下
次の日。一時間目の休み時間になってすぐに教室を出た。僕の足は特別教室棟の一番奥、天文部の部室に向かっていた。二階にある職員室の奥の渡り廊下を抜け、特別教室等に入る。廊下を曲がってすぐの階段を三階分上がれば、天文部のある五階だ。
僕は息を切らしながら五階まであがり、左に曲がって一番奥の天文部の部室に入った。さんざん探して見つからないなんて、さすが亡霊と呼ばれるだけある、と心の中で愚痴る。スチールの棚を避けて部屋の奥にたどり着くと、そこにはいつも通り天城美空の姿があった。
「やあ、やっぱり今日も来たんだ」
ソファに座った彼女はその細い右手を上げた。制服のシャツの袖をまくることはせず、しっかりと手首のボタンでしめた彼女は、そのシャツのかっちりとしたシルエットのせいで余計に細く見えてしまう。
「あの、天城先輩」
「なに?」
僕は彼女に昨日のことを聞こうと、ソファの向かいに置いてあるパイプ椅子に座った。
「先輩も天文部だったんですか?」
「……誰から聞いたの?」
先輩の声がワントーン下がった。一昨日のような棘のある声だった。
「クラスメイトの、噂で」
「……ふーん。そう……」
先輩は足を組み替えて、ジッと僕を見た。
「そうだよ。私も天文部。元天文部、ってのが正しいか」先輩が言う。
「どうせ亡霊とかどうとか言ってるのも聞いたんでしょ」
僕は黙ってうなずいた。
「……はぁ……」
彼女は深いため息をついて、ソファに深くもたれかかった。
「ほんと、最悪」
先輩はその黒い髪をかき上げて、窓の外を見る。今日は薄曇りで雲の向こうに太陽がそのぼやけたシルエットを映していた。
「……」
「……」
先輩は黙ってしまって、部室に沈黙が降りた。僕はパイプ椅子に腰かけたまま遠くを見つめる先輩を見ていた。先輩は視線を窓の方から床に移した。僕の方を一瞬ちらりと見たが、すぐに視線を反らし、床板をじっと見つめる彼女のまつ毛はやはり長い。彼女は一度大きく息を吸い込み、吐く。そして頤を持ち上げて、下げた。
「あぁーーー!」
突然の大声に僕は驚いた。彼女は床を向いたまま、振り絞るように声を上げていた。普段、大きい声を出さないからか、その声はかすれていた。
「……話すよ」
掠れたままの声で彼女は言う。僕は頷いた。
「……私が一年生のころの話なんだけどね」
ひらひらと、落ち葉が落ちてきた。木枯らしはその名の通り、うっすらと色づいていた葉を完全に茶色にさせて、その風で葉を落とさせた。僕も夏服を着ることはなくなって、もうすっかり季節は冬への準備を進めていた。
スニーカーでアスファルトを鳴らしながら校門をくぐる。昇降口でペラペラの上履きに履き替えると、ひんやりとした感触が上履きから伝わってきた。夜の間に冷えたらしい。勢いよく締まる下駄箱の音に驚かされながら、教室の方へ伸びる廊下の方を見た。その奥では教師の声がまばらに聞こえる。もう授業は始まっていた。僕は珍しく遅刻をしたのだ。安い腕時計を見た。時刻は二時間目が始まって少し経ったくらいか。僕は声の聞こえてくる廊下に背を向けて反対側へ歩き出した。
足を浮かせるたびに、潰れた上履きのかかとが中途半端に浮いて、パカパカと床を鳴らす。その音を響かせながら、僕は特別教室棟の階段を上がった。
最上階の一番奥の部屋、天文部の部室を開ける。奥には天城美空が鎮座していた。
「明日は絶対に居てくれ、なんて言ってた割に、君が来るの遅いんじゃん」
開口一番にそんな皮肉を垂れた先輩は、自分でもその自覚があったのか、
「ごめん、ちょっと嫌味だったね」と言って笑った。
「体調は、平気?」
「はい」
僕をまっすぐ見てそう聞いた先輩は僕の返答に目を細めた。先輩はおいで、と手招きして先輩の隣のソファの空いているところを叩いた。ホコリが立つ。僕はおずおずと先輩の隣に腰かけた。案外柔らかいソファの感触がお尻を包んだ。
「意外と座り心地いいでしょ」
そう言った先輩に僕は頷いた。
「眠い?」
