はなさそうだが)
ルートヴィッヒは机上の書類を睨みながらため息をついた。常に世の情勢に目を配り、先の未来を推測する。自分たちの事だけではない。これから本格的に始動するベルクオーレン公国の独立に、他国との軋轢、戦争の是非。この平穏を守るためにルートヴィッヒが為さねばならない事は山の様にある。――のだが、
「いつまでもそのように浮かない顔をなさるのであれば、一度奥様にはっきりと仰ってはいかがですか?」
またしてもアドルフに心を読まれ、ルートヴィッヒはさらに眉間に皺を寄せる。
「何と言う気だ? 『寂しいから構ってくれ』と?」
「ええ。夫婦仲を円満に保つ秘訣は、『素直になる事』ですよ」
人生の先達にそう言われては、ルートヴィッヒはぐうの音も出なかった。
(そんな簡単に素直になれたら苦労はしない)
ルートヴィッヒはロザリーの事を愛しているが、その態度が素直で誠実であるかといえば決してそうとも言い難い。なにせこちらは十二年以上も半ば片思いの状態を続け、もう手に入らないのだと諦めの境地だったのだから。こじらせるのも当然だ。
ルートヴィッヒが言葉に詰まっていると、コンコンと誰かがドアをノックした。
「入れ」
入室を促すと、使用人が一人緊張した顔で立っている。
「旦那様、お客様がお見えになられています」
「ああ、……もう来たのか」
ルートヴィッヒが片方の眉を吊り上げると、アドルフも少し目を見開いた。
「随分とお早いご到着ですね。到着は昼時だとお伺いしていましたが」
「厄介者は到着が早いと相場は決まっている」
厄介者とはっきり述べると、アドルフも苦笑した。
「旦那様。奥様のご実家の方々にそれは失礼でございますよ」
「……兄の方だけならそれもそうなのだが、な」
残念なことに今から迎える者はルートヴィッヒにとってこの世で最大の好敵手。うっかり油断して隙を見せれば、何をされるか分かったものではない。
ルートヴィッヒは戦場にでも赴くような勇ましい足取りで玄関へと向かう。ロビーに到着していたその客人に粛々とお辞儀した。
「遠路はるばる、ようこそお越しくださいました。エゴール様――それに、フロレンツィア嬢」
そこにいた、自分にとっては義兄妹にあたる両名ににこりと微笑みかけると、
「辺境伯殿。お久しぶりです」
エゴールは硬いながらも真摯に返事を返し、
「お久しぶりですわね、ルートヴィッヒ様」
フロレンツィアは明らかにこちらを挑発するような言い方をして、仁王立ちでこちらを睨みつけた。
◆
広い応接間にルートヴィッヒとエゴール、そしてフロレンツィアが相対する。三者間の空気は冷ややかで、それでいて一瞬で暴発するかというくらい鋭い緊張が走っている。というのも、
「……なあ、お前たち二人、いつになればその刺々しい態度が収まるんだ?」
エゴールが呆れた様子で出された紅茶を啜っていた。
「あら、お兄様。刺々しいだなんて不本意ですわ。私たち、義兄妹として十分親交を深めあっているというのに」
「ええ、そうですね。フロレンツィア嬢がこの屋敷に来られるのも一体何度目になるか。私はもう数えるのをやめましたが」
その瞬間、ルートヴィッヒとフロレンツィアの間にバチバチと稲妻がはじける。エゴールは再び苦い顔でため息をついた。
ルートヴィッヒとフロレンツィアがなぜこんなにも険悪なのか、実のところエゴールは詳細を知らない。元々婚約者同士であった二人が、いつの間にか対等な好敵手となって、顔を合わせれば張り合っているなんて、周囲の人間からすれば何とも面妖な事だろう。
「そういえばルートヴィッヒ様はロザリーの舞台、ご覧になりましたか?」
「当たり前だろう。初公演の日に真っ先に彼女に招待された」
あの時、つまらなさそうにしていた事を脇に置いておいて、ルートヴィッヒはロザリーの晴れ舞台を感慨深く思ったし、彼女が自分に見に来て欲しいと声をかけてくれた事はたまらなく嬉しかった。それを聞いたフロレンツィアは僅かにこめかみに青筋を立て、
「そうですの。私は今日の午後観覧の予定ですわ。ロザリーにある約束もしてもらいましたし」
「――約束?」
「ええ、ロザリーが是非私にお願いしたいと言ったの。――ふふ、楽しみですわ」
フロレンツィアは含んだ言い方をして優雅に紅茶を啜った。今日のロザリーの公演はルートヴィッヒは観劇の予定はない。仕事が忙しいからと、朝彼女を見送ってそれきりだ。
(約束って何のことだ?)
そんな呟きが顔に出てしまっていたのか、フロレンツィアが得意げに鼻を鳴らした。
「良ければ一緒に来られますか?」
「……いいや、結構。執務も溜まっているのでな」
「では私一人で行ってきますわ。――そうだ、せっかくだし公演が終わったらロザリーと一緒に遠駆けにでも行こうかしら?」
その言葉にさすがのルートヴィッヒもピクリと眉を吊り上げた。このような反応をすると、彼女は益々つけあがる事は分かっているのだが、ルートヴィッヒもそこまで人間が出来ていない。
「フロレンツィア嬢。公演が終わって疲れている妻をそのように連れまわすのは夫としては感心しないな」
「あら、ロザリーはそんなにやわじゃありませんわ。それに、あの子は私のお願いはなんだって聞いてくれますもの」
「彼女にだって都合はある。遠方に嫁いで、念願の劇団を立ち上げた彼女をいつまでも君の我儘に振り回すのは、本当に彼女を大切に思っているのか?」
すると今度はフロレンツィアが目をひん剥いて黙り込んだ。強い敵意の視線をルートヴィッヒに向ける。ルートヴィッヒもまたその視線に応えるようにフロレンツィアを睨みつけ、
「――お前たちはいつまでたっても変わらんな」
二人の間でバチバチと火花が散っているのを、エゴールが呆れた様子で眺めていた。