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第一話

この物語は「聖騎士ロザリーは再び舞台に返り咲く」の後日談です。糖度は高め(当社比)

 空は快晴。ブラムヘンの町は今日も平穏な時がゆったりと流れている。


『ああ、うるわしの貴女。私の心は、いついかなる時も貴女にとらわれている』


 穏やかな空の下、凛とした声が響く。歯の浮くような睦言むつごとをすらりと述べるその者は、視線を逸らすことなく愛する女を見つめ膝を折る。


『私は今や貴女の愛の従僕じゅうぼく。この世のどんな富も、地位もいらない。私が欲しいのはただ一つ――貴女の御心』


 その者が静かに女の手を取り甲に口づける。流れるようなその動作に、観衆もうっとりと頬を染め愛を語らいあう二人の様子を見守っている。

 そんな観衆の一番後ろで男は一人ため息をついた。周囲に人がいなくてよかった、まあ皆前方に目を奪われてこちらのことなど見向きもしていないからいいのだが。


『どうか哀れな私に、貴女の愛をお与えください。慈悲深き女神、私を照らす光、私の――唯一』


 そして『彼』は女に愛の証として口づけを送るため、ゆっくりと顔を近づけた。ああ、なんて洗礼されて美しい所作なのかと、男はこんな時でさえ見惚れてしまった。――が、


「……はぁ」


 ここ一番に大きなため息が漏れて脱力した瞬間、『彼』が一瞬だけ男の方に目を向けた。ここにいる誰もが釘付けになっているこの華やかな舞台の上で、脚光を一手に浴びるその者が、その瞬間だけ素の『彼女』に戻るのを見逃さなかった。

 だがすぐにそれは掻き消え、『彼』は相手役の女に視線を戻すと、彼女の赤く色づいた唇に口づけた。――勿論これは振り。絶妙な角度で唇にしているように見せているだけだ。


(――本当に、何を見させられているんだ。俺は)


 周りの客たちが一様に黄色い悲鳴を上げたりもだえて顔を覆ったりする中で、男だけは憂鬱ゆううつな顔を隠さなかった。

 それもそうだ。

 演技とはいえ、何が楽しくて、自分の妻が他の女を口説き愛を与える場面を見なくてはならないのか。

 舞台が終幕を迎え、歓声が鳴りやまない中で、男――ルートヴィッヒ=ベルクオーレンは一人、心のない拍手を適当に送っていた。




 ブラムヘン領の辺境伯、ルートヴィッヒ=ベルクオーレンが公国独立に伴う政略結婚で妻を迎えてから半年が経った。領民から深く慕われる領主の婚姻とあって、婚礼は町を挙げての盛大なものとなった。町中でブラムヘンの領旗がはためき、あちらこちらで出店が賑わい、広場では催し物が開かれ、領民たちは酒を片手に語らいながら領主の晴れの日を祝ってくれた。

 領主の妻となったのは、王都で財務長官も務める名家、エルメルト家の令嬢。由緒正しい家柄と王都出身というはくが、辺境のブラムヘンの民にとって眩しく見えたのは想像に難くない。そして何より、


「初めまして、ブラムヘンの皆さま。ロザリーと申します」


 式典ののちに公の前に姿を現したその奥方は、凛とした佇まいに美麗な眼差し。どこか中性的な美しさに人々は一挙に魅了される。その辺境伯夫人の麗しさは一躍有名になり、誰もが二人の幸せを祈った。


 そんな夫人がある日、自らが座長を務める劇団を立ち上げるという噂が市中に流れ、人々は首を長くしてその続報を待ち望んだ。そして、晴天晴れ渡るよき日にそれはお披露目となった。

 新生『サン=ヴェロッチェ』の初公演。座長である夫人が務めるのは、誇り高く、そして恋に生きる凛々しい青年騎士。彼女の舞台の評判は瞬く間に町中に広がり、彼女の舞台を一目見るために大勢の市民たちが広場に詰めかけている。

 誰からもうやまわれる、美しく気高く、精悍せいかんな夫人。当然夫のルートヴィッヒとしても妻が市民に慕われることは喜ばしい事、――なのだが、


「おい、お前。今日舞台中に欠伸あくびしてただろ」


 舞台を見に行った日の晩、ルートヴィッヒがベッドに腰かけ本を読みながらくつろいでいると、寝支度を済ませたロザリーが、不満げな顔で睨んできた。

 昼間身にまとっていた騎士の衣装を脱いで、シルクのネグリジェに薄手のガウンを羽織った妻の姿はしどけない女性の姿そのもので、昼間あの舞台で大勢の観衆の前で女の役者を口説いていたとは到底思えない。あんな男然とした立ち居振る舞いをする一方で、役者の荷を下ろすと愛らしい妻となるロザリーをルートヴィッヒは目を細めて凝視した。