「いえ、あんまり」
「寝れたの?」
「寝れては、ないですけど」
そんな会話を交わすと、先輩はそっか、と呟きその体を僕の方に向けた。しゅるり、とソファとスカートが擦れる音がする。
「君が良ければ、だけど」
そう言って先輩は自らの膝の上を指示した。
「……え?」
僕がその意味が分からず困惑していると、先輩は眉をひそめて膝を叩いた。
「もう、察しが悪いなぁ。膝枕だよ、膝枕」
僕は思考を停止させた。先輩の顔と膝を交互に見比べて、もう一度、え? と呟いた。
「……はぁ。……寝れないんでしょ? 膝枕貸してあげるから、ちょっと寝たら、って言ってるのっ!」
その先輩の言葉に先輩の太ももを凝視してしまう。藍色のスカートの奥にある感触を想像して、僕は生唾を飲み込んだ。先輩の顔を見た。彼女の顔は真っ赤に染まっていた。
「……じゃあ、失礼します……」
「……」
申し訳なさと、ほんの少しの興奮を覚えながら、僕は体を横たえて、頭を先輩の膝の上に乗せた。先輩の太ももはその腕同様に細く、骨ばっていた。決して寝心地がいいとは言えないが、その分安心するような匂いが鼻をくすぐった。
そうしているうちにだんだんと眠気が来て、僕は目を閉じた。意識が微睡んでいく中、僕は昨日の先輩の話を思い起こしていた。
天城美空が一年生だった時には我が天文部は普通に活動していたようで、放課後は部員たちで集まり楽しく話しながら天体などについて調べるという至って健全な部活だった、と天城美空は語った。天体観察のためにキャンプが企画されたり、文化祭では部員たちで調べた内容を発表するという、ウチの学校でも比較的活発な部類に入る部活だったようだ。
しかしそれは当時の部長が極めて意欲的な人だったから、という側面もあり、その部長たち三年生が引退してからというもの、だんだんと活動は縮小していったそうだ。引退した先輩たちの意を汲み、そのままの規模で活動を続けようとするもの、天文部をたまり場として利用しようとする意欲のないもの、大きくはその二つに二分された。当時一年生として部に所属していた天城美空は、どちらかと言えば前者よりの考え方だったらしい。
そして、その二つの考え方で対立した生徒たちの間には当然のことながら、軋轢が生じた。
「もともと仲がいいってわけでもなかったのよね」
そう言って、先輩は一旦語るのをやめた。その当時の天文部は三年の部長が絶対的なカリスマでまとめていただけで、その力がなくなってしまえば空中分解するのも当然と言えるくらいの関係性だったらしい。
「私は部活をちゃんと続けたいっていうグループの、なんていうのかな、旗頭、みたいにされちゃってさ」
伸びを一つしてソファを軋ませて、彼女は再び語りだした。
「二年生の、部室をたまり場にしたいってだけの先輩たちとの争いの矢面に立たされちゃったんだ。まあ、半分くらい自分からそうしたってところもあるけど……」
そう言って彼女の言葉はまた途切れた。
「それでさ……、ある日ね……」
間を開けて、再び言葉を紡ぎ始めた彼女の声には、涙が混じりだしていた。彼女の鼻をすする音だけが部室に響く。眼から零れだした涙が彼女の頬を伝った。
「え、あ、あの……。辛いなら話さなくても……」
急に泣き出してしまった彼女に僕は困惑した。
「……いいの。君には聞いておいて欲しい」
ひと際大きな音で鼻をすすって、彼女は僕の方を向いた。涙で彼女の長いまつ毛は濡れ、人中は鼻水で光っていた。
「先輩たちと言い合いになって、やる気ないならやめろ、とか煽っちゃってね」
先輩は深呼吸を一つ。
「激昂した先輩に突き倒されてね。ほら、この部室、そこの棚が目隠しになってて、しかも最上階の一番奥でしょ。その時たまたま二人きりだったから、魔が差したのかな。制服のボタンを引きちぎられてさ……」
「――」
僕は息を呑んだ。
「私がすぐに大声を出して、たまたま化学準備室に居た先生が駆けつけてくれたから、未遂で済んだんだけどさ」
自分の腕を抱えた彼女の白い手の甲はわずかに震えていた。
「それが原因でね、天文部の活動は無期限の休止。私はトラウマで学校に来られなくなって、しばらく引きこもり。ほんと、最悪だよね」
彼女は最後にはぁ、と大きなため息をついて、また窓の方を向いた。
「これが私が亡霊って呼ばれる理由。言っとくけど、私のせい、っていうか私がかかわったことで部活が給仕になってるけど、それ以降幽霊部員ばっかりなのは私のせいじゃないからね。むしろ、やる気のない君たちの責任なんだから」
先輩は鼻息荒く最後にまくしたてた。
「って、あれ。なんで君が泣いてんのさ」
僕の方を見た彼女に指摘され、僕は自分がが泣いていることに初めて気が付いた。
「あ、これは……。すみません……」
「君が謝ることは――。いや、ありがとね」
そう言って彼女はソファから立ちあがり、僕の頬の涙を彼女のその細い指で拭った。
「あーあ。ほんとは話すつもりなかったのにな」
先輩は笑う。
「なんか恥ずかしくなってきた。ハダカ見せた感じ」
先輩の頬が赤く染まる。そう言われ、こちらも恥ずかしくなってきてしまう。
「君も見せてよ。ハダカ」
「え……、は、裸?」
僕は先輩の過激な発言に言葉を詰まらせた。
「……脱げってんじゃないよ。ただ、君の弱みも知りたいなって」
そう説明する先輩に、僕は胸を撫でおらした。
「弱み、ですか?」
「そう。君にだって一つや二つあるでしょ。人には言ってないこと」
「……僕は」
そう先輩に言われて、一つだけ心当たりがあった。しかし、それを言ってしまっていいものか、先輩が抱えているものに比べてばかばかしすぎるんじゃないかという不安、と言うか後ろめたさがあった。
「いいよ。聞く」
先輩は芯の通った声で言う。
「僕は――、不眠症なんです」
薄らと目を開けると、辺りはすっかり暗い。窓の外には痩せだした月が浮かぶ。
「……何時ですか?」
僕は先輩の膝から頭を上げて、ソファに座り直した。こんな暗くなるまで、先輩は僕のことを膝枕していたというのだろうか。せいぜい寝れても数十分が関の山だろう、なんて思っていた数時間前の自分を殴りたくなった。いや、十数時間経っているかもしれない。
「すみませ――」
「ごめんっ!」
僕が謝ろうと声を上げた瞬間、先輩は勢いよくソファから立ち上がり、部室から飛び出していった。
数分して。
「ごめんごめん。ずっとトイレ我慢しててさ」
たはは、と先輩は笑いながら部室に帰ってきた。
「すみません……。こんな時間まで寝れるとは思わず」
僕は申し訳なさでいっぱいになった。
「我慢するくらいだったら、頭押しのけてもらってよかったのに……」
僕が呟くと、先輩は優しい笑みを浮かべて言った。
「いやあ、あんまり君が気持ちよさそうに寝るもんだから、どかすにどかせなくってさ。案外私、膝枕の才能があるのかも。始めよっかな、膝枕屋」
女性限定で、と付け足して先輩は笑った。僕は苦笑を返した。
「それに、ゲームとかスマホで時間も潰せたし」
ソファに座り直した先輩の距離がやけに近い。今までゼロ距離で密着していた弊害だろうか。先輩の薄い肩が、彼女が身じろぎするたびに僕の腕に当たった。
「私もさっきまでウトウトしてたんだけどさ。前かがみになっちゃって、苦しくなかった?」
「いや、別に……」
ふと、先輩の顔を見るとさっき以上に顔を赤く染めていた。僕はその理由を探し、一つ思い当たった。前かがみということは、彼女の胸やお腹が僕の顔に押し付けられていたということではないだろうか。それなら、彼女が照れるのにも納得がいった。僕は顔が熱くなるのがわかった。そのときに目を覚まさなかった自分を呪った。
「それで、君は良く寝れた?」
「はい。おかげさまで」
その赤面をごまかすように早口で聞いてきた先輩に、僕は赤面のまま答えた。その言葉通り、僕の頭はやけにスッキリしていた。
「そっか。それならよかった」
先輩は小さな声でそう言った。