「なんだよ、欠伸しちゃ悪いのか?」

「……せっかくお前に舞台を見てもらいたいと思って呼んだのに」

「ちゃんと見てたよ。すごくよかった。短期間でよくあそこまで仕上げたな」


 ロザリーがこの屋敷にやってきてから、結婚式やら処々の準備でルートヴィッヒもロザリーも慌ただしい毎日を送っていた。そんな中で、ロザリーは念願の劇団の復活の準備も着々と進め、仲間を集め舞台をこしらえ、見事公演を成功させたのだ。

 ルートヴィッヒが激励すると、ロザリーは少し機嫌を直したのか頬を緩ませる。ルートヴィッヒは手元の本を閉じると、ロザリーに近くに来るよう手招きした。

 ロザリーは一瞬身を固くしたが、おずおずとルートヴィッヒの隣に腰を下ろす。肩と肩が触れ合うくらいの距離で、ロザリーは少し緊張しながら隣のルートヴィッヒに視線を送る。


「いいと思ってくれたならもう少し楽しそうにしてくれたらいいのに」

「俺が楽しそうじゃなかったって?」

「だってそうだろ? お前は――」


 まだ不満を漏らすロザリーに構わず、ルートヴィッヒは彼女の腰を引き寄せ腕の中に閉じ込めた。ロザリーは小さく息をのんでその身をますます委縮させる。


「なっ、何するんだ⁉」


 焦りと羞恥に顔を赤らめる妻が可愛くてルートヴィッヒは思わず口角をゆがめて笑った。正式に夫婦になって共に暮らすようになって半年が経ったが、ロザリーの反応は相変わらず初心うぶで可愛らしい。


「……綺麗だったよ、ロザリー」

「……っ」

「でも、お前が他の奴に愛をささやいているのを見るのは夫としては、な」

「え、演技だろ。それに相手は女――」


 ルートヴィッヒがロザリーのおとがいをそっと掴むと上を向かせた。頬を染めて少し潤んだ瞳でこちらを見上げる妻が、何を察したように息をひそめる。

 言葉はいらなかった。静かに唇を触れ合わせるとロザリーの肩がわずかに跳ねる。その肩をさらに深く抱いて、何度も角度を変えて彼女にキスを贈った。


「ふっ……、ぅ……あっ」


 ロザリーが苦しそうに呼吸をした隙を逃さず、舌を侵入させて彼女のそれに絡ませた。まだ慣れていない刺激に翻弄される彼女の一挙一動が愛おしくて、ルートヴィッヒの理性は簡単に瓦解する。

 そのまま彼女の身体をゆっくりとベッドに押し倒すと、真っ白なシーツに彼女の小麦色の髪が広がって、甘やかな花の香りが揺蕩たゆたいくらくらと眩暈めまいを起こさせる。


「ロザリー」

「――っ、だ、ダメだ!」


 ロザリーを組み敷いてその首筋に口づけようとしたその時、彼女は何とか手をすり抜けてルートヴィッヒを押し返す。掌で顔を覆われてルートヴィッヒは思わず呻いた。


「……ロザリー」

「きょっ、今日はダメだ! 明日も朝から稽古で、昼には公演がある!」


 妻は顔を真っ赤にしながらルートヴィッヒの下で必死に訴えを主張する。彼女の瞳には恥ずかしさと焦りと、――まあそれだけなら強行に出てもよかったが、その奥に僅かながら恐怖が浮かんでいるのを見て、ルートヴィッヒは大きなため息をついて脱力した。


「ご、ごめん……」


 申し訳なく謝るロザリーにルートヴィッヒは力なく笑う。


「謝るな。……そうだな、お前にとって念願の舞台だもんな」


『サン=ヴェロッチェ』が解散してから、ロザリーがどれだけあの華の舞台に戻りたいと切望していたか、ルートヴィッヒだってよくわかっている。


 劇団『サン=ヴェロッチェ』の再興。


 その悲願の一歩がようやく踏み出せたのだ。彼女がこの舞台にかけている想いは計り知れないし、ルートヴィッヒもそれを全力で支援する心積もりだ。

 でも、


(俺だって念願だったんだ)


 ロザリーと結ばれ共に寄り添って生きていく未来の確約を得たルートヴィッヒは、もう一秒だって彼女と離れたくないし、もっと彼女に触れたいし、愛したい。離れ離れになっていた十二年、恋焦がれた少女が今は自分の妻として傍にいてくれることに浮かれないはずもない。

 とはいえ、無理強いなんてもっとしたくない。

 ルートヴィッヒはロザリーの額に口づけると、己の欲を全て自分の中に押し込めて、


「……お休み」


 名残惜しさを断ち切るように布団をかぶった。

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