「それでさ、絶対に今日来てくれ、って言ってたのって、なんだったの?」
「あ」
僕はその言葉に今日の目的を思い出し、急いで時間を確認した。
「なに?」
「今日、オリオン座流星群があるんです。一緒に見ようと思って……」
「あ、そっか。今日が極大なんだっけ」
先輩と会える二時間目の天文部の部室で誘おうと考えていたら、結局そのまま見ごろの時間になってしまった。
「いいよ。せっかくだし、学校で見よっか」
いたずらっぽく笑った先輩は部室の外を指さした。
「来て。いいところがあるんだ」
先輩は僕の手を握った。骨ばった指が僕の指に絡まる。その手が僕の腕を引く。先輩のブラウスの袖から先輩の手首が見えた。薄茶色の傷跡が覗いた。
「どこに行くんですか?」
「いいから」
そう言って僕たちはスチールの棚をよけ、部室の外に出た。夜更けの学校の廊下は静まり返っていて、気味が悪いくらいだ。窓から月明かりが差し込んで妙に明るいのが、その気味の悪さを打ち消していた。
「こっち」
先輩は僕の手を引いた。そこは普段は立ち入り禁止の屋上に続くドアだった。
「あれ、鍵は……?」
先輩は鍵がかかっているハズのそのドアを開けて、屋上へと僕をいざなった。
「結構前に開けといたんだ。この階見回りもないし、一回開けちゃえば気づかれるまではそのまんま」
「へえ」
一陣の風が吹き抜けた。流石にこの時期のこの時間ともなると、身に染みるような冷たさだった。
「あー……、結構寒いね。やめとく?」
苦笑を浮かべて言う先輩に、僕は首を横に振った。
「これ、着てください」
僕は冬服の上着を脱いで先輩に渡した。寒さがより身に染みるが、我慢できないほどではなかった。
「え。いいの……?」
僕は黙ってうなずいた。先輩はおずおずと僕の制服を着こんで、ボタンを閉めようとして、合わせが男女で左右逆だからか手こずりながらもボタンを締めた。華奢な先輩が着ると、大してガタイの大きくない僕のものであってもぶかぶかだった。
「見えるかな……」
先輩は空を見上げて呟いた。
「晴れては、いますね」
「……うん」
僕は空を見上げながらも、なんで先輩が屋上の鍵を開けていたのかが気になっていた。よからぬ想像が加速する。
「星、あんまり見えないね」先輩は言う。
「月がまだ太ってますからね」
「……そうだね」
先輩は手を伸ばし、その細い指で月を隠すしぐさをした。僕もそれを真似て月を指で隠してみる。親指でくしてしまえる小ささに見える月も、38万キロメートルも離れているからそう見えるだけで、実際は地球の4分の1の大きさだ。
どんなに大きなものでも、離れてしまえば小さく見えるのはこの世の理で、まるで先輩と僕のようだと、少し思った。
「屋上、開けておいてよかったな……」
先輩が呟く。僕の妄想はその一言で霧散した。もう、きっと、先輩はこの屋上をよからぬことで使うことはもうないだろう。そんな予感がした。
「そういえば、こんな時間にここに居て、家の人は大丈夫なの?」
先輩が先輩らしいことを言う。すっかりそのことを失念していた僕は、スマホを取り出してラインを開く。やはり親からメッセージと着信が何件か入っていた。そのほとんどがどこにいるのか、ご飯はいらないのか、という内容だった。僕はそれに、『友達の家に急に泊まることになった』と、メッセージを返して、スマホの画面を閉じた。
「大丈夫でした」
「そっか。これで、君も私も晴れて不良ってわけだ」
不良か。彼女の言い回しを噛みしめる。なんだか悪くない気がした。
「あ!」先輩が空の一角を指さした。
「見てた?!」
先輩がぼっくの方を見て嬉しそうにはにかんだ。僕は注意がそれていて見ることはできなかった。僕は首を横に振った。
「なあんだ」
先輩はまた空を見上げた。
「あっ!」
「あ」
今度は先輩と僕の声がそろう。
「流れたね」
「流れましたね」
先輩と僕は顔を見合わせて笑った。
「……生きててよかったこと、あったかもな」
夜に溶けるような小さい声で先輩が言った。先輩の細い指が僕の指に絡む。いつの間にか僕の手は冷えていて、先輩の掌の熱がじんわりと僕をほぐした。
「次見れる大きい流星群はふたご座流星群かな」
先輩は僕の眼を見て言う。
「もう次の話ですか?」
「自殺の話するより健全でしょ」
「……まあ、そうですけど」
先輩の指がもぞもぞと僕の手の中で動いた。
「ここでクイズ! ふたご座のα星は?」
「カストル、ですか?」
「そう、正解」
唐突に始まったクイズに僕は答える。
「カストルってさ、連星なんだよね。ふたご星ってやつ」
そんなトリビアを披露する天木美空は楽しそうだった。彼女と出会ってから今までで、一番生き生きとした表情をしているかもしれない。
「すごいよね。ふたご座の星がちゃんと双子なんだよ。キャラ守ってて偉いよね」
そう言って先輩は笑いながら空を見上げた。
「連星って、運命共同体なんだよ。お互いの重力に引かれあって、最後は衝突して超新星爆発。すごいよね、宇宙って」
僕はその言葉にふたご座を探した。オリオン座の左上に見えるはずだ。連星。お互いの重力に引かれあう星。僕らのことのように思えたが、それも少し違うかと思い直す。僕は先輩の重力に引かれているが、彼女は一体どうなんだろう。手を握ってくれるその気持ちが、決してマイナスなものではないのはわかるが……。
「流れ星も見れたし、戻ろうか。冷えちゃった」
「はい」
しばらく空を眺め、僕と先輩は手を繋いだまま部室に戻った。
葉桜がまだ冷たさを孕んだ風に揺られる。枝に残った花弁が風に乗って宙に舞う。ふわりと着地した先にはアスファルトを埋め尽くす、先に散っていった花弁たち。アスファルトの上に桜色の絨毯を作り上げる。
あれから、数か月が経った。先輩は出席日数が足りずに留年。僕と同学年として春を迎えることになった。先輩――いやもう同学年だから美空さんと呼ぶべきだろうか――は何の因果か、僕と同じクラスになった。
「礼二。行こう」
「はい」
放課後になると、僕の席にやってきて、美空さんは親指で後ろを指し示し僕に離席を促した。美空さんと連れたって特別教室棟に向かう。職員室の奥の渡り廊下を抜け、特別教室棟の階段を上がる。天文部の部室には相変わらず誰もいない。ここで下校時刻になるまでだらだらとするのが僕たちの日課になっていた。天文部は相変わらず幽霊部員ばかりだ。見学に来た新入生たちも、最初のうちは部室に顔を出していたが、僕たちのやる気のなさを見てだんだんと参加しなくなっていった。今じゃ、気が向いたら来る、という者が四人いるかどうか、というくらいの規模だ。
気まぐれを起こした何人かがこの部室に来る日は、美空さんは決まって来ない。やはり、この部室で他人と会う、というのがトラウマのせいで難しいようだ。ではなぜ僕ならいいのかというと、その答えを本人に聞いてみても誤魔化されてしまって一向に分からなかった。
「今日は、これかな」
美空さんは棚から星にちなんだボードゲームをとりだしてテーブルに広げた。以前、家庭向けのハードでテレビに繋いで遊んでいたところ偶然教師に見つかり――音量が急に大きくなってしまって、その音でバレたのだ――危うく廃部となるところだったが、その犯人が学校にとって強く出にくい天城美空ということもあって、教師陣は強く出れず、天文部らしいゲームであれば許す、いうぬるい処分になったのだった。
「好きですね、それ」
「面白いでしょ?」
「いや別に」
「なんだと!」
なんて平和なやりとりを交わして、僕たちは下校時間になるまでそのボードゲームに熱中した。
日もすっかり沈み、下校時間になった。僕と美空さんは昇降口で外履きに履き替え、手を繋いで校門を出た。
無言で歩く美空さんの横で、僕はいつものように妄想する。もしも今、隕石が落ちてきたら。そうしたら多分僕は、周りの連中が絶望に泣き叫ぶ中、その時になってようやくこう言うだろう。
――美空さん、あなたが好きです。
と。